気晴らし
彼氏のケンの家は全体的に煙脂臭い。
塵だらけだし、何時買われたのか分からない炬燵が、布団無しで常時茶の間のテレビの前に置いてあって、其れが食卓だった。
正方形の炬燵の天板には、引っくり返すと緑色のフェルトが貼ってあって、彼方此方破れている。
其の緑色のフェルト部分を上にして炬燵の天板を置き直すと、此の、みすぼらしい食卓は、麻雀台になり、花札台になる。
実際、そういう集まりは此処で頻繁に行われていた。
親が家を留守にしがち、という、此のケンの家に、燐子は、しょっちゅう身を寄せていた。
男寡のケンの父は、長距離トラックの運転手だと聞くが、燐子は一度も会った事が無い。
父親の稼ぎは程々に良いというので、家の粗末さの割には妙に良い車が、思いがけず広い車庫に二台停めてあり、其の車庫の隅に、ケンの赤いバイクが止められている。
父親が怖い、車に触るのすら許されていない、だから家の車には乗れない、というダサい事を平気で言うケンは、ちょっと臆病だが、父親に敬意を払っている様子を見るのは、そう悪くなかった。
ガサツだが、暴力事とは無縁で、人間としては普通だ、と燐子は思って、歴代彼氏よりは比較的安心して付き合っていた。
今夜も、伊蔵が眠ってから家を抜け出した燐子は、ケンの家に来ていた。
伊蔵は朝四時半とか五時に起きるせいか早寝で、寝たら先ず起きない。だから燐子は、深夜徘徊をしようが何をしようが、明け方までに家に戻りさえすれば、伊蔵から不在を咎められた試しは無かった。
燐子より二つ年上のケンは、中学を卒業後、塗装の仕事をしている。
ケンの部屋は二階で、ベッドが在った。古びたラジカセと、箱ティッシュ置き場になっている、何時の物か分からない雑誌の山の脇に、何時塵を捨てたか分からない、大きな塵箱が在る。ベッドと言えば聞こえは良いが、要は万年床だと燐子は思う。
快か不快かで言うと不快だったが、此の万年床の中で、人肌に何度心理的に慰められたか分からないので、文句を言う気にはなれない燐子だった。
自分の居場所は今、此の万年床の中だけなのである。
此の居場所の権利は、ケンの彼女だというだけの理由で、無料で得ているものだった。権利を得る方法は簡易で気楽で、そして刹那的だった。ケンの機嫌を損ねたら、直ぐに此の居場所から叩き出されるのだ。
ケンの事は、自分でも好きか嫌いか分からないが、其れは、燐子には何方でもいい事だった。好みの顔の異性が人肌を与えてくれる、という事だけが燐子には重要で、其処には、不安を誤魔化す為の気晴らし以上の意味は無かった。
好みの顔に、雨風を凌げる場所が付いている。
此れ以上は無い。
だから、避妊してくれるなら更に御の字、という気がした。
ケンに対しては、燐子は、殆ど身の上話もしなかった。
ただ、両親が蒸発して、父親が破産宣告して、祖父と二人暮らしで、高校に通いながらバイトをしている、くらいの事しか告げていない。
其れで充分、という気もするし、相手も其れ以上聞いてこなかった。
男に憐れまれるのは、立場が低くなる気がして、少し怖いのである。
可哀想な女を慰める振りをして、酷い事をする人間の存在を、燐子は知っていた。
打ちひしがれている人間は、弱っていると思われ易い。
自分より弱い人間には何をしても良いと思う人間、というのは確実に居るのだ。
ケンが、そんな人間では無い、という信頼を、燐子は、未だ抱けなかった。
未だ一度も相手に暴力を振るわれた事が無いのにも関わらず、である。
だから、燐子は、ケンに対して、愚痴を言ったり弱音を吐いたりした事は無い。
其れを自分の弱いところだと思うからだ。
其れがケンには、サッパリした良い性格だと誤解されているのは好都合であるが。
ケンにしても、中学の頃亡くなったのだという母親の話をしてきた事は殆ど無い。
そして、其れで構わないと燐子は思っている。
相手の過去を知りたいとも、受け止めたいとも、特に思わない。
燐子の生活にも、燐子の人間としての器にも、其の様な余剰は無い。
燐子にとっては、付き合ってはいるが、腹を割って話しているわけではない間柄、というのは、重くもなく、気晴らしにはピッタリなのである。
