苗の神教
※「木戸が合わん」 身分違い
※「えーえ」 はい
二人きりになると、綜一は大きなキャンバスの前に置いてある椅子に腰掛け、燐子にもアトリエの椅子を一つ勧めた。
素直に其れに従った燐子は、綜一と向き合って言った。
「あの…『あれ』が見えない人も居る、という事は、今日の事は、表面上は、玖一さんの妹さん達が怒鳴り込んできた『だけ』、って事ですよね」
だけ、って事も無いと思うけど、と言って、綜一は、少し、クスッと笑ってから、肯定した。
「まぁ、そうだね」
「何があったか分かりませんけど、家族に、あんな態度…。一体、黒い塊が吉野先生を許さないのか、妹さんが吉野先生を許さないのか…。兎に角、何か、変です。そういう気がするっていうだけだから、上手く言えませんけど」
「へぇ、君って、感覚の人なのかもねぇ」
綜一は、感心した様に、そう言ってから、続けた。
「仕方が無いよ。創子は、『本当に』勇二が好きだったから。其処を、あの黒い塊に付け込まれたのさ」
綜一が、本当に、というところを、少し強調して言っている事を、燐子は、敏感に感じ取ってしまった。
―其れは、如何いう事?
其の意味に、多分、燐子は気付いてしまった。
いや、まさかな、と、燐子は打ち消そうとした。
しかし、綜一の表情が、此れまで見た事も無いくらい陰鬱なので、此れは、と思った。
「いや、あの。まさか」
「其の、まさかだよ」
「え、そりゃ、綺麗な御兄さんだったでしょうけど、本当に…?」
業だよ、と綜一は言った。
「罪と言い換えてもいい」
「え?」
「今生で裁かれないなら、生まれ変わっても、何時か、何かの形で、罰は受ける。其れが…子孫に受け継がれる事もある。こうやって、繰り返す」
「繰り返す…?」
「そう。似た様な状況で、立場が入れ替わった様な感じで、罪の形を繰り返す。何時か、償い切れるまで」
「…待ってください。…子孫って?其の罪は、一体、誰の罪ですか?」
誰だろうね、と綜一は言った。
「俺の罪では無いとは言っておくけど。逃れられないなぁ、と思っただけさ。違う時代に、似た顔の人間が生まれて、愛憎半ばで関係を繰り返す。其の顔の一人が俺ってだけ」
「顔が…受け継がれる呪いだとでも言う気ですか」
日常生活だけを送るには過ぎた美貌である事は、燐子も認めるが。
「そうだね。受け継がれる呪いって言葉、ピッタリだね。本当に、俺に似なくて良かったよ、玖一は。早死にもせず、良い人生を送れる。普通の。普通の、何事も無い暮らしが、どれだけ幸せか」
受け継がれる呪い。
其れは時に、遺伝という名前をしているらしかった。
「そろそろ、償いきれると思っているけどね。二度と、こんな事が無いと良いと思っているけど」
「…誰の顔ですか?似た顔って。元は誰の顔です?そんな綺麗な顔」
燐子の問いに、俺の父親だよ、と綜一は言った。
あまりにも悲壮な其の表情に、燐子は、自身の肌が泡立つのを感じた。
「苗の神教って、知ってるかい?」
「いえ…。初めて聞きましたけど」
「そうだろうね。普通知らない。俺の故郷は、百戸くらいの小さな集落で、瀬原集落という名前なんだけど、其処の住人は、全員、其の『苗の神教』の信者で、其の土地は、未だに隠れ里として存在している」
「か、隠れ里?今時?」
もう平成ですよ?と燐子は言ったが、綜一は、そうなんだけどね、と言って続けた。
「其の集落自体が、廃仏毀釈の時に、其の宗教を隠す為に作られた隠れ里で、未だに、そういう、社会の暗部として存在している」
「は、はいぶつきしゃく、っていうのが、よく分かりませんけど。社会の暗部って…暗殺とか、そういう裏稼業みたいな?」
半信半疑で、そう言った燐子に、綜一は、御名答、と言った。
燐子は、はぁ?と言った。
「あ、暗殺?」
