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エチカ 『瀬原集落聞書』  作者: 櫨山奈績
第二章 平成四年
25/43

振袖

 卒業式に綜一と紅子が保護者として来てくれる事になって、燐子は本当に嬉しかった。


 卒業式の前日、夜に紅子の着物と帯を出すのを手伝いながら、燐子は幸せだった。


「誰かの卒業式に出るなんて、何年振りでしょ。ふふ」


 紅子は燐子の為に、態々、色無地を着て出てくれるのだと言う。

 誰かが自分の為に、そんな事をしてくれるのは初めてだった。


 自分の七五三だって満足に遣ってもらった記憶は無い、と言うと、成人式に振袖を着ては如何(どう)か、と紅子は言ってくれた。


「振袖だったら何枚か有るのよ。古いって言って、娘たちは嫌がったけど」


 そう言って、紅子は、豪華な着物を幾つか出してくれた。


 実は、ベタだが、真っ赤な晴れ着に憧れていた燐子だった。


 しかし、振袖を着たいなどと、伊蔵に言い出せた試しは無かったのである。

 見せてもらえただけで、燐子は、凄く楽しくなった。


「勿体無いもの、着てくれるのだったら、(たけ)(ゆき)を直してあげる。…腕も、貴女、長そうねぇ。そうすると、長襦袢は新調した方が良いかしらね」


 そう言って紅子が着せ掛けてくれる布地は、どれも豪華だったが、其れより、燐子は、着せ替え人形の様にして、こんな風に、女の人に構ってもらったのは何年振りだろう、と思って、嬉しかった。


 紅子も楽しそうで、本当に、燐子は幸福だった。


「こういうのをね、結婚式の御色直しにした時代が有ったのよ。悪くないでしょ」

「いえ…凄く…素敵。見た事無いくらい。発色が違う気がします。新しいのより好き」


 姿見を見て、燐子はウットリとした。


 ベタな真っ赤の晴れ着が良い、と思っていたのだが、着せ掛けられて見ると、意外に渋い色も、ハッキリした色も燐子に似合った。


 良いわね、と紅子は言った。

「地味かと思っていたけど、倫子ちゃん、鴬色も似合うのねぇ。此の帯なんか如何(どう)かしら。小物は…新調しましょう。帯揚げは新しいのにして、其れから…」


 紅子が、途中まで着付けをしてくれた。


 其処に、吉野教諭が、やって来た。


「え、ごめん。着替え中?二人が居ないなと思って、探してみただけだったから、気にしないで」

「ああ、玖一、如何(どう)かしら。成人式に着せてあげたいのよ、倫子ちゃんに」

「あー、良いじゃない」

「綜一さんにも見てもらいましょう」

「着物の絵も描くとか言い出しそうだね。喜びそう」

「私、ちょっと呼んで来るわ」


 紅子は、楽しそうに、パタパタと部屋を出て行った。


 紅子の部屋の桐箪笥と姿見の前で、中途半端に着付けられた燐子は、居心地が悪かった。


 しかし、吉野教諭は、有難う、と言った。

「娘が二人も居るのに気の毒だけど、孫に、七五三とか、こういう事をして遣れなかった人だから。もう少しだけ付き合ってあげて」

「え?」

「…妹二人…実家に帰って来ないから。俺、甥は居ないけど、姪は何人か居てさ。其れこそ、小学生とか中学生くらいの。けど、あの二人が両親に孫を見せに帰って来た事が無い。嫁に行ってから一度も」


 燐子は、あの黒い塊の事を思い出して、()も有りなん、と思った。


「…あんな、良い御両親に…孫も見せないんですね」

「…ね、知ってるだろうけどさ、うち、普通の家じゃないから。…あんな風じゃ、孫娘が何人居たって、成人式の一つも、相談すら来やしないよ。だから、日野さんが来て、母さん本気で嬉しいわけ」


「…本当に?」


「うん。母さんだけじゃないよ、父さんも、そうだよ。俺が、こんなだから、孫も抱かせてあげられてないけどさ。日野さんと話しているの、二人共楽しそうだもん。年頃の娘さんと、まともに会話出来るなんて何年振りかってところだと思うよ。あの…日野さんは、まともだから」


