広がる世界
何でこうなった?と思いながら、燐子は、手芸店で布を選んでいた。
傍らには、吉野教諭が居た。
綜一の命令で、大きな物を買っても良いように、と、車を出してくれたのだった。
申し訳ないが、折角なので欲しい物を買う事にした。
吉野教諭は、嫌な顔一つせず、手芸店の中まで付き合ってくれた。
「へー、ちゃんと来たの、初めてだけど、面白いね」
「あ、面白いですか?」
興味の無い場所に来て、さぞ退屈だろうと気にしていた燐子には、意外な言葉だった。
「うん。子供の頃、母と手芸店に来る時は、途中で本屋に逃げちゃって。一緒に入った記憶が殆ど無い。でも、思ったより、色々売っているね」
「ええ。あれは、赤ちゃんの玩具の中に入れる、音の鳴る部品です」
「あ、そうなの?」
「そうです。タオル地とかで玩具を作って、綿を詰めて、あれを入れると」
「あ、何か見た事有る、そういうの」
「多分、見たら、ああアレね、ってなると思います。押すと、ブーって鳴る笛です。同じ玩具でも、鈴みたいなのを入れたら、柔らかいガラガラみたいになる筈ですよ。あっちは、染料」
「あ、成程ねー。そっか、化学染料も有るのか。面白い。来なかったなんて、ちょっと勿体無い事していたかも」
成程ねー、の言い方が綜一に似ていたので、燐子は可笑しくなって、クスッと笑った。
「欲しい物有ります?吉野先生」
「いや、結構高いんだなぁ、布とかボタンとか、と思って見ていたところ」
「あ、そっか、相場分かりませんよね。でも、子供服なんかは端切れで充分ですよ」
「あ、ホントだ、端切れも有るね。…あー、こういうので、弟と御揃いのズボン縫ってもらった記憶が有るぞ」
「既製品の服が、そんなに無かった時代が有ったって、聞きました。あたしも、おばあちゃんに色々縫ってもらいましたよ。今だって、御稽古バッグとか有るじゃないですか」
「あ、そうだ、小学校入学前とか、袋物縫ってもらったなぁ。そっか、そう思うと身近だね、手芸屋さんって。考えた事が無かっただけで、沢山御世話になっていたわけだ」
「そうかもしれませんね。あたしは服とか玩具が如何やって出来るのか、何時も気になって。でも此処には、そういう材料が有るから面白くて。材料が有れば作れるでしょ?」
そんな話をしながら、二人で手芸店の中を、うろついた。
何時も何かを教わっている担任の先生に、燐子が教える事が有るというのは、何だか不思議で、楽しかった。
「あ、成程ね」
手芸本をペラペラ捲りながら、吉野教諭は、感心した様に言った。
「今見て思ったけど、型紙って、要は展開図だよね。服の設計図というか」
「え?…あー、箱切り開いた図を糊代で引付け直す、みたいな話ですか?まぁ、そうですね、縫い合わせたら立体になる様になっている筈です。こういう型紙を、自分で作れる様になってみたいと思って」
「おお、凄いじゃない。要は服の設計士か」
面白いねぇ、と言いながら、吉野教諭は、本を元の場所に置くと、今度は編み物の本を手に取って、捲った。
「あ…ゲージって、思ったより数学的だねぇ」
「…え、そうですか?そういう風に思った事無かったですけど…。あの、よく、其れ見ただけで、そんな事思えますね」
「うん…網目の数が、此処と対応しているのか、と思って。真っ直ぐじゃない事に意味が有るわけだ。目を減らすと、こうなって。此処と、こう、くっ付けると、セーターの袖になるわけね」
「…いや、其れで合っていますけど。凄いですね。ま、毛糸は高いから、あんまり編んだ事無いですけど。吉野先生、ゲージが分かるなら、編めたりして」
「うーん、編み物は分かんないけど。こっちは、セーターの設計図ってわけだ。で、設計図兼展開図の型紙とかが有れば、理論上は俺も何か作れるって事は理解した」
