邂逅
出産一週間後に退院はしたものの、床上げは済んでいない燐子は、一月十九日に来るのだと言う来客に会う為に、身繕いをしていた。
寝ている様に、と紅子からは言われていたのだが、御祓いという意味では参加した方が良い、という様な趣旨の事を綜一から言われ、何と無く断れなかったのである。
生まれて初めて髪をこんなに短くした、というくらいのショートヘアに、紅子にプレゼントされた新しいアイボリー色のセーターを着て、産後愛用しているロングスカートを穿いた。
―だって、黒い、あの塊が、…『あれ』が、力を持っちゃうんでしょ?
効力の有無は兎も角、御祓いはしたい、と、何と無く思ってしまう燐子なのだった。
詳細の説明は省かれているが、綜一の郷里から遠縁が来て何らかの儀式をしてくれる、という事らしかったので、単純に、純粋な興味としても、其の人物達を見たかった。
絶対に座っている様に、と紅子に厳命された燐子は、早めの昼食を済ませると、畳敷きの仏間に出された椅子に腰掛け、飛鳥を抱いて来客を待っていた。
正午になって、玄関先が俄かに騒がしくなった。稍あって、仏間に入ってきた二人の人物の備えた麗質に、燐子は度肝を抜かれた。
―何の説明も無いけど、吉野綜一の遠縁で間違いないわね。こんな綺麗な人間が家の中に何人も居るなんて、…却って不気味なくらい。
竜胆の花を思わせる様な、青い、上品な訪問着を着た二十代半ばくらいのスラリとした女性は、束ねられた長い髪を揺らしながら、高校生くらいの、白装束を着た長身の男の子の腕を引っ掴んで、引き摺る様にして仏間に入って来た。
「痛ぇ。テスト勉強中なのに酷ぇ。何が罰ならテスト前に東京やら来んといかんとけ」
燐子には、テスト前だという事くらいしか聞き取れなかったが、男の子は、見た事も無い程整った横顔を歪めながら、方言丸出しで、女性に対して不平を言ったらしかった。
「悪かったって言ってるでしょ、岐。口が堅くて信頼出来る伶人が、あんたしか居ないのよ。後で何か買ってあげるから」
男の子の腕を離した女性は、色っぽい垂れ目を伏せながら、ツン、とした、訛の無い言い方で、頼むわよ、と言った。
男の子は、清涼と表現しても良いくらいの容貌に似合わぬ、子供っぽい、拗ねた表情で、じゃあ、もうちっと説明せんな、と言った。
「サキ、此処は何処?」
「外では向子大叔母さんって呼びなさいったら」
割合抑えた声で、其の様な言い合いをしていた二人は、燐子に気付くや、態度を改め、近くまで来ると、燐子の足元に正座し、丁寧に一礼した。
「実方向子と申します。本日は宜しく御願いします」
「実方岐顕と申します。御邪魔しております」
岐顕と名乗った男の子は、顔を上げ、飛鳥を見るや、わぁ、可愛いですね、と、小さな声で言って、形容し難い程魅力的な微笑みを向けて来た。
先程と違い、言葉に訛の一つも感じられない。
―大して顔立ちは似てないけど、骨格とか、此の明るさとか、間違いなく『綺麗なオジサン』の血縁って感じ…。此れは凄いわ。何かキラキラしてる。
ふと、燐子は、顔が遺伝という名の呪いだという綜一の話を思い出した。
何処に在るのかは分からないが、確かに、謎の隠れ里というものが在って、こういう人間が住んでいて、綜一が其処の出身だ、という事が納得出来る様な容姿の良さを、来客たちは備えていた。
恐らく其れは天性のものなのだろう。
飛鳥は泣きもせず、無表情で、ジッと来客の方を見詰めている。
向子は、飛鳥に微笑み掛けてから、何かに気付いた様子で言った。
「…あら。玉が見えるわ。幸ふ玉、という感じ。…三つ」
御子さんは、あと二人授かるかもしれないわね、などと、燐子には分からない事を言って、向子は、長い睫毛に縁取られた美しい瞳を、優しそうに細めた。
何を仰るやら、と燐子は不思議に思ったが、余りにも美しい、其の微笑みが優しそうに思えたので、全く嫌な気持ちはせず、はぁ、と言った。
「あの…。吉野倫子です。宜しく御願いします。こっちは娘の飛鳥。十一日に生まれたばっかりで。えっと、今日は、御祓い?して頂けるんですか?」
岐顕が、え?と言った。
「…御祓いだったら、俺必要ないよね?御祓いの横で天吹吹いてたら邪魔じゃない?」
