離任式
待ちに待った、卒業式が終わった。
燐子は、友達の誰とも話さず、真っ直ぐに、吉野教諭の元へ走った。
「せ、先生。離任って、本当ですか?」
卒業式のついでに、離任式も有ったのだ。
其の離任者の顔触れは、定年退職者以外の教師は、吉野玖一教諭、ただ一人だった。
「うん。言ってなかったっけ?だってほら、俺、産休の先生の代わりだったでしょ?此の高校とは一年契約だったの」
そう言えば本来、担任は数学の女性教諭だったのを、燐子は、今の今まで失念していた。
二の句が継げない。
吉野教諭は残念そうな顔をして笑った。
「七月の頭には決まっていたけど、産休の先生が戻って来たら、数学担当が余っちゃうから、契約、更新してもらえなくてさ」
「え、じゃ、仕事、如何する心算です?」
「今、二校から声が掛かっているからさ。其の二つから選んでいるところ」
そんな話をしていると、燐子の為に来てくれていた、綜一と紅子が、やって来た。
「玖一。聞いてないけど、そんな話」
寝不足であろうに、だらしないところ一つ無く、黒い背広の恐ろしく似合っている綜一が、眼を瞬かせている。
色無地に絵羽羽織を着た紅子も、そうよ、と言った。
吉野教諭は恥ずかしそうに答えた。
「いや、求職中だなんて、言い出し難いですよ、親に。一応、当ては有るから、決まってから言おうと思って。三月末までは此の高校所属だし、返事は来週までにすればいいから、心配掛けたくなくて」
「二校って?」
紅子の問いに、吉野教諭は、何時もの様に、穏やかに微笑んで、言った。
「千代田区の都立高校と、千葉市の公立高校です。千代田区の学校は、前の学校の時の、仕事の先輩が声を掛けてくれて。取り敢えず半期で。千葉の学校の方は、友達が勤めていて。大学の時の友達が声掛けてくれて、一年間契約です。で、今のところ、延長が期待出来そうだし、久し振りに千葉市に住むのも悪くないかなって」
「玖一、じゃあ、千葉市に住む心算?一年?いや、延長ってなったら、もっと?」
綜一の問いに、そうですね、と、吉野教諭は、明るく言った。
「千代田区でも、半年御試しで入ったら、延長してもらえるかもしれないから、迷っているところですけど。千葉の方が、長く定職に就ける可能性は高いですね。あの…、偏見っていうか、同僚にも言われた話だから言いますけど、此の年で独身だと何か有ると思われるらしくて。三十路に入ってから契約切られがちで、俺」
綜一が、場所を替えよう、と言った。
吉野教諭は、えっ?と言った。
燐子は、紅子に支えられながら、教員用駐車場まで歩いた。
今日は四人で、卒業式の為に、吉野教諭の車で登校したのである。
燐子は、自分が今どんな顔をしているのか、まるで分らなかった。
紅子に、吉野教諭のスカイラインの助手席に座らされた。
そして綜一がシートベルトを付けてくれた。
行きは紅子が助手席だったな、と、燐子は、埒も無い事を考えながら、ただ只管、俯いて助手席に座っていた。
生まれて初めて乗った助手席だったが、記憶が其処から途切れている。
燐子は、制服の儘、自室の畳に蹲り、立つ事が出来なかった。
―如何しよう。
何も考えられないし、何もする事が出来なかった。
―そうだ、高校は卒業したから、春から、夢にまで見た専門学校生だ。
そう思いながら卒業証書の入った黒い筒を見たが、感情が何も動かなかった。
伊蔵の位牌を見詰めていると、日野さん、という声がした。
「入っても良いかな?」
「はい」
「…えっと、如何したの?」
「はい」
「…あの、春からさ、新生活だね」
「はい」
「俺も、日野さんに負けない様に頑張るよ。言うの、ちょっと遅くなっちゃったけど。ほら、もし千葉に決まっても休みには帰って来るし。此処が俺の実家だから」
「はい」
「日野さん?」
「…寝ます」
「…分かった。じゃ、御休み」
新生活、という言葉が、燐子の胸に、グサリと突き刺さっていた。
―新しい場所か。新しい生活。
―縁が切れる。
燐子は、泣く事も出来ずに、適当に敷いた布団に、制服の儘横になって、毛布と掛布団に包まって、ただ壁を見詰めていた。
