海苔子
御彼岸になった。
勇二の墓参りついでに、という形で、青梅市のT寺付近に在る、青梅の親戚だという、吉野博志という人の家を借りて、略式で結納をする事になった。
要は、披露宴前の顔合わせを兼ねているのである。
燐子は、仕方が無い事とは言え、紹介する親戚が残っていない事を、少し引け目に感じたが、遠縁らしいのに、結納の為に自宅を貸してくれる親戚が有る家に嫁ぐのだ、と思うと、不思議な気分になった。
親戚の多い家、況してや其の親戚と付き合いが有る家、というのがシックリ来ない。
全く違う家に嫁ぐのだ、と、燐子は再認識した。
着物の御直しが結納までに間に合わなかったので、紅子が、貸衣装で振袖を借りてくれた。
其れこそ、ベタな、真っ赤な晴れ着で、何と無く燐子は、今となっては、七五三みたいだな、と思って、少し可笑しかった。
良い着物を沢山見た後だと、真新しい貸衣装は、発色も刺繍も全然違って見えたのである。
成人式は、ちゃんとしてあげる、と言って、紅子が、着付けついでに、と、燐子の寸法を測ってくれた。
紅子は嬉しそうに言った。
「結婚した後だって、成人式に御振袖着たって良いじゃない、ね」
燐子は、微笑んで頷いた。
新しく家族になった人達が自分にしてくれる何もかもが嬉しかった。
博志の家には、青梅の親戚だという面々が集まってくれていた。
玖一は、年嵩の人達から、玖ちゃん、と呼ばれて、可愛がられていた。
両親に対する様に、玖一は、其の人達に優しかった。
燐子は、何と無く、伊蔵の事を思い出した。
伊蔵も玖一を気に入っていたが、玖一というのは、穏やかで、反面、異性に対する際には、其れが色気には繋がらず、其れ程受けなかった、というだけで、抑年寄り受けする人物なのかもしれず、燐子は、其れを微笑ましく思った。
博志の家の近くには茶畑が在った。其の向こうには、御近所のものだという果樹園が在った。
長閑で、新町という地名が馴染まない様に燐子には感じた。
「新町って?新しい町なの?」
到着前に、スカイラインを運転する玖一に、助手席から、振袖姿で、そう言った燐子に、玖一は微笑んで、言った。
「青梅っていう地名自体は平将門の頃からだとか言われているから、此処は、此の辺の中では、江戸時代初期に出来た比較的新しい町なの。名前が付いた当時の新町って意味だよ」
平将門の乱が平安時代中期に起った、などという事を、無論燐子は分かっていなかったし、其れが大体千年前だとすると、江戸時代は三百年前くらいだから、約七百年の開きが有る、という前提も知らなかった。
そして、江戸時代が新しい、という時間間隔が、燐子にはサッパリ理解出来なかった。
開墾という説明を玖一から付け加えられても、今一つピンと来なかったので、燐子は、そう、とだけ言った。
床の間に、博志達が用意してくれたのだという、古い金屏風が在った。
そして、綜一達が用意してくれたのだという、水引で飾られた昆布やスルメ等が有った。
幾久しく、などという、耳に馴染まない言葉を、玖一と向かい合って、互いに言い合う。
何時用意してくれたのか、結納金が入っているのだという封筒と、ルビーの石の付いた婚約指輪と、蒲鉾型の銀の指輪が、玖一側から贈られた。
二つの指輪を左手の薬指に嵌めた燐子と、礼服の背広姿の玖一を、博志が、結納の品々と一緒に、金屏風の前に立たせ、写真に収めてくれた。
其処に、急に、博志の近所の友達だという、知らないおじさんがやって来て、今日が結納とは知らなかったけど、おめでとう、などと言って、軽トラから、御裾分けだという野菜を沢山庭に降ろした。
博志が、作業着姿の其の人が帰ろうとしているのを引き留め、親戚全員での記念写真の撮影係を依頼した。
知らないおじさんは、撮れているのか此れは?と言って、二、三枚撮ってくれて、午後の作業が有るからよ、と言って、再び軽トラで去って行った。
一通り、そんな儀式めいた事が終わると、博志という人が、躊躇いがちに、創子ちゃん達は?と言った。
親戚は皆、黙ってしまった。
綜一が、未だ教えてない、と言うと、博志の妻の、郷子という人が、喫緊の課題を先延ばしにしている上司を見る様な、呆れた様な、困った様な目で綜一を見て、小さく溜息をついた後、御昼の用意をしてくれた。
郷子は紅子の幼馴染なのだという。
博志夫婦は子供が居ないので、紅子の子供達を大変可愛がってくれた、と、後から燐子は聞いた。
