懺悔
「如何したの?浮かない顔だね、倫理ちゃん」
「あ、すみません、モデルなのに」
もう直ぐ卒業式だった。
例の、アイボリーがかった白のワンピースに、紅子の編んだのだという白いレースのケープを、ベールの様に被った燐子は、綜一に声を掛けられて、ハッとした。
綜一は描く手を止めず、続けた。
「専門学校、楽しみじゃないの?」
「いえ、楽しみです。友達伝手に探したら、似た様な学校に行く友達も結構出来て」
進学先の先輩から話も聞けた。
課題も沢山出るし、次は何を作ろうか、などと考えるのは本当に楽しいと言っていた。
燐子は、やっと本当に勉強したい事が勉強出来る予感で、自分が良い学生になった気がして、嬉しかった。
きっと吉野教諭も喜んでくれるだろう。
但し、話して面白かった人は、全員女性だった。
「でも、あの。同じ年くらいの男の子と、話が合わなくて。先輩とか。いや、そんなに男性が多い学校じゃないけど…話が、つまんなくて」
有難い事に、結構、男の子から連絡先は聞かれた。
今度会った時に、と言って、全て断ってしまったが。
何と無く、空き缶のクズ拾いは、もう御免なのに、また周囲が、パッケージの色が変わっただけの空き缶になった、という感じがしてしまったのである。
「…うーん、成程ねー」
綜一は、分かるー、と言って、描く手を休める事無く、うんうん、と頷いた。
「あれでしょ、親の金で学校に来ている様な、特に何の目的も無く学校入った様な?高い金出した思い出作りっていうか?そんでバイトとか言って、折角入った学校休みがちで、終わらないから課題手伝ってとか言ってくるタイプでしょ。服だけは御洒落でねー」
「…分かってくれます?」
「うんうん。美術系でも、腐る程見てきたもん、そんなの。其の子が悪いわけじゃ無くても、親の金が当てに出来ない子と比べると、如何しても真剣さが違ってきちゃう子が出るよね。で、そういう子にセンスが有ると、何か悔しいしねー」
「そう、そうです、分かってくれます?」
そうなのだ。
皆、服のセンスは、ちょっと尖っていて、其れが似合う程度には見た目が悪くないのが、余計に燐子の気に障った。
下着の一枚も自分の働いた金で買ってはいない癖に、生活費も学費も全て負担してくれる親の悪口を言いながら、十万円のジャケットを自慢してくる男の子も居た。
何かが、燐子の中で納得出来ないのだ。
其れを燐子は、話が合わない、という表現でしか、言語化出来ずにいた。
まぁね、と綜一は言った。
「でも結局、課題熟さなきゃモノになんないし、手を動かして量を作っている人には、其のうちセンスだけじゃ追い付けなくなるから。どーせ、其のうち学校辞めたりすると思うから、気にしなくて良いと思うけどぉ」
「…結構手厳しいですね」
「いや、そういうものなの。良いのさ、遣りたいと思って入学しても、ちょっと上手くいかないくらいで嫌いになるくらいなら向いてない。絵でもデザインでも何でも良いけど、創作で食うってね、抑食っていけるか如何かも分かんない様な仕事だから。毎月決まった御給料が出るわけでなし、俺だって、絵が一枚も売れなかったらって考えて御覧よ。でも、其れに耐えなきゃならない時も有るわけで。辛いなら他の事を探した方が幸せだもん。理系の学部なら兎も角さ、文系って、どれも似た様な悩み、有ると思うよ」
「成程」
「そうそう、習った事が仕事に繋がるか分かんないのが文系の辛いところじゃない?だから、時間が無駄にならない様に、早めに違う道を勧めてあげるのも、場合によっては親切なの。其れも教える側の仕事だったりするから。向かないよ、って引導渡してあげる仕事ね。嫌だけど、相手の為だから。あれだ、けじめ、付けるわけ。倫理ちゃんは、結局将来何になりたいの?」
「色々考えてみたけど、デザイナーか、パタンナーです。デザイン考えて服を作るのも好きだけど、デザイン画を見ながら、如何いう型紙になるかなって考えるのも好きで」
「あ、パタンナーって洋服の型紙作る人って事なの?良いじゃない」
「デザイナーは無理でも、もし、何かあっても、二年も服飾を勉強出来たら、舞台衣装作成とか、いや、婦人服の御直しとか、何でも構わないから、そういう、御裁縫関係の職に就けるかもって」
「あらー、立派に創作じゃない。具体的だねー。早めに、新しい場所の知り合いを作っている事といい、偉いと思う。他の子より早く環境に馴染めるかもしれないからね」
「そんなに稼げないかもしれないけど、好きだから遣ってみたくて。自分一人食っていくだけなら、色々掛け持ちすれば何とかなりそうだし」