秘儀だからね、と向子が淡々と言うと、嘘やろ、と、岐顕が言った。
「え…秘儀、継承されてたの?…俺、何も聞かされてないけど?」
驚きを隠せない様子の岐顕に、向子は、もう一度、抑揚の無い声で、秘儀だからね、と言った。
「継承ったって一部分だけどね。どれだけ元の形が残っているかは未知数だもの。あんたの笛の方が未だ継承が上手くいってるくらいだからね。其れを、頭を寄せ合って再構築しましょうっていう、情けない集まりなわけよ、今日は。真名も未だ分かんないし。遣らないよりは百倍良いんだけど」
古過ぎて伝承されてないってのは辛いわね、と言い添える向子に対し、岐顕は裏返った声で尋ねた。
「サキ…真名って何の話?え、今日、何なの?」
此の人物が、麗しい顔に似合わず、時にコミカルな動作や剽軽な物の言い方をするところが、何と無く綜一を思い出すな、と燐子は思った。
しかし向子は、岐顕の戸惑いを無視するかの様にキッパリと言った。
「ま、悪いけど身内にも殆ど話せてないのよ。実は私、最後の巫女なの」
「…え、そんな大事な事、今言う?俺、次の四月で高二だけど?よく今まで隠してたね?」
「大事な事だから今しか言えないの。ま、此れで分かったでしょ」
「…口の堅い、信頼出来る伶人が必要、か。トップシークレットじゃん…」
説明不足にも納得したけどさ、と、岐顕が肩を落としていると、玖一に伴われて、腰を抜かしそうに立派な、白装束の老人が仏間に入って来た。
「彦じぃ」
彦じぃも来たの、と、驚いた様に問う岐顕に対して、老人は悪戯っぽく、ニヤリと笑った。
六十代くらいの人物なのだろうか、黒い髪の中に、白髪の束と、殆ど金髪に見える淡い色の髪の束が髪の束が旋毛から放射状に生えている。
白髪にメッシュでも入れたのかと思うくらい美しいが、余りにも自然なので、如何やら、黒髪の色が次第に抜けていく体質らしい。
老人も、先客二人同様、燐子の足元に正座して、見事な一礼をした。
「初めまして、実方顕彦と申します」
「吉野倫子です、初めまして」
老人の大きな瞳に、うわ、と燐子は思った。
目以外は向子に何処と無く似た美しい顔立ちの中で、クッキリと大きな其の目が、何もかもを見通す様に、真っ直ぐ此方を見返してくる、其の様子が、燐子には既視感が有った。
―こんな人、見忘れないと思うんだけど。でも、何だろう。子供みたいな表情。
此れまた好感の持てる様子で、燐子は、初対面の筈だけど、と思いながら、立ち上がって一礼しようとした。
しかし、顕彦と名乗る人物は、其の儘で、と言った。
「床上げも御済みでない所に大勢で御邪魔して申し訳ございません。改めまして」
顕彦は、玖一に向き直って、居住まいを正した。玖一は、此れは此れは、と言って、自身も老人に向かって正座した。
向子と岐顕が、ザッと、玖一の方に向かって正座し直し、居住まいを正した。
「実方本家当主、実方顕彦と申します。此方は娘の向子と、曾孫の岐顕」
双方が、宜しく御願いします、などと言い合っている所へ、白装束姿の綜一が、紅子と、同じく白装束姿の紘一、そして、見知らぬ、美しい白い訪問着の婦人を伴って仏間に入って来た。
「先生?」
綜一が、急に、子供の様な泣き顔になって、顕彦に駆け寄って来た。顕彦は立ち上がると、自分と同じくらいの背丈の、長身の綜一を、まるで小さい子供にする様に抱き締めた。
抱き締められた綜一は、信じられない事に、えーん、と泣いた。
燐子の目には、綜一が一瞬、幼い子供に戻ってしまった様に感じた。
紅子は、驚いた様に其の様子を見た後、そっと燐子に近付いてきて、飛鳥を抱き取ってくれた。
飛鳥は大人しく紅子に抱かれながら、周囲の様子をジッと見ている。
幾らか落ち着いてから、綜一は、凄い、と言った。
「先生、本当に今年八十五歳なの?俺と変わらないみたいに見える」
紅子と玖一と燐子は、思わず、声を揃えて、八十五?と復唱してしまった。
驚いた飛鳥が、ふぇ、と泣き出したので、紅子が慌てて飛鳥を優しく揺すった。
綜一は飛鳥に向かって、ごめんね、と言ってから、えへへ、と笑って言った。
「尋常小学校一年生の時の担任の先生だったんだ。大好きだったの」
