父親
蕨市の、豊が住むのだというマンションに、吉野教諭の運転する車で、弁護士の村野さんと、綜一に付き添われて向かった燐子は、父の住む部屋を見て、愕然とした。
―何、此れ。
建物が豪華なだけで、殆ど塵屋敷と言って良かった。
出し忘れた塵袋の様な物が山積していて、昼間だというのに酔っている豊に、どうぞ、と言われても、中に入れないのだ。
あまりの事に、燐子が、何も話せないで居ると、部屋の奥に居た、小学生低学年くらいの、ランドセルの背中を机にして、寝そべりながら宿題をしていた、伸び放題の髪をした女の子が、燐子達に気付いて、ハッとした顔をして、中に引っ込んだ。
そして、其の子は、既に敗れた個所が有る、何かの御姫様の様な、安っぽい服を、着ていた服の上から被って出て来て、塵を蹴って、燐子達が家の中に通れる様にしてくれた。
お客さんですか、という、高い、小さい声に、燐子は、涙しそうになった。
―此の子、自分の家が散らかってるのが、恥ずかしいんだ。
看護婦だと言う今の妻は働きに出ているであろうに、豊が、塵出しはおろか、掃除も、家事の一切を担当せず、昼間から酒を飲んでいる事が、燐子には其れで察せられてしまった。
そして此の、小さい、奥さんの連れ子だという女の子は、其の、母親不在で、酔っぱらって、大人の務めの一切を果たさない、血の繋がらない男の居座る家で、其れなりに宿題をし、幼いながらに、自分に出来る範囲で、世間体を気にし、大人の尻拭いをするかの様に、来客の燐子達を迎えようとしてくれているのだ。
燐子は、其の、地黒なのか垢がついているから黒いのか分からない、白くは無い顔をした、小さな女の子を、抱き締めたくなった。
此れは自分だ、と燐子は思った。
伊蔵が居なかった場合の自分だ。
そして、華織が出て行かずに豊と居続けた場合の自分で、そして、生真面目に、族入りなどせずに素直に勉強していた場合の自分だ、と燐子は思った。
燐子は、伊蔵が、燐子を守る為に見せない様にして、一人で抱え込んでいたものの正体と、やっと向き合った。
―おじいちゃん。おばあちゃん。あたし…。あたしの事、こんな風にさせない為に…。
涙しそうになる燐子を他所に、豊は上機嫌で酒を飲み続けた。
嫌な話だが、髪だけは灰色になっていたが、体質なのか、太ってもおらず、容姿は悪くなかった。
そして、其の容姿は、燐子に多少似ていた。
吐き気がする、と燐子は思った。
「靴で上がっても良いよ。あ、判子は有るからさ」
豊の言葉に、じゃ、遠慮無く、と言って、綜一だけ、靴の儘上がり込み、豊に書類を渡し、此処と此処に御願いします、と言った。
遠目からでも、豊が、はいはい、と、気軽に、何にでも自身の名を書き込んでいるのが、燐子にも見えた。
アルコール臭と塵の臭いが混ざった室内の空気に、燐子が本当に吐き気を催してきた頃、豊は、とんでもない事を、小さい女の子に向かって言った。
「ほら、御前の姉ちゃんだぞぉ」
小さな女の子は、え?と言ってから、何かを察した顔をして、燐子を見てから、傷付いた様な顔をした。
燐子は、カッと来て言った。
「こんな小さな子に、何も教えないでよ。大人の都合なんて、此の子には関係無いでしょ?新しい御父さんの、たった一人の子で居たいかもしんないじゃん。…ごめんね、書類だけの用だから、もう来ないから」
書類を書き終えたらしい豊は、はぁん?と、言ってから、立ち上がった。
「親になんて口の利き方だ。もう十八なんだったら、父親の家に金の一つも入れようって思わねぇのか。だから態々、此処に来たんだろ?こんな、小さい妹も居るんだぞ?」
いい加減にしろ、と燐子は言った。
「金渡したって飲んで使っちゃうだけじゃん。此の子の為に使わないでしょ?」
うるせぇ、と、酔った豊が、赤い顔をして、燐子の居る玄関に向かって歩いてくる。
其の時、綜一が、何かを口にするのが、遠くから聞こえた。
「葛、楮、藤蔓、天の蚕を敷き紡ぎ結い績み織り纏いて、強き子を増やせ。田は米、海は魚得て、禍去る。姿見えぬは山の神也、姿得て、田の神となる。山の神は海の神。火を噴く山はまた神也、龍神也。地震ふる山に霾晦、霾は稲なり、霾程実る、神の田よ。月の神は山の神也、山の神は田の神也。神の田を耕せ」
豊と、小さい女の子が、其の場に座り込んだ。
綜一は、小さい女の子に、何かの御菓子を握らせて、今日は誰も来なかったし、一人で宿題をして偉い日だったんだよ、と言った。
そして、豊に、娘さんは此の子しか居ないでしょう、何かの書類の時だけ思い出して協力してくださいね、連絡も取ってこない様に、と言った。
「さ、行こうか」
綜一は、笑顔で、既に泣いてしまっている燐子の手を引いて、車に戻ってくれた。不思議そうな顔をしている村野さんと、焦った顔をしている吉野教諭が、御邪魔しました、と言って、豊の部屋の扉を閉めてくれた。
車の後部座席で泣いている燐子の隣で、穏やかな声で、忘れなさい、と綜一が言った。
運転席の吉野教諭も、助手席の村野弁護士も、一言も発さない。
「もう、うちの子なんだから。其れで良いよね?此れで、月曜に市役所に提出すれば、一週間から十日で、君は、吉野倫子だ」
綜一の小さな声に、燐子も、小さな声で、はい、と言った。
頭の中に残る、小さな、小学生くらいの女の子の顔を、燐子は、一生懸命忘れようとした。
―縁を切るんだから。…助けようなんて、思っちゃいけないんだ。…ごめん。ごめんね。
あの子の、看護婦の母親、というのが、せめて、塵は出してくれる事を、燐子は願った。