「り、理論?」
頭が良いと大変だな、と燐子は再び思った。
いや、だってさ、と吉野教諭は言った。
「こういう、理論とか、基礎を教えてもらいに専門学校に行くわけでしょう?勘で作ったり、縫ったりって、あんまり無いじゃない?此の縫い代が無いと服に穴が開くとかさ。あと、サイズとか測るでしょ?体に合う様に。よく分かんないけど」
「…あー、そういや、そうですね」
「そっかぁ、面白い事、教えてもらったな。ちょっと世界が広がった」
「…大袈裟ですね」
「そうかな?今度から、手芸屋さんの前を通ったら、こういうのが売っているのかって思うし、服を見ても、型紙っていうのが有るのか、って思うし。今着ている服にも有るよね、型紙。服の設計図なわけだ。物に設計図が有るって、当たり前の事だけど、凄い事だよね。そういう機能とか仕組みを考えるのもデザインなんだなぁ」
「そうです、で、其れを作りたくて学校に行くわけです。あたしには、其れが面白くて」
変だな、と燐子は思った。
同じ志を持つ筈の、年の近い男の子達より、燐子が今したい話を一緒に出来ていた。
職業は教師で、清潔感は有っても服装は無難で、ファッションに興味が然程有る様でも無く、親子くらい年が離れているというのに、意外にも、燐子が興味の有る事に興味を持ってくれたのだ。
そして、話すと、楽しかった。
ね、と言って吉野教諭は微笑んだ。
「大袈裟じゃないでしょう?知る事で、ちょっと、物を見る考え方が変わる。其れって、普通に暮らしていたら、あんまり沢山無い事じゃ無い?そう、だからね、学校に行くと、世界が広がるかもって思う。春から其れが、また出来るわけだ。ね」
「…はい」
燐子は、吉野教諭や、其の家族と出会って、考え方が沢山変わってしまった。
人生は出会いだ、と、伊蔵は言っていた。
凄い出会いだった、と、燐子は再認識した。
―高校行って良かった。
今後、此れ程人生が、考え方が、世界が変わる出会いが有るだろうか、とまで燐子は思った。
しかし同時に、何だか、其れは困る燐子だった。
―だって、年の近い男の子達と話しても、つまらなかったのに。
其れなのに、自分を沢山変えてくれた人と話していると、こんなに面白いのだ。
何だか其れは困るのだ。
そう思うと、燐子は、落ち着かない気持ちになった。
「あの…、あたし、会計してきます」
「あ、はいはい。御店の入り口近くに居るね。レジ近くに立って居ると混みそう」
店の通路が狭いので、其の、吉野教諭の気遣いは完璧に正解だった。
其の気遣いに感心しつつ、何か困るな、と再び思いながら、燐子は、はい、と言った。
白のスカイラインは何時も、煙草の臭いが全くしない。
燐子は煙脂臭くない乗り物というのに、公共の乗り物以外で初めて乗ったのが、此の車な気がしている。
後部座席から、燐子は、吉野教諭に声を掛けた。
「…車、煙草の臭いしないですね」
「ああ、父さんが嫌がって乗ってくれないと困るから。ホント、吸うのはベランダだけ」
此の担任の事を、燐子は、人が好いとは思っていたが、同居してみると、実に両親に優しいというか、気遣いが出来る人なのだという事が分かった。
手芸店での会計の時も思ったが、こういうのをデリカシーが有ると言うのかも、と燐子は思った。
「偉いですね。運転も上手いです。あたしも、免許取ろうかな」
「あー、単純に、もう、免許取って、其れこそ十八年だからさ。運転歴が長いの。だけど、母親以外の女の人を車に乗せた事、前は無かったなぁ」
また、そうやって自分を貶めて笑う、と思いながらも、燐子は其の言葉を少し嬉しく思ってしまった。
そして、其れなら助手席に乗ってみたかったな、と思ってしまった。
