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エチカ 『瀬原集落聞書』  作者: 櫨山奈績
第二章 平成四年
20/43

紅子

 紅子は、時々、箸の置き方といった御膳立てや、料理を教えてくれた。


 燐子は、紅子に構ってもらっている様で嬉しかった。

 紅子は、時々、着物に割烹着だった。

 其れも、古い割烹着で、レースすらついていない、昔ながらの割烹着である。

 其の、割烹着の背中の結び目から御太鼓の帯がチラチラ見えている、小柄な後ろ姿に付いて回るのを、燐子は喜んだ。


「…如何(どう)して、家では女が料理するのかな。毎日毎日」


 煮物の味見をさせてもらいながら、ふと、燐子は、紅子に、(かね)てから薄々感じていた疑問を投げかけた。


「料理は嫌いじゃないですけど、如何(どう)してなのかな、って」


 伊蔵は優しかったが、自分の食べたい物を作る以外で台所に立った姿を(ほとん)ど思い出せない。

 豊の方は、もっと思い出せない。

 昔は、洗濯も料理も、華子と華織が全て遣っていた。


 紅子は台所で燐子の隣に立ちながら、あら、と言った。

「考えた事も無かったわ。…そうね、きっと、貴女って、新しい時代の人なのね」

「新しい時代?」

「だって、御料理だけなら、男の人が遣ったって良いのよね。板前さんって、大抵男の人でしょう?」

「…そう言えば、そうですね。男の板前さんの方が、あたしより料理上手ですよね」

「私の時代は、そうするのが当たり前だったから、そうしてきたけど。息子に料理を教えようって思った事も無いわね。一人暮らしさせていた二十歳くらいの頃、釣りが趣味になって、何だか一通り作れるようにはなったらしいけど」

「へぇ、釣りですか。…二十歳か…」


 趣味も何か渋いな、と思いながら、燐子は相槌を打った。


 ただ、と紅子は言った。

「一つ言えるのは、誰か、其れも小さい子が、御腹が空いたって言った時、何か作ってあげられると良いかもね、って事かしらね。誰が作ったって良いけれど。ま、出来て損はないわよね、御料理は」

「ああ…」


 自分の子に料理を作る、という場面を、燐子は生まれて初めて想像してみた。今までは、自分を助けるのに精一杯で、自分以外の者の面倒を見ようなどとは思った事すら無かったのだった。結婚したら子供が出来るかもしれない、というところまでは想像出来ていたが、確かに、出産する以上、子育て、というものが有って、其れには絶対、其の子に何某(なにがし)かの栄養を摂らせなければならないのである。


 何と無く、豊の家で見た、小さい女の子を思い出した。

 あの子は今頃、何か食べているのだろうか。


 そうか、と燐子は思って、言った。

「小さい子が御腹を空かせた(まま)だと、可哀想ですよね。それで、こんな風に美味しい物を作ってあげられたら、良いですね」


 あら、と言って、紅子は笑った。

 狐っぽい、きつい顔立ちなのだが、笑うと、細い目が益々無くなって、燐子は紅子の、其の顔が好きだった。


「有難う。美味しかった?でも、あれよ、御袋の味っていうの、あれ、きっと、何時(いつ)か無くなるのではないかしら」

「え?」


「きっと、新しい時代が来るもの。親父の味っていうのも出来るかもしれないわよ」

「親父の味」


 語感だけだと何故か(にが)そうだな、と思いながら、燐子は、そう思う事自体が思い込みで、古い感覚なのかもしれない、と思った。


 何故なら、板前の味、シェフの味、という言葉には、何か美味しそうなものを感じるが、其の職業名の人を、燐子は勝手に男性だと思っている。

 其れだから、女が家では毎日料理するのは何故なのだろう、という疑問を『考えた事も無かった』という、紅子の返答を、実に正直なものだ、と燐子は感じた。


「私も、新しい時代の人だった事があるのよ」


 紅子は、燐子の食べ終わった煮物の皿を、サッと(すす)いで、シンクに置きながら、笑って言った。


「私の時代は、()だ女性が働きに出るっていうと、家によっては、あんまり良い顔されなかったもの。集団就職とかもあったけど」


 紅子が、高卒で事務員として就職した先で、デザイン部にいた綜一に一目惚れして、婿養子に向かい入れた、という話は、吉野教諭曰く、親戚の間では、あまりにも有名な話らしい。


 『綺麗なオジサン』の結婚の経緯は、燐子にとっては()も有りなん、というものだった。


 かなり端折られていて、婿に迎え入れるまでの経緯が気になる話である。


 目の前の大人しそうな女性が、そんな大胆な事に踏み切ったとは、と、普段なら思うであろうが、相手が『綺麗なオジサン』なら(いた)(かた)無い事であって、オマケに恐らく、其の頃『綺麗なオジサン』は、非常に若かった筈である。

