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エチカ 『瀬原集落聞書』  作者: 櫨山奈績
第二章 平成四年
29/43

吉野

 其の年のゴールデンウィークに、玖一が新婚旅行に連れて行ってくれた。


 玖一が、燐子に内緒で、宿や新幹線の手配等の準備をしてくれていた事を知って、燐子は感激した。


 しかも、行先が、奈良と京都だった。


「何か、行先、修学旅行みたいだね」


 綜一が、楽しそうに、そう言った。

 玖一が笑顔で、良いでしょう、と言うと、うん、楽しそう、と言って、綜一は玖一にカメラを貸してくれた。 

 紅子が燐子に旅行鞄を貸してくれた。


 そうだ、修学旅行だ、と燐子は思った。


―あたし、担任の先生と、修学旅行に行くのね。


 燐子は、自分が修学旅行を楽しみにしていた事を踏まえた上で、新婚旅行の行先を、奈良と京都にしてくれる人間は、此の世で玖一しか居ない、と思った。


 そして、そういうところが凄く好きだと思った。


「一日目が奈良ね。思いっ切りベタなとこ行こうよ。修学旅行で行くみたいな。そんで、生八つ橋とか買う。えっと、八つ橋は京都だよね?」


 燐子は新幹線の中で、あと、鹿煎餅買う、と言って、玖一に微笑んだ。


 玖一は、はしゃぐ子供を見る様に目を細めて、紅子の様に微笑んでくれて、言った。

「鹿煎餅は奈良だね。奈良公園で鹿にあげる、おやつ。八つ橋は京都」

「…法隆寺は…」

「奈良だね。今日行くなら、JR奈良駅から法隆寺駅まで行って、其処から徒歩」


 ガイドブックを見ながら、そう言う玖一に、燐子は、任せた、と言って、玖一に向かって歯を見せて、ニカッと笑った。


 多分、実際修学旅行に行く直前も、自分は、奈良に在る寺と京都に在る寺の区別が付かなくて、友達と、こんな話をした筈、と思うと、燐子は、訳も無く楽しくなった。


 奈良駅に着いたら、燐子は、何と無く駅弁が食べたくなって、柿の葉寿司を買いたい、と言った。


 何処で食べるの、と言って、笑いながら、玖一は、駅弁購入前に、駅周辺の店に入って食事する事を、一応燐子に提案したが、結局買ってくれた。


 ゴールデンウィークなので激混みの、新幹線待合所のベンチに二人で一緒に座って、燐子の買いたかった柿の葉寿司を食べてくれた。


「ランチタイムだし、ゴールデンウィークだから店も混んではいるだろうけど、なかなかだね、此の混み具合」


 そう言って、ガヤガヤしている新幹線待合所で、柿の葉寿司の葉を剥きながら、玖一は笑った。

 此のベンチに座るまでにも、既に少し並んだのだ。


 でも此れで良い、と思って、燐子も笑った。


 駅で『駅弁』が買いたくなったから、買いたい時に其の場で買った。

 そんな事は初めてだったし、玖一としか、した事が無い。

 其れが重要なのだ。

 

 燐子は、ずっと、訳も無く、そんな何でも無い事が楽しかった。


 旅程は二泊三日だった。

 

 玖一は、柿の葉寿司の容器を丁寧に片付ける燐子に、ガイドブックを見せながら、此れからの予定を教えてくれた。


 昼食後、奈良公園に行って、鹿に会って、東大寺に行って、柱の穴を潜り抜けて、奈良駅に戻って来て、奈良駅近くのビジネスホテルで一泊。

 翌朝、法隆寺に行って、奈良駅に戻ってから、午後、京都駅に移動。

 昼食を取りつつ祇園周辺で遊んでから、京都駅近くのビジネスホテルで一泊。

 そして、朝早く、清水寺に行って、昼に嵐山散策、鴨川周辺散策後、夜の新幹線で京都駅から東京駅、東京駅から中央線で立川駅に帰る。 


 其の計画に、ベタだ、と言って、燐子は喜んだ。

「修学旅行のしおりみたいだった!今の説明。凄く良い」


 自身の修学旅行を含め、引率でも行った経験が有るのだという玖一は、そう?と言って、燐子を見て、面白そうに笑った。

 

