エチカ
「そう、今日は、高校の御友達と遊びに行ったの?」
夕飯の席で、今日の外出先について報告すると、紅子は、そっと綜一に醤油差しを両手で手渡しながら、嬉しそうに、そう言った。
「あ、重田さん達?」
笑顔で尋ねる吉野教諭に向かって、燐子は、はい、と言って微笑んだ。
日曜日、久し振りに立川のファーストフード店で友達と喋っていただけなのだが、凄く楽しかったのだ。
もう着られなくなるから制服で集まろうよ、などという彼女達を、やはり燐子は、可愛らしく、眩しいものの様に感じて、本当に楽しかった。
流石に吉野教諭の義妹になった挙句、同居までしている事は友達にも言わなかったが。
良かったね、と吉野教諭は言った。
「重田さんは、春からアパレルショップ勤務だって?」
「はい。リョーコ、服が好きで」
「えーっと、あのグループは、皆就職かな」
「いや、ユッコ、いえ、中村さんは進学です。公務員専門学校に行くって」
「あ、隣のクラスの、中村優子さん。そっか」
綜一が、良かったねぇ、と言って再び微笑んだ。
「そう言えば、日野さん、絵のモデルも引き受けたって?」
吉野教諭が、そう言うと、燐子の代わりに、綜一が、だって、と言った。
「折角だもん。態々(わざわざ)モデルさん頼まなくても、家に倫子ちゃんが居るから。紅子さんはモデルになってくれないし」
紅子が、照れた様な顔をして、嫌です、と言った。
「昔遣ったでしょう?ああしてジッとしている間に、洗濯物が出来るな、とか、御米を研がないと、と思うと、落ち着かないのですもの」
其れが本心では無く、照れから来る発言である事は、燐子の目にも明白だった。
綜一は、明るく、はいはい、と言った。
仲が良い夫婦だよな、と思い、燐子は微笑んだ。
「あ、T寺に、そろそろ行こうかしらねぇ」
紅子が、何かを思い出した様に言った。綜一が、御墓参りか、と言った。
「そうだね、もう少しで御彼岸だし」
「そうだ、御仏飯あげて来ないと。遅くなったわねぇ」
紅子は、慌ただしく席を立った。
燐子が察するに、此の家では、御墓参りとは、紅紫と勇二に会いに行く事であり、御仏飯を供える事は、勇二と会話する事なのである。
燐子は、もう慣れたが、今も、勇二は、家族と同じ時間に食事をしているのだ。
生活の、ちょっとした事にも、勇二の影が有る。
此の家の悲しみは深く、燐子には、其の深さの底が、未だ見えなかった。
「うちでは御仏供さん、でした。名前が違うだけかな?」
燐子の口にした疑問に、綜一は、ああ、そう、と言った。
「浄土真宗なんじゃない?うちは臨済宗らしいからさ」
燐子は、綜一の答えてくれた意味が、よく分からなかったが、はぁ、と返した。
最近燐子は楽しい。
掃除をしたり御飯を作ったりする事が楽しいのだ。
歴代の彼氏の為に其れを遣るのは、やや屈辱に近い形で嫌だったのに、此の家で、綜一や紅子や吉野教諭の為に、居住空間を整えたり、食事の支度をしたりするのは、燐子の喜びだった。
伊蔵以外の誰かに、そんな気持ちを抱けるとは、此れまで燐子は思っていなかった。
家族、という感じがして、飯事染みて居る気持ちだとしても、燐子は嬉しかった。
家族全員分のシーツを洗って取り換えるのは、燐子の仕事になった。
吉野教諭の部屋は、最近綺麗になった。
本棚から本が溢れている事も無くなった。
掃除機は、吉野教諭が自分で掛ける様になった。
歴代彼氏の誰も、そんな事をしなかったので、燐子は、偉いな、と思った。
家族分の洗濯物を干すと何時も、燐子は、家族が此処で生活しているな、という感じがした。
紅子は、ワイシャツの襟汚れの落とし方を教えてくれた。
考えてみると、伊蔵が定年退職して以降、ワイシャツにネクタイ姿の男性が自分の家を出入りしていた記憶が無い事に、燐子は思い至った。
―此れが堅気の生活。
成り行きで始まった生活だったが、燐子には学ぶ事は多かった。
「最近、良い表情するねぇ」
横を向いてモデルをしている燐子に向かって、綜一は、楽しそうに、そう言った。
「心の中で小さな火が燃えているみたい」