 燐子は、族入り以降、伊蔵以外の人間からそんな評価を直接聞いた事は無かった。


「そんな事って、有るでしょうか。そりゃ、あたし、あんな黒い塊、体から出しませんけど…」


「だって、うちの話を聞いて、異常だって思えるって事でしょ?君は。普通だよ。まともだ」

「…いや、まともじゃないです、あたし。まともな結婚だって出来るか分かんないし」

「え?」


「両親居ないし、結婚式をしようとしたって、親戚誰も来やしません。此処に、こうして住まわせてもらっているだけ。前も言ったけど、孤児みたいなものですよ、幾ら、父親は生きてるったって、あんなだし…」


 ()(もっ)て同じ年くらいの男の子と話が合わない様では、結婚相手だって、此の先現れるか如何(どう)か分からないと思う燐子である。


 しかし、吉野教諭は、何だ、と言って、何時(いつ)もの様に穏やかに微笑んだ。


「そんな事言って結婚しない様な人、自分に相応しくないって思ったら良いよ。結婚式には、友達を呼んだら良いじゃない。来てくれる人だけ呼んだら良いよ。そうやって、手元に残った縁が本物なんじゃないかな。君は、友達が沢山居るじゃない。(みんな)、君の、良いところを見てくれたから、友達で居てくれるでしょ?」


「良いところ?」


「君、良い人間だよ。友達の悪口、絶対言わないじゃないか。結構面倒見も良いし、何より、義理堅い。別に、必要も無いのに誰かに敢えて媚びたりしないけど、誰かを虐めたりもしない。周りの話を聞いていると、結構友達を助けているよね。言うべき事はハッキリ言うし、良い気性だよ。俺、こんなに友達居る子なのか、って、吃驚(びっくり)したよ。忌引きで休んで、あんなに友達から手紙貰う子、見た事無い。修学旅行だって、きっと、(みんな)、本当に君と行きたかっただろうなって思った」


 燐子は、頬が熱くなるのが分かった。


「…誰にも、そんな事、言われた事無いです。あの、あたし、良い生徒じゃなかったのに。だって、先生の誕生日、あたしの病院で過ごさせちゃって、あたし、本当に、()だ申し訳ないって思っていて。バイク事故なんて、ふ、不良でしょ?教師からしたら」


 吉野教諭は、あはは、と笑った。

「良い生徒とか、もう良いよ。卒業した後の方が人生長いから。良い生徒より、良い人間の方が、ずっと良いよ。安心して。若いから、焦らなくて良いじゃない。日野さん美人だし、何時(いつ)か結婚出来るよ」


「…あー。見た目…」

「え?」


「…あたし、見た目が良いですか?」


 美貌云々より、強いて言えば、自分が、若く、そして男好きする容姿なのだろうという自覚は有った。

 其れを同性から羨ましがられる事も、感覚では理解している心算(つもり)の燐子だった。


 吉野教諭は、キョトン、とした顔をした。

「…いや、如何(どう)したの?そうだと思うけど」


「でも、お父さんも、お母さんも、あたしの事置いて行きました、最終的には。あたしの見た目が如何(どう)でも、…可愛くは無かったんでしょうね、自分の事よりは」


 燐子が、そう言うと、吉野教諭は黙った。


 燐子は続けた。

「お母さんは、あたしの目の前で、トランクに荷物を入れて、男の人と出て行っちゃったし、お父さんは、新しいお母さんと蒸発しちゃいました。此の前会うまで、四年くらい、会った事も無かった。二人共、あたしの事、別に要らなかったの。一緒に持っていく必需品じゃなかったの。最優先が、あたしじゃなかったの。可愛がってくれようとはしたんだろうけど…。お父さんなんて、会っても、金寄越せって…。今なら分かるんです。両親不仲でバタバタしてたから、自分の七五三の写真も(ろく)に残ってないんだって事…」


