家族
挙式の直前、綜一が、燐子に、大きなルビーの髪飾りを貸してくれると言った。
そんな大事な物を、と、紅子も玖一も、驚いていた。
燐子も、酷く恐縮したが、大事な物だから貸すの、と言って、綜一は笑った。
「誕生石でしょ、ルビー。紅子さんも、玖一も君も、七月生まれだからね。君にも、御守りになってくれるかも」
燐子は、白いウエディングドレスの後、御色直しで着るオペラピンクのカラードレスに、其れを合わせてもらう様にメイクさんに計らい、更に御色直しで色打掛を着る前に、慌てて綜一に返却した。
「あのルビー、義理の妹さんの形見らしいよ。坂本自動車って分かる?一時期、父さん、其処の養子だったらしくて」
色打掛への御色直しに向かう途中、玖一から髪飾りの由来を聞いて、燐子は驚いた。
大企業である。紅子が事務として就職して、綜一と出会ったのは、坂本自動車の前身、坂本織機の頃だったという。
「何年か一緒に育った、血の繋がってない妹さんっていう人がいて。其の人の形見らしい。五年くらい前に、ドイツから届いてね」
「ドイツから…」
何処かで聞いた様な話だ、と、燐子は思った。
―嘘。
―坂本自動車の人も、此のルビーも、あたし…知ってる…?あの人、立川に行くって。タクシーに乗って…。
「倫子?」
「え?」
「そう、それでね。…其の人が、あの、『黒い塊を押さえてくれていた人』だったんだって」
あまりの符号に、燐子は、突然鳥肌が立ったが、用意が済んだら、直ぐに会場に向かわなければならなかったので、其の話は、一旦忘れる事にした。
後に、死んだら紅子にあげるから、自分の御棺にも入れないでほしいと、綜一が遺言していた事を燐子は知る。何でも他人に譲ってしまう、物欲の無い綜一なのに、古びた、木製の箸置きと、其の髪飾りだけは手放さない事を燐子が知ったのは、もっと後になってからだった。
燐子は、ルビーの髪飾りの持ち主に、更に、何か特別なものを感じた。
招待した友人達には、当然ながら驚かれた。
「きゃー、まさか、担任と結婚するとか思わなかった。リンコ綺麗~」
参列してくれた友人達は、泣き笑いしながら祝福してくれた。
「そっかー、付き合ってるの秘密だったんだねー、知らなかった」
「専門学校も辞めちゃったんだね!今度詳しく教えて!」
ブーケ、こっち、こっちぃ、と、大騒ぎする友人達との遣り取りが、燐子には幸せで、ルビーに抱いた疑惑も、忘れてしまった。燐子は、幸せだった。
結婚式と二次会が終わった直後。
着替え終わった燐子は、倒れてしまった。
そして気付けば、病院のベッドで寝ていた。
緊急病院にて、尿検査で、妊娠を告げられた。
其れによる不調、と判断された。
翌日、紅子と行った産婦人科で告げられたのは、妊娠三ヶ月、という診断だった。
来年の一月に出産予定、との事だった。燐子は、驚いて、言った。
「あたし…四月から?」
―そんなに前から妊娠していたの?
入籍から新婚旅行、挙式準備、と、あまりにもバタバタしていたから、生理の事など失念していたのである。
あらまぁ、と言って紅子は嬉し泣きした。燐子も、泣いている紅子を見て、泣いた。
「気付かなかった。あたし。嬉しい」
―嬉しい。そして、家族を喜ばせられるのが嬉しい。
早く家に帰りましょう、と、紅子が泣きながら言った。
食卓にて、綜一と玖一に、妊娠を告げると、玖一は『脳が理解を拒否している』時の顔をしていた。
多分、喜んでいるな、と燐子は察した。
玖一は、あまりにも人生初の嬉しい事が有ると、脳内で、目の前の情報の処理速度が大変遅くなる、という事を、経験から燐子は知っていた。
ちょっと放っておこう、と燐子は思った。
多分、玖一の脳の処理が現実に追い付いたら、生きているとこういう事が有るのか、と言う筈で、つまり其のくらい驚いて、喜んでいるのだ。
綜一は、飛び上がらんばかりに喜んで、嬉しい、と言った。
玖一に反して、此の義父は感情表現が何時もストレートだと燐子は思う。
親子で、喜びの表現が全く違うのである。
「いや、でもー、妊娠している事が分かんなかったって、ちょっと危なかったね。無理させちゃったかも。最近、怠そうにしていたけど、倫理ちゃん、御式の準備で疲れているのかなって思っていたから」
「実際、疲れてはいたと思います。だから、あんなに眠かったのかなって」
そう言う燐子の肩を後ろから抱いた紅子は、嬉しそうに、そっと、燐子の肩に頬を寄せた。
「まぁー、如何しましょう。一月生まれですって。御正月と重なっちゃうかしらねぇ」
紅子の、そう言う声が、全然困っていなかったので、燐子は、嬉しくて、自分の額を、自分の肩に乗っている紅子の頬に寄せた。
綜一は、指を折った。
「でも…また色々言われちゃうのは覚悟しようね、玖一。逆に挙式まで気付かなくて、ちょっとラッキーだったかもだけど」
綜一の言葉に、機能停止状態で黙り込んでいた玖一は、へ?と言った。
綜一は、だってさ、と言った。
「三月に卒業式。翌月の一日に入籍。来年の一月に出産って事はさ、四月に妊娠、じゃない?やっぱり、生徒に手を出して妊娠させたから入籍したのか、って言い出す人は居ると思うよ」
「いや…一応、順番は守っていましたけど…」