「そうだったの、じゃ、良かったね」
「…はい」
「…やっぱり、気になる?同い年くらいの男の子と、話が合わないの」
「…気になるっていうか。あたし、誰かと結婚はしたくて」
「うんうん、良いじゃない、すれば」
「そうなると、やっぱり、年の近い人と結婚する場合が多いですよね。二個上とか?」
「うんうん、一般論としてね」
「で、そういう時、話が合わないってなると。しかも、ですよ。似た様な専門学校目指すって事は、興味も近い筈なのに」
其の点に於いては、以前より危機感の有る燐子だった。
歴代彼氏とは、服飾の話など出来る筈も無かったから、期待すらしていなかったのに対し、最近話した男の子達は、其れを専門に学ぶ学校に通っている男の子達だったのである。
燐子の中では、其の子達とは、型紙や、服の機能等について、専門的で有意義な会話が出来る予定だったのである。
ところが、ところが。
相手が興味を持ってくれたのは、燐子の話より、燐子の外見だったのだ。
こんな筈では無かった、と、燐子は思っていた。
自分が話の導入を誤ったとは思えない。
実際、女の先輩達とは、楽しく、そんな話が出来たのだ。
綜一は、描く手は止めなかったが、燐子の不安を察した様に少し真面目な顔をした。
「…あー、そういう時に、話が合わないってなるとね。結婚どころか、御付き合いに至れないかも、と」
「…はい。先ず彼氏が出来ないと、結婚するのは厳しくないですか?」
最近会った、どの男の子の事も、好きになれる気のしない燐子である。
「はー、具体的な悩みだねー。そーか、結婚まで見据えた計画なのねー」
綜一は、思わず、といった様子で描く手を止めて、燐子の顔をジッと見た。
「早く結婚したい?」
「…いや、時期は、あんまり具体的に考えてなくて。ただ、やっぱり、好きな人と結婚したいなって。だけど、此の儘の環境じゃ、年の近い人で、好きになれそうな人に出会える気がしなくて」
「あー、なぁる程ねぇー」
綜一は、うんうん、と頷いた。
「ま、でも、色んなパターンが有るからさ、出会いって。結婚の契機は、バスで隣になった女の人をピアノのコンサートに誘っただけ、とかいう話も聞いた事有るもん。焦らなくても大丈夫だよ」
「あ…ナンパ?」
「今風に言うと、そうかもね。其の人今五十歳くらいだから、そういう心算は無かったかも。ナンパって言葉も無かった頃の話だし。何か、相手が楽譜を持っていて、バスの中で音楽の話が弾んだそうで。ま、そんな風にして、どっかに、話が合って面白い人、絶対居るからさ」
「成程」
「其れにさ、よく話したら、中には良い子も居るかもしれないよ。話してみないと分かんない事も有るもん」
「確かに。駄目だって決め付けるには早いですかね」
今の段階では、自分も、相手を見た目で判断している可能性も有るのだ。
第一、同じ学校で学ぶ予定の人間全員と会って話をしたわけでも無い。
其れもそうか、と燐子は思い直した。
よし、休憩、と綜一が言った。
燐子は、ケープを取ると、丁寧に、座っていた椅子に掛け、描きかけの絵を見せてもらった。
相変わらず、自分がモデルの絵を見ると照れる。
そして、照れるのは、自分の表情の暗い部分を、愁いとして美しく昇華して作品にしてくれているからだ、という事に気付いた。
「…此の絵だと、あたし、繊細そうですね。傷付き易そうな」
「強い人間なんて居ないもん。強がっている人間程、子供っぽくて弱いから」
「人間は皆、弱い、ですか?」
燐子は、伊蔵が、豊も華織も弱かったと言った事を思い出した。
綜一は、笑いながらも、キッパリと、弱いよ、言った。
「貴女が弱い人だって知っている、其の部分を支えたい、何て言ってくる奴、大体詐欺だから。あと、か弱そうだから守ってあげたい、みたいなのも微妙。か弱そうじゃなくても他人に優しくしなよってね。か弱い子にしか優しく出来ないなら、其れは優越感から来る行動じゃない?自分の方が、力が強いから優しく出来るって。皆弱いのにさ」
「…何て事を…。凄い事言いますね」
「あはは、だってぇ。人間、弱いのが当たり前だもん。其れを態々(わざわざ)言ってくる人間、怪しいよ。雨が降っているから、天気が悪いです、みたいな話でしょー。だから、気持ちが弱っている時は危ないよねぇ。判断力が鈍っているから。親身になって話を聞かれて、高額な商品買った、なんて、よく聞く話」
「あ、霊感商法で高い物買わされる、みたいな話ですね」