博志の家を借りて結納をしたのは、博志達に、玖一の結納を見せてあげたい、という、綜一夫婦の気遣いも有ったらしかった。
郷子が出してくれた昼食は、古い箱膳で、人数分用意された丁寧な料理だった。
知らなかったと見えて、綜一と紅子が恐縮した。
燐子は、博志夫婦の深い思い遣りを感じた。
「俺の快気祝いも兼ねているからさ。遠慮なく食ってくれな」
小さくて痩せっぽちの、博志という人が、少し玖一に似た、人の好さ気な顔で、笑いながら、そう言った。
冬頃まで入院していたのだという。
此の痩せ方は確かに、何かの病気ではあったのだろう、と燐子は察した。
博志は、足が悪いのか、嘗ての伊蔵と似た歩き方をしていて、歩くのも億劫そうである。
玖一が、燐子の為に、結婚相手を探してもらうよう依頼していた人物も、此の博志であった事を燐子は知った。
「何だぁ、玖ちゃん、結局自分の嫁さんにしちゃったのか」
食事しながら、玖一と燐子の馴れ初めを聞くや、博志は、少し腹に力の入らぬ様子ながら、爆笑した。
玖一は、恥じ入った様に赤くなった。
燐子の耳には、年嵩の女性達が、ヒソヒソと、親を亡くしたところに付け込んで生徒に手を出して、こんな若い子を、三十六まで結婚しないと思ったら、こんな可愛い子を、うちは御見合いを綜一さんに断られて、と言い合っているのが聞こえたので、燐子は、うひょー、と思った。
―風評被害、じゃなかった、悪口慣れね、はいはい。
十八歳差の結婚の風当たりは、やはり強い様子である。
―比較的穏やかそうな親戚達の中で、此の評価とはね。
創子と周子というのは、如何いう対応をしてくるのだろう、と、燐子は、少し背筋が寒くなる思いがしながら、祝い膳の料理を、せめて、と思って、残さず食べた。
午後、博志宅を辞してから、T寺に向かうと、住職が迎えてくれて、吉野家代々の墓まで案内してくれた。
―こんなに立派な墓が。うちのとは違うな。
そして、燐子は、住職の案内が必要な理由を知った。
親戚の墓だらけなのである。
一体どれが、どの吉野さんで、といった感じなのである。
年数回来ているが、未だに墓の位置が、うろ覚えなのだ、と綜一が言う。
分からないではない、と燐子は思った。
墓地に数列在る墓石の形式というか、雰囲気が、そっくりなのだ。
墓碑銘に書かれた人名も多く、管理している住職に聞かなければ、誰が入っている墓なのか、時々分からなくなるのだと言う。
住職は、台帳等で、亡くなった時期等を照らし合わせて、毎回墓の場所を予め探しておいてくれるのだそうだ。
住職が寺に戻ってから、玖一が、せめて、墓地の角に在る、とか、ヒントが有れば、と、小さな声で嘆いた。
綜一も、うーん、と唸って、言った。
「年々忘れる様になっちゃってさ。此の…九歳の女の子が一緒に入っている御墓で合っている?いや、御義父さんと勇二の名前も書いてあるし、多分此れだけど、何か…」
「…ええ…マサさんは…私の父方の祖父の姉で、早くに亡くなったって聞いていて。私の大伯母だから、此処が、うちの父と勇二が入っている御墓」
綜一の問いに、紅子が、稍自信無さげに答えた。
住職無しで、もし紅子が亡くなったら、本当に墓の場所が分からなくなりそうだな、と思い、燐子は少し不安になった。
綜一は、合っているよね、と、少しホッとした様に言った。
「此の…五歳の女の子と、七歳の女の子が入っている御墓と、毎回間違っちゃう。こっちも、御参りするの自体は良い筈でしょう?親戚だから」
「ええっと…此れは、私の父方の祖父の伯父の御墓なの。私の父の大伯父ね。ええ、ついでだし、此処も。其れと、彼方此方に御線香あげましょう。御彼岸だから、うちだけじゃなくて、他の家からも御墓参りに来たと見えて、彼方此方綺麗だから、今日は、掃除は、うちの御墓の掃除を軽く遣るだけで良いでしょう」
玖一が、申し訳なさそうに、あ、と言うと、良い背広と振袖着た人達は下がっていなさい、と言って、綜一が笑った。
「俺達で軽く遣っちゃうよ。帰りに、貸衣装屋に振袖返すでしょ。汚したら御金余計に取られちゃう。玖一は精々、倫子ちゃんが袖を汚したり、蝋燭で燃やしたりしない様に見張っていなさい」
玖一は、綜一の言葉を真に受けて、燐子の振袖の袖を、二つ重ねて、そっと手に取った。
何か、シルエットだけだと連行される犯人みたいだな、と燐子は思った。
一緒に墓掃除出来ないのを申し訳なく思いながらも、義理の両親の、墓を探し当てるまでの顛末を見て、此れは高度な間違い探し、と燐子は思った。
