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エチカ 『瀬原集落聞書』  作者: 櫨山奈績
第二章 平成四年
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三百万

 新婚旅行から帰った後も、六月予定の挙式の準備は、着々と行われていた。


 好景気ど真ん中の頃の、御姫様の様な、たっぷりとボリューミーなパフスリーブドレスの代わりに、シンプルなラインのドレスが出始めた頃だった。


 リボンやフリルを多用したデザインは、嫌いではなかったが、燐子は、体のラインが綺麗に出る、スレンダーなキャミソールタイプのウエディングドレスを選択した。

 

 二の腕が綺麗だと褒められたのが嬉しかった。


 花やレースたっぷりのヘッドドレスより、此れまた流行り始めのティアラを選択した。

 

 昔ニュースで見たダイアナ妃の結婚式のティアラに憧れていたのである。


 ドレス選び、御色直し、ゴンドラに乗るか否か、という、あまりにも決める事の多い、目の回る様な工程に、燐子は、結構疲弊していた。

 最近、夕方になると、酷く眠いのだ。


 そして、其の時ミスをした。


「はい、えーとね。何と無く、こんな事が有る気がして、結婚祝いになる様に、倫理(エチカ)ちゃんの絵を描いていた、有能な俺。…そして、其れを告げ忘れた、俺。画廊に連絡する、有能な、倫子(エチカ)ちゃん。(またた)く間に売れた、二枚の絵。…有能な俺。…えー、そして此れが…結婚祝いに贈る筈だった絵だった…札束です」


 ごめん玖一、と言って、綜一は両手で顔を覆った。


 食卓に着きながら謝罪する綜一の目の前には三つの札束が在った。

 三百万という金額の生々しさに、燐子は目を点にした。


「あ、いや、あの。親に謝られながら札束を贈られる日が来るとは思っていませんでしたけど。気持ちが嬉しいですよ、父さん」

「ごめんねぇー。どぉしてこうなったのかなぁ。挙式費用にでも、して?」

 そう言って、綜一は、頭を抱えた。


 燐子は、謝罪した。

「ごめんなさい。二つ送っておいて、って、風景画二枚の事だったのね。てっきり」


「いや、俺が浮かれて、説明しなかったから。さよなら、『向日葵』と『告解』。そぉなんだよ、プレゼントしようと思って、キャプション付けたのがまた、誤解の元だよねぇ。いやー、『告解』、即日百八十万で売れたってさ。景気落ちてきているのに。凄いな、我ながら」


「また描けば良いじゃないですか、倫子をモデルにして」


「…いやー、其れがさ。『向日葵』の方は、画商のカタログに載っちゃったわけ。で、同じモデルの『告解』が即日売れたのが、一部で話題になっちゃって。同じモデルで連作描くか、モデルを紹介してくださいって言われて」


 玖一と燐子は、口を揃えて、えっ、と言った。


「一応、モデルの話が来ているけど、行く?ヌードだけど」

「モデルは…無しの方向で」

 燐子は、(そく)断った。


 綜一はガックリと項垂(うなだ)れた。

「そうだよねぇ…。モデルは引っ越した、とか何とか言って、あの二作は幻の作品にしてもらおう。そんなわけで、連作を描くと、倫理(エチカ)ちゃんが、一部で有名になっちゃいます。そういうわけで、本来、息子夫婦への結婚祝いっていう、私的な作品で、外に出す予定が無かった作品だったわけですが…何で、こうなったのかなぁ」


「連作も…無しの方向で」

 燐子も、何で、こうなったのかな、と思いながら、そう言った。


「はい、此れにて、倫理(エチカ)ちゃん、モデル廃業です、以上」


 そう言って、綜一は、再び頭を抱えた。


「本当に、ごめんねぇ?あと、俺、死んだら、あの二枚、プレミア付くかも。個人蔵の絵が流出とかして、色々あって値段で揉めたら、出来たら回収して。遺族が美術館に寄贈してね…」


 いちいち生々しいが、多分そうなるだろうな、と思いながら、燐子は、改めて、吉野綜一画伯の凄さを思い知った。


―此の短い期間で三百万用意出来る人間が存在するとはね。


「そう言えば、先生って、ヌード描かないですよね?肌の露出は有っても、少ないし」


 燐子は、気付いていた。


 綜一は、ヌードだけで無く、実際のモデルを目の前にして描かない事の方が、本当は多いのだ。


 綜一が過去に出会った美しい人達の記憶が、其の(まま)画面に表れているのではないか、と思えるくらいなのである。

 

 其の作品が、写実的なのに、時に幻想的にさえ思えるのは、其の遠い記憶の効果で、美しい膜が絵の表面に掛かっているからではないか、などという、言語化出来ないながらも、確信に近い気持ちを持って、燐子は、綜一の芸術に触れていた。


 生の人体を露骨に描く事、即ち、ヌードは、もしかしたら、あまり綜一の心の琴線に触れないのかもしれない。


 一方で、綜一の方には、そんな自覚は無さそうだった。

「…言われてみれば、そうかも。習作のデッサンくらいかなぁ。こう、布の質感を描きたいのかもね。人間の体だけ、って、あんまり描いた事無かったかも」


 ま、いっか、と言って、綜一は伸びをした。

「さー、新しいの、描こうっと」


 此れが良いのかも、と燐子は思った。


 自分も過去も顧みない。

 

 第一線で描き続ける。

 

 此れが、吉野綜一なのだ、と燐子は解釈していた。

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