其れは気を付けよう、と燐子は思った。
そーそー、と綜一は言った。
「だからね、自分は弱いところも有るのが当たり前だって思う事にしているわけ。あとは、そうだねぇ、気になるとすれば。表情で言うと…罪悪感っていう感じだよね、此の仕上がり。ちょっと告解っぽいかな。ベールの効果で」
「告解?」
「告解じゃ儀式か。確か、信者さんじゃないと出来ないか。懺悔、とか言う方が伝わる?」
「あー、教会とかでやる?」
「そーそー。見た事も遣った事も無いけど」
「…懺悔か」
「え、何?何か懺悔したい罪でも有るの?」
古い映画で、ダンサーを目指す女の子が、教会で懺悔をしていた。
セックスの事を考えてしまいました、と。
主役の女の子が、クリクリの黒髪の巻き毛で可愛くて、そして、黒いレオタードの上から羽織る、肩の出た服が可愛くて。
古い映画だというのに、燐子は真似して、肩が出るセーターを無理して買った。
話は、よく覚えていないが、曲が良い映画で、女の子が男物のタキシードを着てデートに行ったり、ダンスの途中で水を被ったりするシーンが印象的で、あと、デートの相手が弁護士で、何か、最終的には結婚していた様な、いなかった様な記憶が有る。
兎に角、其の映画で、懺悔、という言葉を覚えた気がする。
燐子は、意を決し、一言発した。
「…姦淫ですかね」
綜一は、ぶぇー、という、端正な顔に似合わない珍妙な声を出してから、あはは、と笑った。
「そーお。如何?懺悔して、スッキリした?」
綜一が、あっけらかんと、そう言ったので、燐子はビックリした。
言うのは結構勇気が要ったのである。
綜一に嫌われるのは嫌だから、反応によっては冗談にしようと思ったのだが、実に自然に受け止められてしまった。
「…笑い事にしてしまって良い話でしょうかね」
「んー、そういうのは、新しい時代の価値観だからねー」
「新しい時代?」
「うん。俺が生まれる前はねー、夜這いとか有ったらしいよ。物心ついた時には、もう夜這い禁止だったけど」
「よばい?」
「そーそー。年頃の娘さんの家に忍び込んでいってさ。其処で関係を持つわけ。子供が出来たら結婚」
「えっ?」
「遣った事無いけど、ルールが有るらしいよ、ちゃんと。合意が無いと強姦になるからさ。若け衆…えーっと、若い男の人達は、若い男だけで集まって過ごす小屋みたいなのが在ったらしくて。其処から、夜、他所の家に行くわけ。両親と娘さんが寝ている所に忍び込んでいって、娘さんが気に行ってくれたらオッケー。男が気に入らなかった、でも、怪我させるのは可哀想なら、娘が、母親の方を起こす。母親が、泥棒だ、とか何とか叫んでいるうちに、男が逃げ出す。逃げ出す隙を与えてあげるわけ。無理だなっていう男が来たら、父親の方を起こす。逃げ出す猶予を与えないわけだな。で、男が、父親に棒で殴られて、夜這いは失敗」
「…え、えええー…」
「何かねー、逃げ出し用の履物を持って、外で待ってくれる友達とか居て、其の係を、下駄持ッて呼ぶらしいよ。えーっと、下駄持ち、ね。下駄持ちが居ないと夜這い出来ない、とか、相手の娘さんに、今日行くよ、って、予め伝えとく場合も有ったとか何とか」
「えー…其れって…両親と友達が近くに居る所で関係持たないといけないわけですか?」
「うん。だって、親御さんも其れが結婚の契機だし、寝た振りをしていてくれるらしいよ。第一、下駄持ちしてくれる友達も居ない様な男、嫌だろうしさ。其れに、其のシステムだと、嫌になったら、相手を変えられるの。嫌いになったら、相手が忍んで来たら、親を起こせばいいわけ。同時並行もアリだったみたい。子供出来たら、気に入った方を父親だって言って良かったって。女の人主導の恋愛だったらしいよ。逆に、十八とかになっても、誰も夜這いに来ない様だと、親が悩んでいたらしいよ。うちの娘は嫁の貰い手が無いかもしれないって」
「…ええー」
燐子は、口をパクパクさせた。
「あ、あたし、てっきり昔の方が貞操に厳しかったのかと」
「そりゃ、御武家さんとかの、キチンとした家だろうねー。庶民が貞操とか言い出したの、割と最近だよ、多分。だから、新しい時代の価値観だよね、一夫一妻とかもさぁ」
「あ、そうですか?新しい?」