 伊蔵の遺品のアルバムに、キチンと残っていた燐子の写真は、精々二、三歳くらいまでの物しか無かった。

 着物を着せられている物が残っていないわけでもなかったが、小さな写真で、燐子には、其れが七五三の写真なのか如何(どう)かの判別もつかない。

 幼稚園に入る前くらいの物だろうか、という写真を境に、家族揃った写真は(ほとん)ど無くなっていた。

 小学校の入学式に校門の前で華織と映っている写真は有ったから、他に豊等の写真が有ったとしても伊蔵が処分してしまったのかもしれないが、今となっては其れも分からない。

 後は(まば)らに、幼稚園や学校の行事で撮った様な物と集合写真が残っているだけで、両親の第一子、祖父母の初孫である筈の自分のアルバムは、振り返って見てみても、驚く程厚みが無い。


 自分の幼少の(みぎり)の写真が少ない事自体が、自分の重要性の低さを物語る様で、折角(せっかく)の大事な遺品だが、見るのは楽しくない。


 自分を可愛いと思っていれば、もっと写真を撮って残してくれていたのではないか、と、如何(どう)しても思ってしまうのだ。


 其れは確かに、華織が自分の親権を取ろうと努力してくれた事を知った時には救われた気持ちになったが、理由は如何(どう)あれ、両親に置いて行かれた、という事実は、誰に、どれだけ容姿を誉めそやされても、(とげ)の様に燐子の心の何処かに引っ掛かっていた事だった。


 しかし、其れを気にしている事を認めたくなくて、燐子は誰にも、其の事を話した事は無かった。だから、華織の訃報を聞くまでは、母親の存在すら、頭の中から抹消していた。


「新しいお母さんも美人だったけど、幸せそうじゃなかった。スタイルが良いより、ちょっとくらい太ってようが、可愛がられて育った子の方が…不細工だったって、お父さんや、お母さんに置いて行かれない子の方が良い…って、思っちゃう事が有って。贅沢なのかもしれませんけど。おじいちゃんとおばあちゃんが、あんなに可愛がってくれなかったら、如何(どう)なっていたか。あたし、おじいちゃん達にしか、要るって言ってもらえなかった気がしちゃって。…あたし、お母さん、御骨になって帰って来て、ちょっと嬉しかったの。もう、お母さん出て行かないんだ、あたしは置いて行かれないんだ、って思っちゃって。…帰って来てくれて嬉しいって、そんな形で思うなんて、あたし、やっぱり、まともじゃないです」


 燐子は、吉野教諭の方を見ずに、姿見の中の自分を見て、言った。


「…うん。そうだ。だから、自分の取り得が、若い事ぐらいだって思うから。…人間の見た目を気にして…。そうなのか」


 相手が自分の見た目を気に入ってくれたら居場所が出来る。


 其れは燐子には有難い事で。

 そして其れは、美やファッションやスタイルや容姿を、燐子の中で、物の価値の基準にした。


 だから、燐子も相手を、時に容姿で判断した。

 

