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エチカ 『瀬原集落聞書』  作者: 櫨山奈績
第一章 平成三年
3/43

気晴らし

 彼氏のケンの家は全体的に()()(くさ)い。


 (ごみ)だらけだし、何時(いつ)買われたのか分からない炬燵(こたつ)が、布団無しで常時(じょうじ)茶の間のテレビの前に置いてあって、其れが食卓だった。


 正方形の炬燵(こたつ)の天板には、引っくり返すと緑色のフェルトが貼ってあって、彼方此方(あちこち)破れている。

 其の緑色のフェルト部分を上にして炬燵(こたつ)の天板を置き直すと、此の、みすぼらしい食卓は、麻雀台になり、花札台になる。

 実際、そういう集まりは此処で頻繁に行われていた。


 親が家を留守にしがち、という、此のケンの家に、燐子は、しょっちゅう身を寄せていた。

 (おとこ)(やもめ)のケンの父は、長距離トラックの運転手だと聞くが、燐子は一度も会った事が無い。

 父親の稼ぎは程々に良いというので、家の粗末さの割には妙に良い車が、思いがけず広い車庫に二台停めてあり、其の車庫の(すみ)に、ケンの赤いバイクが止められている。

 父親が怖い、車に触るのすら許されていない、だから家の車には乗れない、というダサい事を平気で言うケンは、ちょっと臆病(ヘタレ)だが、父親に敬意を払っている様子を見るのは、そう悪くなかった。

 ガサツだが、暴力事とは無縁で、人間としては普通だ、と燐子は思って、歴代彼氏よりは比較的安心して付き合っていた。


 今夜も、伊蔵が眠ってから家を抜け出した燐子は、ケンの家に来ていた。

 伊蔵は朝四時半とか五時に起きるせいか早寝で、寝たら()ず起きない。だから燐子は、深夜徘徊をしようが何をしようが、明け方までに家に戻りさえすれば、伊蔵から不在を咎められた試しは無かった。

 

 燐子より二つ年上のケンは、中学を卒業後、塗装の仕事をしている。

 ケンの部屋は二階で、ベッドが在った。古びたラジカセと、箱ティッシュ置き場になっている、何時(いつ)の物か分からない雑誌の山の脇に、何時(いつ)(ごみ)を捨てたか分からない、大きな塵箱(ごみばこ)が在る。ベッドと言えば聞こえは良いが、要は万年床だと燐子は思う。


 快か不快かで言うと不快だったが、此の万年床の中で、人肌に何度心理的に慰められたか分からないので、文句を言う気にはなれない燐子だった。


 自分の居場所は今、此の万年床の中だけなのである。

 此の居場所の権利は、ケンの彼女だというだけの理由で、無料で得ているものだった。権利を得る方法は簡易で気楽で、そして刹那的だった。ケンの機嫌を損ねたら、()ぐに此の居場所から叩き出されるのだ。


 ケンの事は、自分でも好きか嫌いか分からないが、其れは、燐子には何方(どちら)でもいい事だった。好みの顔の異性が人肌を与えてくれる、という事だけが燐子には重要で、其処には、不安を誤魔化す為の気晴らし以上の意味は無かった。

 好みの顔に、雨風を凌げる場所が付いている。

 此れ以上は無い。

 だから、避妊してくれるなら更に御の字、という気がした。


 ケンに対しては、燐子は、(ほとん)ど身の上話もしなかった。

 ただ、両親が蒸発して、父親が破産宣告して、祖父と二人暮らしで、高校に通いながらバイトをしている、くらいの事しか告げていない。

 其れで充分、という気もするし、相手も其れ以上聞いてこなかった。


 男に憐れまれるのは、立場が低くなる気がして、少し怖いのである。


 可哀想な女を慰める振りをして、酷い事をする人間の存在を、燐子は知っていた。

 打ちひしがれている人間は、弱っていると思われ易い。

 自分より弱い人間には何をしても良いと思う人間、というのは確実に居るのだ。


 ケンが、そんな人間では無い、という信頼を、燐子は、(いま)だ抱けなかった。


 ()だ一度も相手に暴力を振るわれた事が無いのにも関わらず、である。

 だから、燐子は、ケンに対して、愚痴を言ったり弱音を吐いたりした事は無い。

 其れを自分の弱いところだと思うからだ。

 其れがケンには、サッパリした良い性格だと誤解されているのは好都合であるが。


 ケンにしても、中学の頃亡くなったのだという母親の話をしてきた事は(ほとん)ど無い。

 そして、其れで構わないと燐子は思っている。

 相手の過去を知りたいとも、受け止めたいとも、特に思わない。


 燐子の生活にも、燐子の人間としての器にも、其の様な余剰は無い。


 燐子にとっては、付き合ってはいるが、腹を割って話しているわけではない間柄、というのは、重くもなく、気晴らしにはピッタリなのである。


 ケンの部屋のアルミサッシの外は、ベランダと通じている。

 ケンは何時(いつ)もの様に、上半身は裸で、ジーンズだけ穿いてから、煙草をベランダで吸った後、少し長めの金色の髪を揺らしながら、自室に戻って来た。

 夜の外気が嫌いな燐子は、()だベッドの上で、服を着ないで布団に(くる)まった(まま)、窓の外の空気と紫煙(しえん)の香りと共にベランダから戻って来たケンの顔を、ジッと見た。