「其の宗教の秘術を利用すると、証拠も無しに人が殺せるのさ。だから、色んな筋から『重宝』されてしまっているらしい。其れを説明するには、戦時中の人体実験の話にまで遡らないといけないんだけど、根気よく聞いてくれるかな?」
「…此処まで聞いちゃったら、全部聞かないと眠れないです…」
「まぁ、そうだね。実際見てもらった方が早いかな、俺の見ている世界を」
「…実際見る、って?…まぁ、はい、見られるものなら…」
綜一は、いくよ、と言って立ち上がると、合掌して、何事かを唱え始めた。
「葛、楮、藤蔓、天の蚕を敷き紡ぎ結い績み織り纏いて、強き子を増やせ。田は米、海は魚得て、禍去る。姿見えぬは山の神也、姿得て、田の神となる。山の神は海の神。火を噴く山はまた神也、龍神也。地震ふる山に霾晦、霾は稲なり、霾程実る、神の田よ。月の神は山の神也、山の神は田の神也。神の田を耕せ」
綜一が、何か呪文の様なものを唱えた後、燐子の目の前の世界は一変した。
足元が、海と見紛うばかりの青い花畑になった。
空は青く、花畑は時折、洪水の水や海の様に思えて、其れで、時間が止まって、花畑の様に見えるのかもしれなかった。
水平線と空の境界が、其の青で引かれている様な、美しい場所だった。
広々としていて、もっと遠くでは、空と海の境界線も溶けて、空と大地と、大地と花畑と、花畑と海とが、一つの球形になっている。
ふと気付くと、燐子の背後に、大きな山が在った。
―あ。此れ、山だけど、切り株だ。其れでいて、誰かの足首にも思える。
燐子は、自身が、痩せた高齢の女性になっている事に気付いた。
地味な着物に前掛けという、豪く質素な姿である。髪も地味な引詰め髪に結われていて、自分とは思えなかった。
―こんなの、着た事有ったっけ?ああ…若様に団子を作らんなら。いや、あの子は死んでしまって…。子守して御育てして…。折角綺麗な嫁を貰ったのに、結核で。…こげな、簪もせん様な、田舎者の自分は嫌。綺麗な服を着て、電話に出るのも平気になって…。振袖が良か、上方限ん御嬢様達んごた…。
燐子が、自分が一度も考えた事も無い様な事を考えていた時、サァッと、柔らかく雨が降ってきて、花畑から、美しいシャボン玉の様な虹色の球が、沢山浮かび上がってきた。
空には、何か、龍の様なものが浮かび、流れる様に飛んでいるのが見える。
燐子が其れに見惚れていると、背後から声を掛けられた。
こんな所に来てしまったのか、と、金糸の入った、黒っぽい、立派な着物を着た若者が燐子に言った。
若様、と言って、燐子は泣いた。
自分で育てた子は、仮に自分が産んでいなくても、自分の子だった。
自分の子は男の子が三人、仕えて育てたのは、男の子二人。其のうち、自分より先に死んでしまったのは、此の子だけだった。
誰にも言った事は無かったが、此の子の事だけが心残りだった。
こんな所まで来てしまうとは忠義者だと言って、若者は、美しい微笑みを浮かべながら、登岐士玖能迦玖能木実だ、と言って、八つの、黄金色の丸い物を差し出した。
若様は、其のうち三つを、燐子に手渡してくれた。
手渡された物は、燐子に体の中に入っていった。
燐子は、ふと、綜一の事を思い出した。
困っている様子だから助けたい、と言うと、若者は、能々の忠義者だと燐子の事を褒めながら、しかし助けたいとは分不相応の不敬、とも言った。
燐子には其れ程の力は無いのだと言う。
不敬?と燐子が聞き返すと、若者は、山の方を見て、常世とは海、黄泉とは山、と言った。
山の方を燐子が見ると、和傘を差した白装束姿の男性が、六、七歳くらいの、晴れ着を着た男の子を抱きかかえていた。
其の、金糸の入った紫色の高価そうな着物に、真っ赤な金糸入りの袴を履いた男の子の顔を見て、燐子は戦慄した。
其の顔は、色素の薄さ以外は、綜一其のものだった。
そう、綜一の顔、という以外で見た事が無い、美しい顔だった。