 一方で、両親に(かえり)みられなかった自分の事は、然程(さほど)重要視出来なかった。


 容姿も貞操も、そうだった。

 自分の事が、そんなに好きでなかったのだ。

 だから特別、居場所を得る方を優先して、自分を大事にしようという気は無かった。

 他人から見て何と無く自分の見掛けが良ければ、其の事で居場所を得られれば其れで良かった。


 もっと綺麗になりたい、と思った事は(ほとん)ど無かった。

 容姿が良い事で得をする事は有ったが、今より物凄く美人になっても、幸せになる事とは別な事の様に思えるからだった。


 仮に自分が絶世の美女でも、燐子は、やはり両親に(かえり)みられなかっただろうと思うのである。


 そして、其れだけが自分の取り得だと思うからといって、若さや美を追い求め過ぎる様になる事は、内心恐れていた。

 燐子は、そうはなりたくないのだ。

 そういう移ろい易いものに依存する様になっては、金が幾ら有っても足りないと思うからだ。

 若くなくなったら、美しくなくなったら自分に価値が無くなる、と思うのは怖い。

 そうは思いたくないのだ。


 だから芸能事務所の名刺は捨てたし、手に職を付けてみたかった。

 そんな、若さとか美しさとか、失うかもしれないものに依存したくない。


 燐子は、自分が、意志が弱く、安易に、そういう物に依存する可能性が有る事を知っていた。

 其れは、裏返せば、醜くなったら必要ではない、と他人から言われたくない事を示していた。

 そんな可能性からは自分を無意識に遠ざけておきたかった。

 死なずに生きていられる居場所が欲しいだけなのに、移ろう価値で其れを脅かされ続けたくは無いのだ。


 得たいのは心の平穏なのだから。


 そして、見た目など関係無く、善人は善人だった。

 此の担任の様に。


 そして、きっと、自分を可愛がってくれたから、必要としてくれたから、燐子は、どんな容姿でも、老いて、足を悪くしていて、決して美しくなくても、伊蔵が愛おしかったのである。


 あの、今でも会いたい、瞼に焼き付いている、蛸焼きの様な容姿が。


「でも、まぁ、そうですね…特進クラスに、山田さんって居るじゃないですか。ああいう感じの子だったら、誰からも可愛がってもらえたのかな、なんて、思った事は有ります。見るからに良い子で、優しそうで」


 愛くるしい、愛おしい容姿、というのは、其れでも確かに存在していて、燐子は、其れには、少しだけなってみたい様な気もした。

 成績も素行(そこう)も良い山田(やまだ)純子(じゅんこ)は、燐子には、ちょっと羨ましい存在だった。


―ああいう子は、一人ぼっちで餓死するかも、とか、野垂れ死ぬかもって思った事とか、クズ拾いになった事、無いだろうな。


 卒業式にも、きっと、実の両親が揃って来るのだ。

 山田純子という人間と、(ほとん)ど話した事は無いが。

 そして、ああいう容姿だから可愛がられたのか、可愛がられたから、ああいう容姿になったのか、其れは燐子にも分からないが。


 可愛がられて育った子、というのを、燐子は不思議なくらい敏感に見分ける事が出来るのである。

 そして、其の逆の育ち方をした子も。


 山田純子は、其の点に於いて、燐子の中で『学年で一番』だった。


「…待って、山田さん…?」

 吉野教諭は、そう言って、首を捻った。

 何?と燐子は思った。

「え?ほら、特進クラスに、可愛い子居るじゃないですか。あの、髪の毛フワッとした」

「えーっと…山田さん、学年に三人居るじゃない?」

「特進クラスは、二人です。ほら、文系の方の。目がクリッとした」

「…待って、思い出すから…浩美(ひろみ)さん?…え、そんな可愛い子、居た?」

「だから、そっちは理系です。純子(じゅんこ)さんですよ」

「…えー、あー、津田塾大学行った子ね!」

「あ、そうなの?」

「英文に入った筈。はーはー、あの子ね。…そんな可愛かった?」


「…ちょっと待ってください。進学先で覚えているって事ですか?」

「…いや、一年間で、一学年全員覚えるの、結構頑張らないと出来なくてさ。自分のクラスは別ね?ほら、特進の私立文系大志望の子は特に、殆ど話しないしさ。俺、部活顧問とかもしてなかったし。だから、あのー、進学先決まった子から先に、頭の中で、処理済みの書類みたいにして記憶分類するわけ。だから、他のクラスの、進学が決まった子は、名簿データの脳内ソート方法が進学した大学名と学部名でさ」


「…ちょっと、何言っているのか、分かんないですけど。あんな可愛い子覚えてないなんて信じられない」


「いや、相手が可愛いか、そうでないかで覚えちゃ駄目。そんな教師、嫌でしょ。卒業までは絶対、そういう目で見ちゃ駄目。どの子も可愛いの。あと、賢いか、そうでないかって覚え方も駄目。性格の個性と適性以外はフラットに見て、ちゃんと学校生活送れるようにしてあげて、卒業させてあげなきゃ」