綜一も、なかなかロマンチストだと燐子は思う。
真意が燐子には理解出来ない表現を、こうして、時々使うのだ。
ただ、全く嫌ではない。
夜の海、という四股名の様な表現よりは、自然と、直接心に訴えかけて来る何かが有る。
此れが芸術家か、と燐子は感心する。
ケンのせいで、あれ以来、春の海、などという単語を聞くだけで、燐子の頭の中で、行司が、西ぃー、春のぉ海ぃ、東ぃー、夜のぉ海ぃ、と叫ぶのだ。
そして、鞭打ちの痛みを思い出すのである。
ロマンは益々(ますます)遠ざかる。
燐子は尋ねた。
「小さな火って?」
「蝋燭とか、燐寸だね。そういう、自分を燃やしながら、輝くものだよ」
「ああ、其れは良いですね」
「え?」
「あたしの名前、本当は、燐寸の、燐、って字で、燐子になる筈だったから。名前に使えない字だったから、倫理の倫で、倫子になりましたけど。何か、役所で見たポスターの字を咄嗟に使ったとか何とか」
「ほほー。一本の燐寸か。いっぽんの燐寸の燃やす火のいみじき、だね」
ピッタリじゃない、と、綜一は、燐子には分からない事を言った。
「何です?其れ」
「俳句だよ。偶然だけど、此の俳句を詠んだ人も日野さんっていう名前なの。日野草城。たった一本の燐寸の火の、何と素晴らしい事か、ってね。良いじゃない。小さい火だけど、人を暖める火種になったり、夜を照らす灯の元になったりする、と」
「あ、そう言ってもらえると綺麗だな…。やっぱり倫理より良い」
「そう?倫理、良いじゃない。面白いよ。倫理ちゃんって呼んでいい?」
「え?エチカ?や、良いですけど…何ですか?」
「道徳と倫理だっけ。ラテン語かな?倫理学の事だったかな?えっと、真理は一人一人違うから、自分の力、つまり本質である力を信じて幸せになろう、みたいな」
よく分からないな、と燐子が思っていると、出来た、と綜一は言った。
見せてもらったデッサンは、恥じ入りたくなる程美しく、燐子は、紅子が照れた理由が分かった。
「…美化して描いてくださったでしょ?こんな、美人かな」
綜一は、何時ものループタイの端を弄りながら、ふふ、と笑った。
此のループタイに付いている石が本物のレッドトパーズだと燐子が知ったのは、随分後になってからである。
戦災孤児になった後に引き取られた先で出来た、義理の弟から贈られたのだという。
「俺には世界が、こんな風に見えるってだけ。心に灯が灯る時は、女の人は、良い表情をするよね。美しくなる。…男は…如何いうわけか、みっともなくなる時が有るけど」
「え、酷い。性別、関係有ります?」
「一般論だよ。こういう時、女の人は綺麗になるらしいの。俺が言い出したんわけじゃないもん」
「『こういう時』…?そういうロマンチックな言い方って、あたし、分かりません」
そう?と言って、綜一は、ケラケラ笑った。
冗談か本気か分からないな、と燐子は思った。
綜一は、少しニヤッと笑って、言った。
「まぁ、玖一の奴も、結構痩せたしね」
「え、其の話、今、関係有ります?」
「いや、まぁ、『今は』関係無いかもしんないけど」
燐子が、分からない、という顔をすると、綜一は、また笑った。
「…ま、実際、かなり痩せましたよね、吉野先生」
ややこしいが、吉野教諭の事を、燐子は、吉野先生と呼び、綜一の事を先生、と呼んでいる。僅少かと思われる差だが、意外に通じるので不便ではない。
「うん、徒歩通勤が効いたよねー。買い食いも止めたらしいし?」
綜一は、歌う様に、そう言いながら、楽しそうに画材の片付けを始めた。
燐子は其れを手伝った。
「あ、いいよ、いいよ、ストーブは焚いているけど、寒い格好させちゃったから、着替えておいで。夏服でしょ、其れ。良いワンピースじゃない?御日様を集めたみたいな向日葵色。自分で縫ったって?」
「はい。あの、紅子さんから古いミシンを頂いて」
燐子にしては珍しく、濃い、こっくりした黄色の無地の布地を選んでみたのである。
明るい雰囲気が気に入っていたのだが、其れを向日葵色、と表現されると、何だか嬉しかった。ノースリーブなので、確かに寒いが。