鳶色の髪に、榛色の瞳。
其の男の子は、悲しそうに、傍らに立つ、金糸の入った上下真っ赤な晴れ着姿の男の子を見ている。
其方の男の子は、泣きながら怒っていて、其の紫色の晴れ着の男の子の袖を引っ張り、傘から出てほしいと懇願している。
燐子は直感した。此の、上下真っ赤な晴れ着姿の男の子こそが綜一なのだ。
次第に、燐子の周囲を、黒い塊が取り囲んで来た。
燐子が悲鳴を上げそうになると、目の前に、十二単の、髪の長い女性が、自分に向かって微笑み掛けながら立っているのに気付いた。
―何て綺麗な人。
燃える様な美しさだった。
血潮を流れる力と、其の力による美しさが、衣を通り抜けて透けて見える程だった。
マグマの様な、溶けた鉄の様な、紅い宝玉の様な美であり、且つ破魔の強さを持つ美だった。
黒い塊は掻き消える様にして消えた。
十二単姿の女性は、空を見ろ、と燐子に言った。
あれは龍だ、と若者が言った。
十二単姿の女性は、空を見上げながら、『たつ』とは、立つ、立ち上る事、と言った。
燐子の耳に、雷のゴロゴロいう音が聞こえた。
はてさて発光現象か火山雷か、と若者が言った。
大雷、火雷、黒雷、柝雷、若雷、土雷、鳴雷、伏雷、と若者は続けて言った。
山の御陰が割れる、と、十二単姿の女性が言った。
燐子は理解した。
そろそろ山が噴火するのだ。
母親の山を焼き尽くしながらマグマが、蛇の様に流れ出てくるのだ。
雷もマグマも蛇も、龍なのだ。
此のマグマは、常世の海に斬って止められ、冷え固まって黄泉の山になる。
女性は、天に昇っていくから龍なのだ、と言って、舞い始めた。
何か手に持っている。
女性の舞に合わせて、一二三四五六七八九十、一二三四五六七八九十、と、若者が数える。
此れ等の数は十ずつ、完成された形で集まって、やがて百千万になる、と若者は言った。
何処からか音楽が聞こえてくる。
燐子は此の音楽を知っている。
十二単姿の女性の舞で、雨は、更に優しく降り注いでくる。
誰かの声が若者の声と重なって聞こえてくる。
一二三四五六七八九十百千万、
一二三四五六七八九十百千万、
一二三四五六七八九十百千万、
と、男の声とも女の声ともつかない低い声が、地響きの様に大地を揺らしながら、地の底から響いてくる。
若者が、燐子に向かって言った。
完成数の十を二つ頂いて会いに行くから覚えておけ、と。
燐子が呆気に取られていると、急に場面が切り替わった。
五十路くらいだろうか、総白髪の見目好い着物姿の男性が、囲炉裏端で小さな男の子を抱いているのが見える。
燐子は思い出した。
寡婦になってしまった自分は、同じく男寡になってしまった此の人物に雇われて、下働き兼乳母として、此の人物の末息子を育てていたのだった。
其の子も大きくなって家を出て、此の、雇われている広い家は、少し寂しくなった。
寡黙で、笑うのが下手な此の人物は、見掛けに寄らず子供好きで、近所の子等が家に来る事を喜んでいて、子等も、此の人物に、よく懐いた。
今日も、広い寂しい家の囲炉裏端で眠ってしまった、近所の男の子を抱いた此の人物は、自分の羽織を掛けて遣って、其の子を慈しんでいる。
自分が、長い事、此の人物を心に懸けていた事を、燐子は思い出した。
しかし、此の人物は堅物で、亡き妻の他には後妻も娶らず、下働きの自分に手を出しているのでは、などという根も葉もない噂も経ったぐらいだったが、誓って、そんな事は一度も無かった。
―違う、嫌な噂だったけど、本当は嬉しかったんだった。思い出した。…あたしと同じ、夏生まれの人で…。そう、逆に、生まれ月くらいしか共通点が無かったんだった…。
見た目は良いが不器用で、家族を愛しているのに其れを顔には出せず、ニコリともしないから誤解され易い、此の人物を燐子は敬愛していた。そして、近所の子等を慈しむ、此の情の深い人物に対し、身分違いの恋心を抱いていた事をも、燐子は思い出した。