ケンの部屋のアルミサッシの外は、ベランダと通じている。
ケンは何時もの様に、上半身は裸で、ジーンズだけ穿いてから、煙草をベランダで吸った後、少し長めの金色の髪を揺らしながら、自室に戻って来た。
夜の外気が嫌いな燐子は、未だベッドの上で、服を着ないで布団に包まった儘、窓の外の空気と紫煙の香りと共にベランダから戻って来たケンの顔を、ジッと見た。
起きたか、とケンは言った。
「な、リンコ。一緒に暮らさねぇ?」
「え?」
「上の兄ちゃんが配属替えで引っ越すらしくてさ。で、嫁連れて此処に戻ってくるらしいから、俺、此の家出ようかと思って。リンコも来いよ」
「…ああ、板金工だっけ、お兄さん」
「そうそう。兄貴の会社の支店が立川にもあんのよ」
ケンの語った内容は、燐子には、物理的に、此の部屋から追い出される期限が迫っている事に他ならなかった。
胸が少し、不安でザワッとする。
「へー。其れ、金、如何する心算?」
「別に要らないだろ?俺も、お前も働いて、全部半分ずつ」
こいつが敷金を知らない様なら余程の馬鹿だが、と思いながら、燐子は頭の中で算盤を弾いてみる。
―敷金は貯金から出すとして、仮に家賃六万だったら、毎月三万。光熱費諸々で、一万円だとして。
今現在、食費は兎も角、家賃光熱費学費を伊蔵の貯金と年金頼りにしている燐子にとって、月々其の額を捻出する事は、何の旨味も無かった。
ケンの家には、無料で居られるから、気晴らしに来ているだけなのだ。家賃を自腹で出すのなら、こんな煙脂臭くて塵だらけの場所には我慢出来ない。
見掛けに寄らない、と、偶に言われるが、亡き祖母の華子に似たのか、掃除と裁縫は好きな燐子である。
しかし、彼氏の家で塵捨て係など引き受けてしまったら、クズの部屋をクズ拾いが片付けてクズの面倒を見ている、という様な、早口言葉めいた状況を安易に作り出す。
そして其れは、燐子にとっては、母ちゃんかパシリのする事だった。
なりたいのは彼女であり、母ちゃんでもパシリでもない。
相手の面倒を見始めたら、あっという間に立場が弱くなる事を、燐子は、最初の男で知って、懲りていた。
其れに、好かれたいから、という動機は、尚良くない。
もっと自分の立場を悪くする。
何故なのか、理由は不明瞭だが、彼らは、燐子が面倒を見始めた途端、何時も出来ていた事が、急に一人で出来なくなるのだ。
一人なら出来ていた筈の塵の分別も、洗濯も、急に出来なくなり、燐子が遣るのが何故か当たり前になってしまうのだった。
挙句、疲れると当たり散らかしてきたり、浮気されたりするのだから堪らない。
故に、相手の、居住空間という持ち物に依存しつつ、ギリギリ対等な関係を保とうとしている燐子にとっては、彼氏の部屋を掃除してやらない事にこそ意味が有る。
だから、本来なら、此の部屋の塵も、階下の塵も許し難い。
燐子は、残念そうな笑顔、というのを作る事を試みた。
「うち、じいちゃん居るかんな」
「あー、そうだったなぁ」
ケンの声音に、自分への興味の減退を少し感じ取った燐子だったが、其れは燐子にしても同様だった。
金が掛かるのなら、此の居場所も、そろそろ引き揚げ時だ。
「でもさ、考えといてくれよ。楽しいだろ?」
「え?」
「一緒に暮らして、俺の為に飯作って、洗濯すんだ。楽しいだろ」
ケンの言い分を聞いて、燐子はゲラゲラ笑った。
―何様だよ。スゲークズだな。何で、家賃払って家政婦みてーな事して楽しいと思うよ、マゾか。逆に金くれるなら作ってやっても良いけどな。お前の顔に引っ掛かった他の女に頼みな。
「で、食費も折半って?」
燐子がそう言うと、ケンは、キョトン、とした顔をした。
「ん?せっぱんって?」
「半分こって事だよ」
「あー、そうそう、それそれ」
バーカ、と思って、燐子は更に笑った。しかしケンは、燐子の笑いを肯定的な意味に受け取ったらしかった。
「な、考えといてくれよな」
燐子は、あはは、という明るい笑い声で、ケンへの返事を濁した。
―こいつ、顔が好みじゃなかったら殴って、ボコボコにするな。
でも今夜は、こいつの機嫌を取るしか居場所が無い燐子である。今夜は我慢だ。
―考えておいてくれって?考えておくよ、鞍替えを、な。