作った服を、未だ専門学校入学前だが、吉野教諭に見せたら、喜んでくれた。
綜一が、楽しそうに言った。
「最早骨董品の域の物だけどね、もう。でも、ああいう、机と一体型になっているミシンって、逆に手に入り難くなってきているよね。良いね、古い物は、使ってもらえて、新しい物を作る喜びが、君には訪れて」
燐子は、はい、と言って微笑んだ。
そう、燐子は、今楽しいのだ。
其れにしても、言い方としては失礼かもしれないが、吉野教諭の姿は確かに、痩せた事で、かなり見易くなった、と思う燐子である。
元々の骨格は良いのだが、顔の肉も落ちたのか、時々精悍にさえ見える。
燐子が、こんな顔だったっけ、と思う事が有る程だった。
清潔感も増した。
やはり『綺麗なオジサン』の遺伝子は、多少は影響しているらしかった。
燐子が、吉野教諭が背広一式買い替えたと聞いたのは、かなり後になってからである。
其れ程までに痩せたとは、と、驚いたものだった。
実際、最近担任、結構イイ、と言うクラスメイトは数名いた。
バレンタイン時期に、そう言ってあげたら良かったのに、と、ちょっと複雑な気持ちで、燐子は、其れを聞いていた。
カカオに無関係な人生だ、などと自分を卑下させておくには惜しい人柄の持ち主なのだ。
しかし皆、相手の姿が良くならなければ良さに気付かないのなら、目が節穴だ、とも思う燐子である。
農家の長男が如何とか、冴えないとか、皆、皆、見る目が無いのだ。
歴代彼氏を顔で選んでおいて、今更燐子に、他の女性を咎める権利は無いが。
そう、燐子の目も節穴だったのだった。
だからクズ拾いだったのだ、と、今なら分かるし、今は違う。
だから、特定の時期に異性から特定の種類の菓子を貰えない、などという、たった其れだけの事で、あの人の好い恩師が自分を卑下していると知っていたなら。
燐子も、バレンタイン時期に正気だったなら。義理チョコの一つくらいあげたかもしれない。
もう遅いが。
何しろ先月の記憶が曖昧なのだ。
大分立ち直った気で居るが、夜は、やはり、泣けて、泣けて、仕方が無い日がある。
他人に菓子を贈る心の余裕など先月の燐子には無かった。
来年は、あげよう、と燐子は思った。
何せ、二年間は同居する予定なのだ。
機会は再び訪れるだろう。
多少照れる気はするが、義兄に渡す義理チョコとなれば、御礼に相違無い。
御礼は必要だ、と燐子は思った。
夕飯も入浴も済ませた後、自室で、燐子は何時もの様に、伊蔵の位牌に報告した。
「あのね、モデルのバイト、させてもらってね。凄く綺麗に描いてもらってね。嬉しいな。見せてあげたい。プロの画家だよ。凄いでしょう。何だろ、エチカちゃんって呼んでくれて。可愛い渾名な気がする」
燐子は、ワンピースを、位牌に向かって広げた。
「あのね、此の白いワンピースも作ったの」
アイボリーとオフホワイトの中間位の色で、上品で、真っ白より似合うと綜一が言ってくれて、燐子は嬉しかった。
「黄色…えっと、向日葵色の方は夏服だったから袖無しだけど、こっちは長袖でね。あのね、ミシン、楽しいよ」
其処まで言うと、燐子は泣いてしまった。
夜中一人になると、時々こうして、揺り戻しの様に悲しみの感情が襲ってくる。
今の燐子を支えているのは、此の家の人達が、モデルのバイトなどという、小さな理由でも、自分を必要としてくれている事だった。
そして、其れが楽しいのだ。
しかし、楽しいのと同じ分だけ、心に揺り戻しが来ると泣いてしまう。
しかし其れでも、無理して明るい方を見ようとしている事に、燐子も気付いていた。
危ういとは知りながら。
―だって。御世話になる家で、何時までもメソメソして暮らすわけにもいかないじゃない。養女にまでしてもらえて。何かは、しなくちゃ。外にバイトに今、行ってないし。衣食住揃って、こんなに運の良い事なんか無いし。
そう、何か、綜一の役に立つ事、もしくは、推奨されている、専門学校に役に立つ何かを、しなければならない、と、燐子は思い立った。
燐子は涙を拭くと、電話を借りて、リョーコとユッコの家に電話した。