気付けば本当に寝入っていたらしい。
目を覚ますと、綜一が、燐子の顔を覗いていた。
「倫理ちゃん、御昼御飯だよ。式が終わったから、御腹空いたでしょ?」
「ああ…」
「制服で寝ちゃったの」
「あ、はい」
「…もうちょっと、寝る?」
「はい」
「…多分疲れたからだね。二月から、無理矢理立ち直ろうとしていたから、反動が来たのかも。卒業式も終わって、気が抜けたのかもしれないし」
「はい」
「ちょっと休んだ方が良い。…俺も、仮眠取ろうかな」
「はい」
「…酷いな、人間、一瞬で、こんなにボロボロになるのか」
「はぁ」
「小さな火が消えかかっている」
燐子は、其れ以上は、返事をする事も出来なかった。
ただ只管寝た。
夕方、目覚めた燐子は、制服を脱いで、塵袋に捨てた。
セーターとジーンズに着替えて、顔を洗った。
そして、少ない荷物を鞄一つに纏めて、専門学校に電話を掛けた。
コートを着て、鞄を持って台所に行くと、紅子が、夕飯の支度を始めていた。
綜一も、仮眠から起きたのか、食卓で新聞を読んでいて、吉野教諭が其の向かいに座っていた。
「あら、倫子ちゃん。…其の荷物は?」
着物から疾っくに着替えて、何時ものエプロン姿になった紅子が、ホワイトソースを作る手を止めながら、ハッとした様な声を出した。
此方も、普段着姿の綜一と吉野教諭が、心配そうな顔で、燐子を見てきた。
「…あの。御世話になりました。あたし、此処を出ます」
其の場にいた、燐子以外の全員が、驚きの声を上げた。
「日野さん?如何して。此処から専門学校に二年通うって」
「あの、其れですけど。先刻電話で、入学、辞退してきました。御金も、返金の手続き、してもらっています。今まで、色々有難うございました」
「日野さん?」
「あの、沢山良くしてもらったのに、こんな形で、全部無しにしてしまって、ごめんなさい。先生、折角弟子にしていただきましたけど、専門学校には進学しない事にしたので、…ごめんなさい」
「な、何で、何で?日野さん。さっきから、如何しちゃったの?死にそうな顔して」
「ごめんなさい」
「いや、だって。あんまり急じゃない。あんなに、進学喜んでいたのに、如何して?何で、何もかも捨てて、此処を出て行こうとするの?」
「ごめんなさい」
「日野さん、ちょっと、如何して?」
狼狽する吉野教諭に向かって、綜一が、新聞を畳みながら、吐き捨てる様に、鈍い、と言った。
紅子も、ホント、と言って、呆れ顔をしてから溜め息をつき、コンロの火を消すと、エプロンを取って、食卓に置いてしまった。
吉野教諭は、え?と言った。
「父さん?母さん?」
「あのねー、情熱の火が消えちゃったのよ、倫理ちゃん。誰かさんのせいでー。だから、進学に傾ける情熱なんか、残って無いって事でしょー」
「…え?じょ、情熱?ちょっと、詩的な言い方だと分かんなくて。俺に分かる様に言ってもらえません?文学芸術の類は、からっきしで」
「馬鹿息子。引き取った教え子の世話、途中で投げ出すなよ。成人まで見届けな、せめて。もー、どぉするの。ほら、進学辞めちゃったじゃない」
「え、だって。え?あの、父さんの弟子って事で同居して…」
紅子が溜息をついて、言った。
「そりゃ、ね?綜一さんの御弟子さんって事には、便宜上しましたよ?住所もアトリエでね?私も、此の子が落ち着くまでは御世話してあげたいし、ね?そりゃ、衣食住は有りますよ。成人した同居人も居ます。でも、そうじゃないでしょう?」
燐子は、もう良いですから、と言った。
「もう、卒業したから、生徒じゃないです。だから気を遣って頂かなくても」
「いや、便宜上、三月末までは、高校所属だよ、高校の学生証も学割も使えるし、日野さん。春休み中は、俺、担任だよ?ね、ちょっと、待って、本当に」
燐子を引き留めようとする吉野教諭に向かって、綜一は、だーかーらー、と言った。
「そういう事じゃ無いの。良ぃい?大事な物を全部投げ出しちゃいたい様な事が有ったの、此の子は」