バイクの二人乗りの経験は有っても、歴代の彼氏には車持ちは一人も居なかったから、誰かの助手席に乗った経験は無いのである。
両親も伊蔵も車を持たなかった。
其処まで考えて、再び、何だか困ってしまった燐子は、話題を探した。
「あの…綜一さんって、本名、何ですか?」
「…驚いたな。父さん、其の話、したの?相当気に入ったね、日野さんの事。…御父さん達と縁を切らせるとは言え、あんな、変な術も、見せちゃうし」
吉野教諭が、思わず、といった様子で、少しだけ、燐子の方を振り返って、慌てて、前を見た。
「最初で最後の弟子だろうから教えておく、って」
「…ああ、成程ねー。本人なりに、日野さんを、家族って思おうとしているわけだ」
「え?」
「うちの子にしようって、うちの親父は本気で思っていると思うよ。吃驚したかもしれないけど、受け止めてくれると嬉しいな」
「…いえ、あたしなんかに、其処まで考えてくれて、有難いです」
「そう。父さんの本名はね」
吉野教諭から告げられた名前は、良い名前だ、と、本心から燐子が思うものだった。
「…良い名前ですね」
「うん。そうだね。俺も、そう思う。有難う」
家族、と、燐子は、言われた言葉を噛み締めた。
あと二年は其の様に接してもらえるのだろうか、こんな時間が、ずっと続くのだろうか、と思うと、燐子は、綜一の言っていた、小さな火を、胸に感じた様な気がした。
困ったが、くすぐったい様な熱だった。
―此れが、ずっと続くのか。
不思議で、困ったが、幸せな気がした。
しかし、吉野教諭は言い難そうに続けた。
「そう言えば最近、日野さん、うちの父さんに駅近、みたいな名前で呼ばれてない?駅地下?…あのー、嫌なら断って良いんだからね?渾名。折角良い名前なんだから」
「あ、何か…倫理の事らしいです。倫子って名前から、エチカって。嫌では無いですよ。音は可愛いっていうか。意味は難しいけど…」
スピノザ?と言って吉野教諭は吹き出した。
「あはは、理系には分かんないセンスの渾名だなー。懐かしい。神即自然、だっけ?」
面白そうに、そう言う吉野教諭に対し、やっぱり難しいわ、と燐子は思い、黙った。
寝る前、燐子は、伊蔵の位牌に話し掛けた。
「あのね、今日は、秘密を話してもらえたの。…多分、あたしの為に」
多分、綜一は、燐子の罪の意識を軽くする為に、自分の秘密を話してくれたのだ。
燐子は涙ぐんだ。
「大事にしてもらえているって思った。家族みたいにしてくれようとしているって、思った。…良い事、有るかな?有るよね」
燐子は、涙を拭った。
「何だか、こんなに沢山、良い事があったから、急に自分が変わっちゃいそうで、ちょっと怖い。でも、良い事だよね、多分。良い事が、此れからも沢山起きるよね」
燐子は、制服を指差した。
可愛いでしょ、と言ってみる。
そして、位牌に、きちんと向き直る。
「制服、宝物だった。高校行って良かった。あのね、卒業式は、此の家の人が皆来てくれるの。お父さん役も、お母さん役も居るよ。凄いでしょう。中学の時は、おじいちゃんだけだったけど。あのね、有難う。高校、ちゃんと卒業するよ」
―もっと良い事が此れから有る。あたしは運が良いから。
胸に宿った、くすぐったさは、ほんの少し、燐子を舞い上がらせた。
不安で、くすぐったくて、でも、未来への希望が見えていて。
燐子は、もっと幸福になれるかもしれない、と思おうとしていた。
そして、其の気持ちに支えられる様にして、伊蔵を失った悲しみから、立ち直れるかもしれない、と。
ただ、舞い上がったら、落下する事も有る、という危うさを、燐子は失念していた。
兎に角、今の燐子の感情は、幸福感は、其の様な、幸せの予感などという細い一本の糸の上に成り立っていて、其の夜は未だ、燐子は辛うじて幸福だった。