 『綺麗なオジサンの若い頃』が若き日の紅子に、そんな決断をさせた事は、燐子には、特に不自然とは思われなかった。


 (のち)に、二人の結婚写真を見て、羽織袴姿の綜一の、当時の容姿の良さに度肝を抜かされる事になる燐子だが、此の時点では、そんな事は()だ知らない。


「職業婦人ってやつですか。女性の社会進出とか何とか」


 男女雇用機会均等法が出たのが一九八二年、燐子が八歳の頃だと聞くが、紅子の時代は、燐子が生まれる更に前の話である。


「そんな立派なものだった記憶は無いわねぇ、少なくとも、私の実感だと」

 紅子は、コロコロと上品に笑った。

「就職活動していても、単純に、戦争で男の人が減ったから、補填(ほてん)で女性を雇うしかなかったのかもねっていうくらいの雰囲気だったわ。腰掛けよね、結婚までの」

「え、そんな感じですか?」


「多分、私の中で、奉仕の印象が拭いきれなかったからだと思うのだけど。戦時中、私よりちょっと上の世代で、女学校に通っていたくらいの年の人達は、皆、工場に働きに出ていたのよ、人手が足りないから。其れを、奉仕っていう言い方をしていたわ」

「戦時中」


 綜一より六歳下だという紅子もまた、戦争経験者だったのだ、と燐子は実感した。


「ええ。人手が足りなかったの。後から聞いた話だと、飛行機や爆弾も、女学生が作っていた時期が有ったらしいわよ。人手不足もいいところね」

「…女学生が?」

「ええ、貴女くらいの年の女の子が、実際に遣っていた事よ。しかも、木でね」

「木って…木造って事ですか?」


「そうよ。金属が足りなくてね。鍋も薬缶も、供出(きょうしゅつ)って言って、持っていってもらって、溶かして使って。えーっと、伝わるかしら。アルミの鍋なんかをね、鋳つぶして銃弾を作るの。今でも、一円玉を見たら、銃弾思い出しちゃうわ。農具や鋏は勘弁してもらえたけど、御釜なんかも掻き集めて供出(きょうしゅつ)しちゃったから、戦後、闇市で親戚がフライパン買って来てくれるまで、家には鍋が二つくらいだったかしらね。そうまでしても、金属が足りなかったのね、武器を作るのにも。だから木で作らせていたってわけ、女学生にね」


「…無茶じゃないですか?」


「実際、飛行機は、敵機に近付く前に、空中分解した物も有ったって話よ。以前、自分が作った飛行機のせいで兵隊さんが死んじゃったって言って泣いていらした人に会ったけど、私にしてみたら、技術も知識も無い人間に、足りない材料で作らせた方にも原因は有ると思うけどね」


「…酷い。そんな事で、後から罪悪感を後から持たせるなんて」


「そうね。でも、戦争は酷い、で纏めてしまうと、思考停止よ。次は同じ事が起らない様に、少なくとも、覚えている人は、よく記憶しておかなくちゃ、って、思うわ。私は当時十二歳だったけど。ただ、過去の事はね、もう、そういう時代だったとしか言い様が無いのよね。其の時代に居ても、私には止められなかったのは事実だし。良い悪いっていうより、其の時は、そうしないとやっていけなかったのよ、多分。そういうのって、有るのではないかしら」


「…そうですね」


 人肌に慰められなければやっていけなかった時期が有る燐子にとっては、否定し難い言葉だった。


 (いま)だに、婚前交渉や、不純異性交遊といった言葉は、いけない事、として使われている。だからといって、あの不安な時期、其れをしないで、如何(どう)やって心理的に乗り越えられたか、燐子には分からない。

 だから一応、ケンには世話になった、と、今でも思ってはいる。

 戦争と性交、レベルは異なる話なのかもしれないが、燐子は、他人を断罪するだけの権利を、自分は持たない様に思えた。


 ()(かく)、と紅子は言った。

「私にとっては、女性の社会進出っていうのは、奉仕の延長っていう印象だったのだけど、でも、高校卒業して、自分の意志で就職した頃、私は、確かに新しい時代の人だったのよね」

「新しい時代?」

「そうよ、今は、当たり前でしょう?女の子が就職しようとする事なんて。でも、私は、もうちょっと昔に其れをしていたの。其れが当たり前でなかった頃に。当時は、時代の…そうね、先端付近にいたのよ、(から)くも」

「新しい時代…」


「ね、新しい時代がドンドン来るのよ。良い悪いじゃないのよ。変わっていくの。だからきっと、私が生きているうちには見られないかもしれないけど、貴女が私くらいの年になったら『親父の味』っていう言葉も存在しているかもしれないわ。其れって、面白い事でもあるのかもしれないわよ」


―新しい時代。そうなのかな。


「だとしたら…あたしは如何(どう)して、エプロン姿の女の人の姿に、あんなに慰められたのかな。あの時凄く安心したのは如何(どう)してなんだろう。紅子さんを見ただけで」