そういう事なら八十五歳で計算が合いますが、と、玖一は、目を白黒させながら言った。
燐子には、俄かには信じ難い話だった。
―八十五?何なら、六十七歳だった頃の、あたしのおじいちゃんの方が年寄りに見えるかも。
顕彦は、へへっ、と笑い返しながら言った。
「そうかぁ?まぁ、未だ開脚は出来るぜぇ。毎日柔軟やってら」
「相変わらずですね、先生。俺より体が強いや」
足の腱切れないの?と綜一が言うと、ルーティンなんだよ、と顕彦は言った。
凄い、と燐子は思った。
二人の間に流れていた筈の、離れていた時間が、急に消失してしまったのだ。まるで、昨日も話していた様に話している。皆で、過去も現在も未来も関係無く遊ぶの、という、嘗ての綜一の言葉を、燐子は思い出した。
此の二人の間には、時間が存在しない様に思え、燐子は、ふと、紅子の方を見た。
複雑そうな顔で、様子を見守っている。
何と無く其の気持ちは分かる燐子だった。紅子の知らない綜一の時間が、其処には在るのだ。二人の間に誰も入れない様に感じる。其れは紅子も同じなのだろう。
「そうだ、紹介するぜぇ。うちの娘と曾孫だ」
顕彦の言葉に、今度は、綜一と岐顕の目が合った。
目が合った二人の目は、みるみるうちに涙で満たされた。
そっくりだ、と岐顕が言って泣いた。
此の子は、と言って、綜一も泣いた。
おう、と言って顕彦が笑った。
「御前の兄貴の曾孫だよ。あいつの息子の、更に娘の忘れ形見だから、女系の子孫だが」
え?と綜一は聞き返した。
「あれ?俺の遠縁なの?辰ちゃんの孫、とかじゃなくて?」
「いや、辰顕に、そっくりだとは俺も思うけどよ。あいつ子供居ねぇだろ?実際は、うちの長男の貴顕の孫なんだよ。だから俺の曾孫だ。辰の従弟の孫だな。貴の嫁さんが清水分家の人だったせいか、清水の血が強く出ちまったのかな。ほら、お景さんの若い頃に似てるだろ?」
「え、貴ちゃんの孫なの?…うん、確かに、お景さんにも似てるけどぉ。辰ちゃんの従弟の孫にしては、辰ちゃんに似過ぎじゃない?」
何時の間にか泣き止んでいた岐顕が、親戚トーク一回ストップ、と言った。
「親戚多過ぎでしょ?一回挨拶させてよ。どれが誰なの?ただでさえ、身長横並びの白装束の人間が集まってて、何か皆何処と無く似てるし、訳分かんないよ」
恐らく、其の場に居た全員が、御尤も、と思ったのだろう、椅子に座る燐子以外の全員が仏間に正座した。改めまして、と紘一が言った。
「坂元分家が長子、紘一。此方、妻の成子と申します」
ええっ?と岐顕が言った。
「え…坂元分家って…。成子さん、って…。え、両方、行方不明の筈じゃ…」
ごめんね、と、紘一が淡々と言った。
「初めまして、岐顕君。実は、うちの両親が隠れ里を出た後、織機の会社を起業してさ。今は自動車会社になったから、俺が坂本自動車の会長なんだけど」
あの大企業の?と、岐顕は裏返った声で言った。
其れだよ、と紘一は軽く言った。
「そう、多分君が言ってる、其の会社。成子は、里を出た後、うちで苗の神教から匿って、俺の嫁にしてたんだ。だから従兄妹婚になっちゃったけど」
初めまして、と、華やかな容貌の成子夫人は気不味そうに言った。岐顕は、あ、はい、と、拍子抜けした様に言った。
顕彦が笑って言った。
「俺の兄貴の娘が坂元本家に嫁いで生まれた娘のが成子なんだ。俺の姪っ子で、治の大伯母だ」
「は、治の?」
岐顕は素っ頓狂な声を出したが、顕彦は明るく、治にも秘密な、と言った。
「向子の巫女装束の着替えを手伝ってもらう為に成子にも来てもらったんだよ」
はぁ、と、呆れた様に言う岐顕の事を、燐子は次第に気の毒になって来た。
如何やら、テスト前の高校生らしい此の人物は、察するに鹿児島から、何の説明も無く上京させられ、此の場に臨まされているらしい。
此れ程驚かされっぱなし、という時点で、燐子達とも其れ程状況把握の程度が変わらないのであろう事は、想像に難くなかった。
しかし、其れでは、と言って挨拶した綜一の言葉に、仏間は水を打った様に静かになった。
「改めまして。第十一代苗の神教当主、瀬原修一が次男、瀬原周二と申します。…どうぞ御内聞に御願い申し上げます」