 起きたか、とケンは言った。

「な、リンコ。一緒に暮らさねぇ?」

「え?」


「上の兄ちゃんが配属替えで引っ越すらしくてさ。で、嫁連れて此処に戻ってくるらしいから、俺、此の家出ようかと思って。リンコも来いよ」

「…ああ、(ばん)金工(きんこう)だっけ、お兄さん」

「そうそう。兄貴の会社の支店が立川にもあんのよ」


 ケンの語った内容は、燐子には、物理的に、此の部屋から追い出される期限が迫っている事に他ならなかった。

 胸が少し、不安でザワッとする。

「へー。其れ、金、如何(どう)する心算(つもり)?」

「別に要らないだろ?俺も、お前も働いて、全部半分ずつ」


 こいつが敷金を知らない様なら余程の馬鹿だが、と思いながら、燐子は頭の中で算盤(そろばん)を弾いてみる。


―敷金は貯金から出すとして、仮に家賃六万だったら、毎月三万。光熱費諸々で、一万円だとして。


 今現在、食費は()(かく)、家賃光熱費学費を伊蔵の貯金と年金頼りにしている燐子にとって、月々其の額を捻出する事は、何の旨味も無かった。

 ケンの家には、無料で居られるから、気晴らしに来ているだけなのだ。家賃を自腹で出すのなら、こんな()()(くさ)くて(ごみ)だらけの場所には我慢出来ない。


 見掛けに寄らない、と、(たま)に言われるが、亡き祖母の華子(はなこ)に似たのか、掃除と裁縫は好きな燐子である。


 しかし、彼氏の家で(ごみ)捨て係など引き受けてしまったら、クズの部屋をクズ拾いが片付けてクズの面倒を見ている、という様な、早口言葉めいた状況を安易に作り出す。

 そして其れは、燐子にとっては、母ちゃんかパシリのする事だった。

 なりたいのは彼女であり、母ちゃんでもパシリでもない。


 相手の面倒を見始めたら、あっという間に立場が弱くなる事を、燐子は、最初の男で知って、懲りていた。


 其れに、好かれたいから、という動機は、尚良くない。

 もっと自分の立場を悪くする。


 何故なのか、理由は不明瞭だが、彼らは、燐子が面倒を見始めた途端、何時(いつ)も出来ていた事が、急に一人で出来なくなるのだ。


 一人なら出来ていた筈の(ごみ)の分別も、洗濯も、急に出来なくなり、燐子が遣るのが何故か当たり前になってしまうのだった。


 挙句、疲れると当たり散らかしてきたり、浮気されたりするのだから堪らない。


 故に、相手の、居住空間という持ち物に依存しつつ、ギリギリ対等な関係を保とうとしている燐子にとっては、彼氏の部屋を掃除してやらない事にこそ意味が有る。

 だから、本来なら、此の部屋の(ごみ)も、階下の(ごみ)も許し難い。


 燐子は、残念そうな笑顔、というのを作る事を試みた。

「うち、じいちゃん居るかんな」

「あー、そうだったなぁ」


 ケンの声音に、自分への興味の減退を少し感じ取った燐子だったが、其れは燐子にしても同様だった。

 金が掛かるのなら、此の居場所も、そろそろ引き揚げ時だ。


「でもさ、考えといてくれよ。楽しいだろ?」

「え?」

「一緒に暮らして、俺の為に飯作って、洗濯すんだ。楽しいだろ」


 ケンの言い分を聞いて、燐子はゲラゲラ笑った。


(なに)(さま)だよ。スゲークズだな。何で、家賃払って家政婦みてーな事して楽しいと思うよ、マゾか。逆に金くれるなら作ってやっても良いけどな。お前の顔に引っ掛かった他の女に頼みな。


「で、食費も折半(せっぱん)って?」

 燐子がそう言うと、ケンは、キョトン、とした顔をした。

「ん?せっぱんって?」

「半分こって事だよ」

「あー、そうそう、それそれ」


 バーカ、と思って、燐子は更に笑った。しかしケンは、燐子の笑いを肯定的な意味に受け取ったらしかった。


「な、考えといてくれよな」

 燐子は、あはは、という明るい笑い声で、ケンへの返事を濁した。


―こいつ、顔が好みじゃなかったら殴って、ボコボコにするな。


 でも今夜は、こいつの機嫌を取るしか居場所が無い燐子である。今夜は我慢だ。


―考えておいてくれって?考えておくよ、鞍替えを、な。

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