―木戸が合わん、ち言わるいもん。そげな事は考えるだけでん御無礼様じゃ。
しかし、身の程知らずにも、夢見る事は有った。
自分が若く美しく、身分が釣り合っていたなら、相手が自分を顧みてくれる事も有ったのではないか、と。
しかし、そうはならない事は重々承知していた自分は、只管相手の役に立とうと努めていたのだった。
―こげな、簪もせん様な、田舎者の自分は嫌。地味な引詰め髪で…。何時か上方限ん御嬢様達んごた衣装を着て…。
良い家にばかり連続で仕えて来られたのは単に自分の運が良かった御蔭だったが、其のせいで、下手に、上流の暮らしを見知ってしまい、着る物に対して目が高くなってしまう自分を、当時の燐子は恥じていた。
着られない、着る必要も無い物を望むとは、と。
其の人物は、燐子が居る事に気付くと、おお、と、優しい声で言って、子等に何か作ってくれないかと依頼してきた。
燐子は優しく、えーえ、と言って、其の人物の抱く男の子を見た。
此の集落で一番の有力者の息子だった。
そんな、恐れ多い御方の子にまで、此の人物は無償の愛情を注ぎ、男の子も、此の人物に、よく懐いていた。
実際可愛い子で、燐子は、自分にも懐いてくれる其の男の子に、親切に接したい気持ちが、とても強かった。
―あ。此ん子ぁ。
其の男の子が、白装束を着た、幼き日の綜一である事に、燐子は気付いた。
―長の。
再び、場面が切り替わった。
「いやー、久しぶり過ぎたな。全然長い時間出来ない。疲れるー、此れ」
綜一は、おしまい、と言って、荒い息をして、アトリエの、絵の前の椅子に再び座り直し、燐子に向かって、見えた?と言った。
燐子は、眼を瞬かせながら答えた。
「…見えちゃった」
「あ、ホント?良かった。綺麗じゃない?青い場所。上手く伝えられていたら良いなぁ。この術、最終的には精神感応らしいよ、俺の親友が言っていたけど」
「…は?術?」
「うん。大雑把に言うと、俺が、此の顔で、此の術が使える様な育ち方したから、ああいうものに追い回される事になったってわけ。…気味悪い?」
「…ちょっと…納得するまで時間ください。でも、あれが『見ている世界』なのね…」
綺麗だった、と燐子は言った。
良かった、と綜一は言った。
「御見せしといて何だけど、綺麗って感じてもらえるか如何かは分かんないからね。俺、死んだら、あの場所に行けると思っているんだ。青い場所でね。皆で、過去も現在も未来も関係無く遊ぶの。…いやぁ、こんな訳有りの家に来るなんて大変だね、君」
「…何か、他のものも見た様な。…自分が別の人間になった様な」
「へぇー、其れは、なった事無いなぁ」
胡蝶の夢ってやつかね、などと言いながら、綜一は首を傾げた。
「…如何いう宗教なんですか?」
わっかんないんだよねぇ、と綜一は言った。
「古過ぎるのか何なのか、御本尊もハッキリしないんだよね。…分かれば、あんな黒い塊くらい、何とか出来るかもしれないんだけど」
「え?そんな凄い事が?」
「だって、神様の本当の名前だよ?」
真名って言っても分かんないかな、と、綜一は困った様に言った。
「兎に角ねぇ、名前って、今の人間が思っているより大事で、其れ自体に大きな力が有ったわけ。…せめて、どんな神様なのか分かればねぇ」
「…山、っていうか、火山の神様だと思います」
「え?」
「其れで、龍なの…。…あ、あたし、何言って…」
自分の発言に驚く燐子に対して、ふぅん、と、綜一は言った。
「…興味有るな、其れ。従弟に言ってみよ。何か分かるかも」
「え?そんな大事な事言いました?あたし」
「いや、そういうね、先入観の無い無意識の時にこそ、フワッと本質を抉っている何かが降りてきたりするもんだから。創作するならインスピレーションとでも呼んであげて」