何時もの、レッドトパーズの付いたループタイの端を右手の指で弄りながら、綜一は、少し意地悪そうな声で、気付きを促す様にそう言った。
しかし、吉野教諭は目をパチクリさせた。
「え?何時ですか?」
息子の言葉を聞いた紅子が、珍しく、馬っ鹿じゃないの、と苛々(いらいら)した様に言った。
「離任式の後よ」
吉野教諭は、ポカン、とした顔をした後、赤面した。
ブルーの普段着用シャツの上から着ている、白いフィッシャーマンズセーターと顔の色のコントラストが行き成り強くなるくらい、顔が真っ赤だった。
「う、嘘でしょ?父さん」
知ぃらない、と、綜一は、燐子が今まで聞いた事が無いくらい刺を含んだ声で言った。
「でも?誰かさんが千葉に行っちゃうなら、もう何にも要らない様な気分になったって事は確かじゃない?ああ、詩的な言い方だから分かんない?」
「嘘でしょ?え、そんな事、今まで無かったですけど。三十六年間一度も」
「一生に、そう何度も有るかい、こんな事。つまり、そういう事だよ」
「嘘でしょ?え、母さん」
「…いや、ちょっと、予想はしていたわ、私」
「俺も。三月くらいには、予感が確信に変わった」
「え?何で、ですか?」
紅子は、少し言い難そうに、そりゃ貴方、と言った。
「一緒に暮らせば情も移りますよ、人間。特に、倫子ちゃんは気持ちが不安定な時期だったし」
綜一が、そうだよね、と言った。
「玖一に春が来たら、ちょっと面白いなと思ったから俺、ずっと黙っていたけど。いやー、あれだけ言っても運動しなかったのに、急に徒歩で通勤し始めるし。ガムも煙草も止めちゃって。あんなに言っても、自分で、自分の部屋の塵出さなかったのに、掃除機まで自分で掛けるようになっちゃってさぁ。若い女の子と同居して、ちょっと、見栄張りたくなっちゃったのよね、多分。ま、其れは其れで相当面白かったけど」
「な、何で面白がるの?父さん。他人事みたいに。予想していたなら、同居を止めるべきでは?十八の女の子ですよ?あ、寧ろ率先して同居させたのは、面白がっていたせいも有るのか?」
吉野教諭の声は、最早パニックに近かった。
反して、綜一の声は冷静其のものだった。
「だって、恋愛なんて他人事だもん。他人っていうのは、自分以外の人の事だから。俺、もう奥さん居るし、他人の、そういうの、ちょっと面白い話でしかないから」
「な、何で父さん、何時も優しいのに、子供の恋愛話とか、結婚話の時は、何時も、そんな、突き放すの?妹二人の結婚だって」
「違うの。大事な事だから、自分で決めなさいって事。だから口出さないの。どの子にも、自分で決めさせたかっただけ。玖一に、結婚しろとか言った事も、一回も無いでしょ。御見合い勧めた事も無いじゃない。別に、此の子と同居を勧めた理由だって、一つじゃないよ。倫理ちゃんが心配だったのは本当だもん。家族にしてあげたいなって思っただけ。さ、そろそろ自分で決めなさいね。俺、席外すわ。紅子さん、アトリエ行こう」
「はい」
「え、ちょっと、二人共?」
綜一と紅子は、アッサリと出て行った。
燐子は、初老の夫婦が台所から退室するまでの顛末を、ただ、ボンヤリと見守っていた。
日野さん、と、吉野教諭は、真っ赤な顔で、燐子に向き直った。
「あの、俺、本当に分かんなくてさ。何で?」
分かりません、と、燐子は言った。
「あたしにも、分かりません」
燐子は、自分の目が潤むのが分かった。
吉野教諭は続ける。
「でも、自分の為にならないでしょう、今更進学辞めたって。出て行くったって、何処行くの」
「要らないからです」
「え?」
「もう何にも要りません」
「日野さん」
「何か、急に、空っぽになっちゃった気がして。…何にも考えられないんです。だから、進学も…出来ません。頭が働かなくて。…此処を出ます。今日は、リョーコのとこにでも行きます。明日の事は、明日考えます。元々、そういう暮らしだったし。蓄えは、未だ有りますから、何とか遣っていけるでしょう」
「…何で…空っぽになっちゃったの?」
其処まで言われたら、燐子にも流石に分かった。
吉野教諭が傍に居なくなるからだ。