振袖で来たせいで、抜いた襟から、首筋にタップリと、春とは名ばかりの冷たい空気が入ってくる。
寒いし、動き難いし、連行されている様な有様でいて、此の服と、此の気温では、墓探しも墓掃除も上手く手伝えないのは事実だった。
―しかし、墓探しも墓参り前の作業に含むとはね。
だから墓参りの前に、寺に事前に連絡するのか、と燐子は察した。
恐らく、何時か燐子も此の作業を引き継ぐのだ。
よく見ておこう、と燐子は思った。
掃除が終わってから、全員で線香を供えて、御先祖に、吉野家の長男が嫁を迎える旨を報告し、全員で手を合わせた。
「勇二、うちにも御嫁さんが来たよ」
拝み終えた後、綜一が、少し寂しそうに笑って、そう言った。
紅子も玖一も、寂しそうに微笑んだ儘、何も言わなかった。
燐子は、心の中で、宜しく御願いします、と念じた。
同じ墓に入る、などという表現を聞いても、今までピンと来ていなかった燐子だったが、如何やら此れが、そういう事なのだろう、と、何と無く腑に落ちた。
死んだら、此処に皆で入るのだ。
帰りの車の中で、運転しながら、玖一が、落ち着いたら、伊蔵と華織の墓にも行こうと言ってくれた。燐子は、助手席に座って、泣きながら頷いた。
入籍は、平成四年四月一日の水曜日になった。
婚姻届け提出後、立川市役所のホールで、エイプリルフールだ、と吉野教諭は言った。
「嘘の日…あれ?夢とか?此れ。十八歳年下の美人の御嫁さん貰った、っていう夢?」
「吉野先生、落ち着いて」
燐子の言葉に、あ、と吉野教諭は言った。
「もう先生じゃないね?四月一日だから、担任じゃないよね?そうだ、だから、今日は、杉並区の学校、午前休にしてもらったわけだし。婚姻届けを提出しに。そうだった」
実際は、三月三十日の月曜日から、杉並区の私立高校勤務なのだった。大分動揺している様だな、と思って、燐子は、眼を瞬かせて、言った。
「…そうでした」
「…あ、じゃ、本当に、吉野倫子さんになったのか。いや、ちょっと前から義妹で、同じ名字だったから、ややこしいけど…」
吉野教諭は、いや、玖一は、感慨深げに、そう言った。
燐子は、あ、と言った。
「海苔子だ…」
すっかり失念していた、伊蔵との笑い話を思い出した。
よし、のりんこ、になってしまった。
足りん子からは解放されたが。
あの頃は、まさか名字が『野』で終わる担任の義妹になるとも、更には担任と入籍するとも、夢にも思っていなかったのだった。
「え、何?海苔?」
キョトンと聞き返してくる玖一の顔が面白かったので、燐子は、思わず笑った。
「こっちの話。いや、自分が贅沢だった頃の話、思い出しただけ」
「そ、そう?」
目を剥いた玖一が、変な顔をしている、と思って、燐子は更に笑った。
名前なんて如何でもいい事だったのに、と燐子は思った。
そう思えるくらい、結婚したい人が出来た、という証拠だった。
燐子は嬉しかった。
此の人だったら良いのだ。
顔も年も名前も、腹が出ていてもいなくても、此の先、伊蔵の様に太って、老けて、髪が薄くなっても、如何でも良い事だった。
きっと、そうなったら、燐子は、蛸焼きの様だ、と思って愛でるのだろう。
どんな人間でも、恋に落ちた時は、御互いが最高の美男美女になる事を、幸福にも、燐子は知った。
今、自分を幸福に出来る人間は目の前の一人しか居ない事も。
「じゃ、今日から玖一さんですね、先生じゃなくて」
「じゃ、倫子、か。…そっか」
「…脳が理解を拒否しています?」
「いや、よく考えたら妹以外の女の人を呼び捨てにした事無いな、と思って。生きていると、こんな事も有るのか」
帰る道すがら、如何にも生真面目な様子で玖一が、そう言うので、燐子は、市役所の駐車場で大笑いしてしまった。
何だか、そんな流れで、白いスカイラインの助手席は、燐子の専用席になった。
同じ様な流れで、玖一の部屋は、其の日から夫婦の寝室になった。
ロングサイズのダブルベッドも、夫婦の物になった。
変なの、と思って、燐子は可笑しくて、楽しかった。
毎日、燐子は、此れまで通り、シーツを替えた。
伊蔵の仮の位牌と遺骨は、羽衣町の御寺に頼んで納めてもらった。
玖一が、自室の本棚を改造して、ピッタリ嵌め込める木製の厨子を注文して作ってくれて、其処に、伊蔵と華織の戒名の書かれた、黒くて立派な、小さな位牌を入れてくれた。
夫婦の寝室で、そっと厨子を開ければ、燐子は、何時でも伊蔵に話し掛ける事が出来た。
有難う、幸せだよ、と。