「…ある意味公平ですけど」

 良い先生だけど、スゲークソ真面目だよな、と思って、燐子は、ある意味呆れた。


 大丈夫、と吉野教諭は念を押した。

「其れでも俺、日野さん、美人だと思うよ。自信持って」

「…どうも」


 今の話を信じるならば、山田純子さんを覚えていられない程度の審美眼という事になるが、と思い、燐子は、吉野教諭の言葉を、今一つ信じられない気持ちで聞いた。


 しかし、吉野教諭は、力説した。

「絶対、日野さんの事必要だって言って、プロポーズしてくれる人が居るからさ。自信持って。其れまでは、自分だけでも、自分の事要るって思っていたら良いじゃない」

「ああ、まぁ…」


 其れはそうだな、と思い、燐子は言った。

「そうですね、…こうやって、こんな大事な着物なんか着せてもらって、可愛がってもらったら、自分の事、ちょっと好きになって来たかも。此処に来た御蔭ですね」


 燐子は、もう一度、姿見を見た。


 垂らした髪が、振袖の胸元を覆うくらい伸びている。

 女らしくは見えた。


 ほらほら、綺麗じゃない、と、吉野教諭は、取り成す様に言った。

「自分の子をさ、御祖父さんとかにしてもらったみたいに、可愛がってあげられる日だって、きっと来るよ」

「ああ、七五三とか、してあげて」

「そう、晴れ着着せてあげて。そうだ、子供に服を作ってあげたって良いし」

「ああ…そういう日も来ますかね、何時(いつ)か」

「うん、其れでさ、何か、気が向いたら、うちの両親にも会わせてやってよ。喜ぶよ」

「…そっか、其れまでは、頑張ってみようかな」


 二人で、そんな話をしていたら、紅子がグッタリした様子で帰って来た。


「ごめんなさいね、倫子ちゃん。今日は駄目だわ。随分粘ったけど、あの人、仕上げ作業に入って。ああなると駄目ね。水も飲んでくれないわ」

「え?」


 あー、と吉野教諭は言った。

「集中力が凄くてさ。今日は、描き上がるまで寝もしないよ、父さん。危ないよね、何時(いつ)か脱水起こすかもって冷や冷やする。今俺達が何言っても、聞こえない」


「成程…じゃ、脱ぎます」

「本当に、ごめんなさいね。今度寸法測らせて頂戴」


 じゃあ、と言って立ち去ろうとする吉野教諭に、玖一、と紅子が声を掛けた。


「ね、此の鴬色のと、牡丹色、どっちが良いかしらね」


「どっちだって綺麗ですよ。何着たって、日野さんの中身が変わるわけじゃ無いですから。着物も、良い着物です…もういいや、一生分女の人を褒めた気分。もう語彙が残っていません。成人式が楽しみじゃないですか。明日に備えて、風呂入って寝ます」


 吉野教諭は、赤くなりながら、(きびす)を返した。


 紅子が、一生分?と言った。

「…何か言っていたの?あの子」

「…うーん、励ましてくれただけだと思います。気を遣ってくれたというか」


 多分、燐子が、両親に(かえり)みられなかったなどと湿っぽい事を言ってしまったので、あの人の好い担任は気を遣ったのだろう、と燐子は解釈した。

 紅子は、今一つ納得出来ない、という顔をして、そう、と言った。




 夜、伊蔵の位牌に、燐子は、明日は卒業式だよ、と言った。

「今日は振袖着せてもらっちゃった、凄いでしょう。沢山褒めてもらったよ」

 あ、と燐子は思った。顔が赤くなる。


―そっか、沢山褒めてもらったよね、綺麗だって。


 其の日は、其れ以上、伊蔵に、何と無く報告出来なかった。


 布団の中で、燐子は考えた。


 卒業するまでは、どの子も、そんな事を基準に見てはいけないと考えている人間が、美人だ、綺麗だと言ってくれた。


 其れは、気を遣って言ってくれたのにしても、結構大事な事だった。

 しかし、言われている時は、全く言葉が心に響かなかった。


折角(せっかく)褒めてもらったのに。


 何と無く、どの言葉も、燐子の欲しい言葉では無かった。


 聞きたいのは、そういう言葉じゃない、と思いながら聞いてしまったのだ。


 では、吉野教諭から欲しかった言葉は何だろう。


 そんなものが有るのだろうか。


―ほら、綺麗だって、美人だって言われたって、別に、何もかも自分の思い通りになるわけじゃ無いじゃない。


 今夜は、胸に、くすぐったさを感じなかった。

 早く寝ないと、と、燐子は少し焦った。

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