吉野教諭には、別に燐子が必要では無いのだ。
だから、置いて行かれるのだ。
吉野教諭に好きになってもらえない自分は、要らないのだ。
―また、要らないのか、あたしの事。此の人も。
昨夜欲しかった言葉を、燐子は知った。
吉野教諭に、燐子が必要だと言ってほしかったのだ。
目の前の人間の関心を得られないなら、自分など用済みだった。
誰かでは無くて、他でもない吉野教諭に必要としてもらえないのなら、自分が何だろうと無価値だった。
離任式の後、燐子は、衣食住を自分に与える必要性も、進学の先に開ける未来を自分に与える必要性も、まるで感じなくなってしまったのだ。
そういう輝かしいものが不相応な自分に、急になってしまった様に感じた。
燐子は、手に持っていた鞄を置いて、両手で顔を覆うと、ボロボロ泣いた。
―そうだったのか。
燐子は、目の前の人物が好きだったのだ。
だから、自虐めいた事を言われると苛々したのだ。
自分の大事なものを否定されたから、嫌だったのだ。
胸に宿った、くすぐったい感情の正体を知ってしまった。
高校を卒業しても、二年間一緒に居られると思ったから、燐子は嬉しかったのだ。
だが、目の前の人間を困らせる事は、燐子の本意では無かった。
引き留める言葉は言えない。
其れに、そんな言葉には何の効果の程も期待出来はしない。
何しろ、燐子は要らないのだから。
両親すらも自分を置いて行った。
そんな自分の言葉に、何の力が有るとも思えない。
其れに、相手が、千葉に行った方が定職に長く就ける可能性が上がるのだと言うなら、其の方が良いのだ。
ただ、もう、自分が、此の人物の視界に入る事すら耐え難い。
其のくらい惨めだった。
自分の運を信じる、などという事は、最早出来なくなっていた。
燐子は、完全に心の足場を失っていた。
―ほら、関係無い。あたしも、山田さんも同じ。見た目なんか関係無い。あたしも、処理済みの書類。進学先が決まったデータの一つ。
此の人には、自分が必要ではない。
身寄りも何も無い燐子とは違い、家も家族も仕事も有る人なのだ。
仕事だから構ってくれて、そして其れは素晴らしく人道的で、教師としては本当に善良だった。天職だろう。だから、其の仕事を続けさせてあげた方が良い。
未来とか、家族になれそう、などという淡い期待とか、そんな不確かなものに自分を委ねた事を、燐子は後悔した。
伊蔵の、家族の代わりに勝手にしようとしていた優しい人間に、燐子は無意識に心を委ねてしまっていたのだった。
でも、もう直ぐ此の人間は燐子の目の前から居なくなる気なのだ。
消えてしまいたい、と、燐子は思って、泣いた。
「千葉には行かない」
突然の言葉に、燐子は、思わず顔を上げて、吉野教諭の顔を見た。
「此の家から、千代田区の高校に通う。昼に返事したから、電話で」
「…如何して?え、もう決めたって…早くないですか?」
「心配だったから、日野さんが」
「如何して?…だって、千葉に行った方が。千葉に住むの、楽しみでしょう?」
「いや。俺、仕事が決まって、新しい所で頑張るって言ったら、日野さんが一緒に喜んでくれる様な気が、何故かしていて。大人が求職中っていうのも、何か格好悪くて言い出せなくて。でも、千葉に行こうかなって日野さんに言ってから、何か、自分の答えが間違っていた様な気がして」
合っているかな?と吉野教諭は言った。
「こっちを選んだ方が、喜んでくれるのかな?此の答え、合っているかな?」
吉野教諭の顔は、真剣其のものだった。
「…何も考えられないならさ、一緒に考えない?日野さん。此れからの事」
燐子は、信じられない気持ちで、吉野教諭の言葉を聞いていた。
「日野、いや…倫子さん。結婚してください。二年じゃなくて、ずっと一緒に此処に住んでください。御願いします」
どのくらい経ったのだろうか、台所のドアが開く音がして、綜一の、まとまったぁ?という声が聞こえた。
しかし、燐子が吉野教諭への返答を抱擁で返していたせいか、御邪魔しましたぁ、と言う声がして、再び扉が閉まる音が背後で、した。