 多分、玖一には、そんなに珍しい旅程では無いのだろう。 

 多分、ベタの何が良いのか分かっていない。

 此の多少の温度差。

 本当に、学校の先生と修学旅行に来たみたい、と思って、燐子は笑った。

 実際、夫は教員なのだが。


「新婚旅行に行こうって決めたのが急だったから、良い旅館とか空いてなかったけど。ビジネスホテルで、ごめん」

「屋根が付いてれば良いよ、そんなの。公園とかさ。ホテルとか、豪華だねー」

 済まなさそうに、ホテルについての謝罪をする玖一に、笑顔で、燐子は、そう言った。


 其れを聞いた玖一は、少し困った様な顔で笑った。

「…本気で言ってそうで怖いな」


 本気だけどな、と思って、燐子が、キョトン、とした顔をしていると、玖一は、少し顔色を変えた。


「え、何?野宿想定とか、無いよね?」


「いや、春だし。大丈夫だと思うよ。東京だったら、此の時期明け方まで外にいても風邪は引かないから。そうすると宿代要らないしね」


 燐子は去年の今頃は、()だケンの家等を渡り歩きつつ、深夜徘徊していたのである。

 気付いたら明け方、という事は時々有った。

 二泊三日徹夜は流石に無理だろうが、一日くらいなら、寝ないというのも手だ。

 移動中の乗り物でも睡眠は取れる。


 うーん、と玖一は言った。

「…えっとね。此の辺だと…ビジネスホテルが一人一泊五千円くらいだとして。一泊が二、三千円とかの値段になると、ちょっと、俺個人としては、女の子一人では泊まってほしくない感じの宿になるかな…」


「…如何(どう)いう事?」

「関西圏都市部…駅周辺?大阪とかも含むけど。其のくらいの値段だと、日雇いの仕事をする男の人達と、二段ベッドで相部屋、とかになるね。…まー、例えば、上の段に君が寝て。下の段に、知らない、何処かの現場で働く為に泊まる男の人が寝る。其れで一泊する、って感じかな。此れが、一泊が二、三千円の相場の宿。いや、全部が、そういう場所とは限らないけど」


「え」


 其れは流石に危ない。


 燐子は、玖一の顔を、ジッと見た。

 玖一は、眼を(しばた)かせた。


「うーん。だからね?安過ぎる宿には注意しないと、物事の値段には理由が有るわけで。高いには、高いなりの。安いには、安いなりの、理由が有るわけだ。俺としては、女の子には、せめて、一泊五千円の宿には泊まってほしい。相部屋じゃなくて、施錠出来る個室ね。其の…安全を御金で買うっていうか、タダより怖いものは無いっていうか」

「おお」


 何か、凄く説明が分かり易い、と思いながら、燐子は、うんうん、と頷きながら、素直に玖一の話を聞いた。

 最近、綜一と玖一の、頷き方の癖が燐子にも移ってきた。


 大丈夫かなぁ、と、玖一が、確認する様に言った。

「で、其れで、野宿するって事が如何(どう)いう事か、分かってもらえるかなぁ…。あの…宿ならね?相部屋の人が良い人だったら、まぁ、其の一人と一晩一緒でも、何とかギリギリ大丈夫かもしれないけど。野宿ってなると、誰が何人、何時(いつ)来るか分からないでしょ?」


 成程、と燐子は思った。


 今まで何度、大人から夜間徘徊を危ないと叱られても、今までも無事だったし、大袈裟だと思っていたのだが、やっと腑に落ちた。


 今までは、偶然無事でいられた『だけ』、なのだ。


 危ないから、というか、外には不特定多数の、素性の、よく分からない人間が居るのに、今回危ない目に遭ったら如何(どう)していたのだ、今後も、危機を想定して同様の行動を避けろ、と言われていたのだ。


―あ、運が良かっただけ、なのね。


「そっか、だから、夜出歩くと叱られたのか。危ないのね」


 凄く、よく分かった、と燐子が言うと、玖一は、少し青褪めて、良かった、と言った。


「何か…俺、君と結婚して本当に良かった。…あの…もし君が、新婚旅行、野宿でも大丈夫って思う旦那さんと結婚していたら、其れで君が、其れを了承していたら、君の新婚旅行、野宿だった可能性も、全くのゼロじゃなかったって事だよね…?其れか、一泊二千円の宿とか?いや、あの…こんな言い方して良いか分からないけど、本当に、結婚して良かった。生徒が卒業後、新婚旅行先で野宿していたらと思ったら…。俺、本当に、君と結婚して良かった」


 何だろう、君と結婚して良かった、という内容だけ聞くと、凄くロマンチックな言い方なのに、ニュアンスが全然ロマンチックじゃない、と思いながら、燐子は眼を(しばた)かせた。


 野宿どころか、新婚旅行をする、という高尚な発想を持つ男とは結婚出来なかった可能性も有った事は黙っている事にした。


「うん、結婚して良かった。何か説明巧いし、学校の先生みたいで、良い説明だった」


 燐子が素直に、そう言うと、玖一は、複雑そうな顔をして笑って、言った。


「ええ、あの…十年以上教職に就かせて頂いております…其れで、御給金を頂いておりまして…はい」


 もう行こうか、と言って、玖一は立ち上がり、燐子を、在来線乗り場の方向に誘導した。


 燐子は、待って、と言って玖一に付いて行きながら、柿の葉寿司を食べた後の(ごみ)を捨てる場所を探した。


 在来線の駅の名前を見るのも、何もかも燐子は楽しかった。


斑鳩(いかるが)って、カッコ良いねぇ。駅の名前、全部カッコ良く見えてきた」

 電車の中で、ガイドブックを見ながら、燐子が、画数が多い漢字で、読み方が難しいと、何かカッコ良い、と言うと、玖一は、キョトンとした顔をした。


「…画数?」


「そう。飛鳥(あすか)とか斑鳩とか、何かカッコいい。自分が、こういう名前だったら面白そう。藺牟田の『()』と『()』は、書き難かったけど。難しくて、何か『(らん)』って書いちゃうし」