 燐子の何処かに、女性が料理を作るもの、という刷り込みがあって、其れが、あの涙を流させたのではないのだろうか。

 家に、料理を作ってくれる女の人が待ってくれていた事が、あんなにも燐子を慰めた事は、誰かにとっては残酷な事なのでは無いだろうか。


「ああ、其れは仕方が無いでしょう。そういうものに育てられたのだから。其れは、幸せな記憶がくれた安心感でしょう」


「幸せな記憶?」


「ええ、そういう刷り込みよ。貴女が確かに、人生の何処かで、そういう存在に可愛がられていたっていう証拠よ。知らないものに、そんなに慰められて、安心しないと思うわ。貴女、誰かに、そうやって、御飯を作ってもらっていた時期が有るのよ」


 燐子は、嘗ての家族を思い出し、また泣いてしまった。


 紅子は、あらあら、と、何時(いつ)もの様に言った。

(つら)い事を忘れろとは言わないけど、御祖父様や、其の、エプロン姿の女の人に可愛がられた事が確かに有る人生だったって考えたら、如何(どう)?」

「…はい。有難うございます。そう、あたしは、運が良いから…。そうですね、可愛がられてきたって事ですよね」


 紅子の存在は、時々、燐子の胸に染みる。


 でも、と燐子は言った。


「皆に迷惑掛けちゃったって、思って。おじいちゃんに学費出してもらったけど、良い生徒だったか如何(どう)か分からないし。御金を出してもらった程の事は出来てない、って。期待を裏切ったかな、とか」


 せめて、バイク事故くらいは起こさないで済んでいたら、と、今も時々思う燐子なのだった。


 紅子は、ああ、成程、と言った。

「そういう罪悪感ね」


 罪悪感、という言葉が、燐子には、妙にシックリきた。


―成程。此れを言い表すのに、ピッタリの言葉だな。


 私ね、と紅子は言った。

「御金って、人を喜ばせる為に有るのかもって、思ったのよね」


 其れは、燐子が初めて触れた考え方だった。


 燐子は何時(いつ)も、其れが無い事に怯え、(かつ)えていた。

 其の不安から目を逸らす為に、文字通り思考停止し、気晴らしに走った。

 御金を沢山持っていたら、自分だけで抱え込んで、貯金していただろうし、他人に分け与えよう、という発想は、少なくとも、最初には出て来ないものだった。


 紅子は続ける。

「私、あの人と一緒になる時、自分の持っている物、全部あげたくなったの。あの人が、あんまり孤独だったから、助けてあげたくて。でも、あの人は、御金とか、土地とか、そんなものを欲しがる様な人じゃなくて、あの人にとっては、私が其れを持っている事は、たいした事じゃ無かったと思うけど。でも、あの人の絵が軌道に乗るまでに、収入の保険として、其れは何時(いつ)も有ったの。あの人に自由に絵を描かせてあげられたのは、私の実家に、土地と家屋敷と、御茶農家の仕事が有ったからだって思っているの」


 綜一は、紅子の居る場所が居場所になってしまったと言っていた。

 其の通りなのかもしれない、と燐子は思った。


 紅子は更に言った。

「夫に絵を描かせてあげられた。子供を育て上げられた。子供を学校に出せた。私にとって、御金って、家族を喜ばせる為に有る物だったの。私は、貴女の御祖父様も、そうだったと思うけど」


『勉強なんて良いよ。人生は出会いだ。ああいう大人に会えて、其れが、御前が学校に行った意味だ。信用出来る大人に一人でも多く会えたのが、御前が高校行った意味だよ。』


「おじいちゃんは、あたしを、喜ばせたかった…?」


「そうだと思うわよ。高校に行って、何かになってほしかったって事では無いと思うの。高校に行くのが貴女の為だって思ったっていう、其れだけだったと思うわ。罪悪感って、大事な感情だけど、残りの高校生活を楽しんで、専門学校に行く事を楽しんであげるのも、御祖父様、喜ばれると思うけど」


「楽しむ?」


「そうよ。私、あの人が助けたい人を、助けてあげられる事が、嬉しいもの。御人好しで、しょっちゅう誰かを抱え込もうとするけど。其の時、御金が無いから助けないって言わない私である事が、私が御金を持っている意味なの。私、あの人が、倫子ちゃん、うちの子になっちゃえば、って言い出すの、分かっていたの。少しも驚かなかったわ」


「え?」


「行き場が無い人とか、独りぼっちの人に弱いのよ、あの人。自分を重ねてしまうのでしょうね。そういう事言い出すの、初めてじゃないのよ。そういう時にね、良いわよって言える自分で居たいの。あの人の好きな様にさせてあげたいのよ。だから、御金を持っているの。私、倫子ちゃんにも、喜んでほしいわ」


 燐子は、泣きながら、紅子を見詰めた。


 紅子は微笑んで、此方を見返してくれている。

 其れは、燐子の好きな、目の無くなった笑い顔だった。


 さ、と紅子は言った。

「おやつに、焼き芋食べるの、付き合ってくれない?好物なの。御昼の買い出しの時に焼芋屋さん見付けちゃった。御茶も煎れるわね」


 ふふふ、と笑う紅子に、燐子は、はい、と言って、涙を拭いながら微笑み返した。

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