「そうだよ、倫理ちゃん。人間として正しい、みたいな道徳、つまりモラルは、社会における善悪の判断基準だけどさ、倫理は特定の集団や個人の持っている、其れでいて客観的な判断基準なんだ。道徳的には婚前交渉って間違っているのかもしれないけど。道徳って、自主性のある判断基準だけど、社会と関係している以上、時代とかで変わっちゃうからさ。倫理、つまり、自分でなるべく客観的に考えて正しいって思う事を信じる、っていうのでも、良いんじゃない?倫理ちゃん。…ちょっと宗教染みているかな。ま、元が汎神論か、スピノザって。梵我一如って言うと仏教っぽいしねー」
道徳に一石投じるのが表現者だけどね、と言って、綜一は、ニコニコしながら更に絵を描いた。
「ス、スピノザ?あ…。そういう意味の渾名だったんですか?倫理って…」
「そう、道徳と倫理。昭和でも、囲い者とか、愛人とか、結構居たよー。俺の時代も、夜這いは禁止でも、娘さんを傷物にしたから、責任取るの、取らないのって話は有ったもん。戦前と戦後でも全然違うでしょ?道徳も倫理も。時代で其れ程変わらないのって、盗むな、殺すな、くらいじゃない?戦争の時は、殺人の考え方も変わるし」
「あ、ああー…」
「大体、昔は、もっと若い年で結婚して、子供が居たからさ。女十六、男も、十八、十九とか普通だったし。学校も、普通行けなかったしね、女の子は。就職する女の子も、そんなに居なかったし。だから十八って、子供居ても何も変じゃなかったしね」
「あ…そう言えば、そうですね」
紅子も、そう言っていた。
家によっては女が就職する事に良い顔をされなかった、と。
「俺なんか、まともに学校行けたの、十四まで。空襲酷くて、進学出来ても、校舎が無くなって授業が無いとか、皆そんな感じだったもん」
「空襲…」
「うん、本当に、戦前とか、戦時中はねー。滅茶苦茶だったもん。今更、十八の女の子の姦淫じゃ、あんまり」
「…ビックリしないですか」
「うん。…もう何回か聞いた、って感じ。しかも、十五、六とかの。大正の頃とかだと、うちの周りじゃ、十七歳だと寧ろ行き遅れ感有ったらしいし」
「…あー」
「いや、今の価値観だと窘めた方が良いだろうけどさ。道徳に反する、ってね。でも、今何か言ったって、何も変わらないし、無かった事にもならないしさ。そうなの?くらいしか、感想が無いよね。人を殺した訳でなし」
「あ、まぁー…」
何と無く、吉野教諭が、放任主義、もしくは自由主義の教育方針を持っている様な気がする燐子だが、其れは綜一に似たのではないか、という気がした。
綜一は続ける。
「懺悔したいくらい反省しているなら、もうしないでしょ。良いじゃない?其れで」
「…良いですかね?」
大丈夫だよ、と言って、綜一は微笑んだ。
「自分で罪悪感を持って、自分を責め続けなくても、其れが本当に罪なら、何時か裁かれるから」
「え?」
「今生で裁かれないなら、生まれ変わっても、何時か、何かの形で、罰は受けるからさ。うちの家みたいに。自分だけは、もう、自分の事、許してあげて」
燐子は、泣きそうになりながら綜一の其の笑顔を見詰めた。
「…先生は、…先生自身の罪って有りますか?家じゃなくて」
「沢山」
其の答えの、あまりの意外さに、燐子は目を剥いた。
綜一は笑顔で続けた。
「戦時中食っていた米なんて、如何やって手に入れた米だか分かったものじゃなかったし。良いとこ、軍の横流しだったかもしれないし。其れと」
「…其れと?」
「綜一は偽名」
綜一は、そう言うと、クスッと笑った。
「…え、冗談ですよね?」
「家族は皆知っているもの。俺の、本当の名前はね、し」
「え、待ってください。本当に?」
「戸籍も俺の物じゃない。誕生日も十一月二十三日じゃない。本当は戦災孤児じゃない」
燐子は、其の、綜一の、美しい顔から次々と紡ぎ出される言葉に、鳥肌が立った。
「…本当に?」
「うん。そうしないと生きていけなかったから」
俺を裁く?と、綜一は言った。
燐子は、稍あって、首を振った。
「…いえ。でも、如何して、あたしに話してくださる気に?そりゃ、義理の娘にしてもらえましたけど、そんなに信用してもらえるなんて…」
「娘っていうだけでも充分だと思うけどなぁ。でも、そうだね、多分、最初で最後の御弟子さんだもん。縁が有ったと思って。其れに、戸籍は偽造じゃないし、戸籍が俺の物じゃない証拠は、多分出て来ない」
「思ったより…犯罪の臭いがしますね?」
「まあ、そうかもねぇ」
如何?と綜一は言った。
「他人にアドバイス出来る様な生き方はしてこなかったけど、未だ御師匠さんって思ってくれる?」
「…はい。婚前交渉済みの未成年でも、弟子だと思ってくれるなら」
良いね、と言って、綜一は笑った。
「午後は休憩して布でも買っておいでよ。偽名を使っている親の息子とで良かったらさ」