「名前?吉野(よしの)斑鳩(いかるが)さん?みたいな事?」

 そうそう、そんな感じ、と燐子は言った。


 玖一は、少し考え込む様な顔をして、言った。

「えっと、あれか。何故か、中学校の近くの歩道橋の足の所とかに、スプレー缶で書いてあった、ああいうの?あれの事かな。凄く画数多い漢字で、()()(ウン)とか何とか書いてあった。そういうセンスかな。あれは、格好良いから書いてあったのか…?」

「あー、うんうん」


 ケンも、中学校卒業後就職したばかりの頃は、仕事で使って残ったスプレー缶等で書いていたと言っていた。

 画数が多い漢字はカッコ良い。 

もし書くならカッコ良い方が良い。

 『倫子』より、『燐子』の方がカッコ良いし、と燐子は思った。

 燐子の中では同じ話だった。


 玖一は、燐子の返事を聞いて、言葉を失ったかの様に押し黙り、眼を(しばた)かせて、燐子の顔を見た。


 如何(どう)したのかな、と燐子は思って、言った。

「あ、ほら、アレだよ?名前に使えない漢字も有るからね。何か、名前に使える字って決まりが有るらしいから。好きな漢字の名前になれるとは限らないけど」


 事実、幾らカッコ良いと思っていても『燐』の字は使えなかったのである。


 玖一は、うんうん、と言って頷き、続けた。

「画数が多いと格好良いっていう発想は無かった…世界が、どんどん広がっていくなぁ」

(きゅう)(いち)も、『久し振り』の『(きゅう)』、じゃなくて、画数の多い『(きゅう)』だもんね。凄く良いと思う」

「あ、いや…。俺の御祖母さんの名前が同じ字で(たま)だったから、らしいけど…格好良いと思ってくれるなら良かった…」


 後年、リョーコの孫の名前が(ほわい)()と知って、玖一は同じ顔をする。

 『煌』に『白』という字が入っているから『ホワイト』なんだろうな、と、リョーコと燐子が言うと、玖一は、此の様な表情で一度押し黙った後に、世界が広がった、と言うのだが、此の時は、そんな事は誰も知らない。

 因みに、『煌』は、二〇〇四年に人名用漢字となる。『きらめき』とか『かがやき』という意味なので、意味としては素敵だ、と後に玖一は言う。燐子も其れに同意する。其れは二〇一五年、後二十三年後の未来の話である。


 ねぇ、と燐子は言った。

如何(どう)して、飛ぶ鳥って書いて、あすかって読むの?」

「諸説有るけど。飛ぶ鳥の明日香っていう(ことば)が有ったらしい。アスカ、っていう土地を示す言葉を導き出すのに、『飛ぶ鳥の』っていう五文字の枕詞が使われたから、後世、音と漢字が合わさってしまった、って言う説だね。まぁ、古事記、日本書紀の表記だと『飛ぶ鳥』で『飛鳥(あすか)』が多いらしいけど、万葉集の表記だと『明日の香り』で『明日香(あすか)』が多いらしいし、表記に、どの程度意味が有ったかは分からないけど」

「…つまり?」

「…よく分かんないって事だね」

「そっか」


 玖一にも、よく分からないのか、其の説明は分かり易いな、と燐子は思った。


「あ、吉野山。吉野川。近畿日本鉄道吉野線吉野駅だって。面白いね。青梅にも、吉野って地名の場所が在るでしょう?」


 燐子は、ガイドブックに付いている地図を見た。

 玖一は、興味深そうな顔をして、地図を一緒に見てくれた。


「ああ、もしかしたら、こっちが先なんじゃないかな。桜なんかの名所だよ。此処に因んで付けた地名も、かなり有ると思うよ。百人一首には、吉野の里って、よく出てくるけど、奈良県に在る場所でさ。吉野川の上流は、紙漉きの里が在るから、其処で吉野紙っていうのが作られている」


 面白いねぇ、と、燐子は言った。

「斑鳩も、飛鳥も、吉野も、奈良県の地名かぁ」

「そうそう。奈良県は、他にも難読地名が沢山有るよ」


 世界が広がった、と燐子が言うと、玖一は、嬉しそうに笑ってくれた。


 新婚旅行二泊三日中、燐子は最高に幸せで、玖一と一緒だと、そんな、地名などという、普段は其れ程ピンと来ない事柄すら、輝いて見えた。

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