玖一は、眼を瞬かせた。
いやさ、と綜一は、もう一度指を折りながら、言った。
「抑二月に半分同居始まって、三月に正式に同居始めて。高校の卒業式の後プロポーズして、春の御彼岸に結納して、四月一日に入籍でしょ?で、ゴールデンウィークに新婚旅行、六月に挙式。そりゃ順番は守っていただろうけども、スピードが矢鱈速いのよ。御腹に赤ちゃんが居るかもって疑う人は居たかも。実際、気付かなかっただけで、居たわけで」
玖一は、はー、と何時もの様に言った。
「…何でしょう。三十六年間女性関係、何も無かったのに、人生、何かの詰まりが取れたみたいに、こんなに事がトントン拍子に流れる様に進むって事が有るでしょうか」
「俺の孫の誕生を、そんな、トイレの詰まりみたいに言われても困っちゃうけど…まー、タイミングが偶々今だったっていうか、今まで滞っていたからこそのスピードっていうか。分かんないけど。俺は嬉しいし、良かったじゃない?挙式まで、入籍済ませた夫婦に寝室を別にしなさいって言う程、俺も野暮天じゃないしさ。ま、遅かれ早かれっていうか?」
「父さんを野暮だと思った事は一度も無いですけど…そっか…赤ちゃんか…」
玖一は、じんわりと嬉しそうな顔をした。
紅子が、燐子から少し体を離すと、息子の方を見て、玖一?と言った。
玖一は、トロン、とした目をしていた。
綜一は、あー、もう此れ駄目だよ、と言った。
「玖一聞いてないもん。倫理ちゃん、一回、夫婦の寝室で、二人で話してみて。こうなっちゃったら、他所から何言われても、もう大丈夫だろうなぁ」
実際、結婚式前に創子達と出会って以降、家の中に立ち込めた不安は、此の明るい話題で掻き消えてしまった。赤ちゃんって凄い、と、燐子は思った。
―そう言えば、あの時も、御腹が気になったな。いや、妊娠の前から、そうだったけど。下っ腹っていうか…。
自分の中に居る存在が自分を守ってくれたのではないか、という夢想を燐子は抱いた。
燐子は幸福だった。
二人になると、玖一は、やったー、と言って、燐子を抱き上げた。
玖一の予想外の反応の良さに、両脇を抱えられて、少し持ち上げられた燐子は、一瞬、驚いて、まじまじと玖一の顔を見た。
玖一は、泣きながら、燐子を、ベッドの上に降ろして、座らせた。
「有難う。…やったー」
玖一は、そう言うと、自分のベッドに座る燐子の前に跪いて、燐子の膝に顔を埋めると、おいおい泣いた。燐子も、嬉しくて泣きながら、其の儘の姿勢で、玖一の頭を抱いた。
不幸ではなく、幸福でも、こんなに泣けるのだと、燐子は初めて知った。
妊娠五ヶ月ともなると、御腹が結構大きくなってきた。
玖一は、夜、寝室で燐子と二人きりの時、生まれてくる子が女の子だったら飛鳥という名前にしよう、と玖一が言ってくれたので、燐子は喜んだ。
「…わ、わー、嬉しい!吉野飛鳥ちゃん?」
可愛い、と燐子が言うと、玖一は、うんうん、と言って頷いた。
「幸せになる様に幸、とかも考えたけど、結局のところ分かんないけど、もしかしたらハネムーンベイビーの可能性もゼロじゃないし。新婚旅行の場所が名前。良いかな?」
「最高。幸も可愛いけど」
実際は、生まれた子供は、思春期に、両親の新婚旅行場所の地名を命名された事、自身がハネムーンベイビーの可能性が有る事を知って、複雑そうな顔をするのだが、そんな事は、今は誰も知らない。
玖一は、嬉しそうに続けた。
「男の子だったら、付けたい名前が他に有るけど、良いかな」
「何でも良いよ。良い。男の子だったら、好きな名前、付けて。あのね、新婚旅行、行く筈だった修学旅行先に連れて行ってくれたの、あたし、本当に嬉しかったの。だから、女の子が生まれたら、そういう事に気付いてくれる旦那さんと結婚してほしいなって思った。あたしの人生で一番楽しかった、新婚旅行の記念みたいな名前だし、考えてくれて嬉しい。あのね、『飛鳥』って名前、考えてくれたのが、もう嬉しいの」
燐子が、そう言うと、玖一は、本当に?と言って、大喜びで、ベッドに横たわる燐子の御腹に頬を寄せた。
「良かった。お母さん、嬉しいってさ。なー、御前、一緒に、結婚式、出たんだなぁ」
不思議だなぁ、と言って、玖一は笑った。
御腹の中の子が、其の時動いた。
ひゃー、と言って、玖一が大喜びした。
「返事した?此れ。なー、ドレス着たよな、一緒に。おお、動いた。女の子なんじゃないかなぁ。ドレス、好きなんじゃないかなぁ?」
「ねぇ、良かったねぇ、お父さん」
燐子は、ひゃー、と言う玖一の言い方が面白過ぎて、あはは、と笑って、そう言った。
燐子の中で、少し苦しい言葉だった『お母さん』という言葉は、紅子の事になって、やがて、自分を指す言葉になった。
『お父さん』という言葉は、綜一の事になって、やがて、玖一を指す言葉になった。
もう言えなくなってしまった、『おばあちゃん』という言葉は、紅子を指す言葉になって、『おじいちゃん』という言葉は、綜一を指す言葉になって、再び使える様になった。
其れが、どれだけ嬉しい事なのか、燐子は、他人に上手く言葉で説明出来る気がしない。
出産や育児に対する不安は、其の喜びで、何度でも掻き消された。
燐子は幸福だった。




