黒い塊
丁度夕飯の片付けを終えた頃合いで、紅子に似た三十路くらいの女性が二人、突然家に押し掛けてきた。
燐子には直ぐに、其れが、創子と周子だと分かった。
「あたし達は認めないからね、玖一兄さん」
創子という人が、長い髪を振り乱して、ヒステリックに言った。
「此の家に娘が増えるのなんて、あたしは認めない。『あの人の妹』は此れ以上増やさない」
暖かそうな煉瓦色のウールのコートの下に、紺色の、上下揃いの品の良い服を着て、こんな時間に押し掛けて、行き成り実家で実兄に、こんな事を言い放つ人も居るのか、と燐子は思った。
しかし、何かが変だ。
周子という人は、地味な小紋を着て、ただ黙って突っ立っていて、表情が無い。
ずっ。
燐子の目に、創子の姿が、突然、黒く映った。創子は、大きな黒い塊になった。何事かを叫びながら、其れは、ずっ、ずっ、と肥大していく様に『見えた』。
―違う。
―『そんな事』にはなっていない。
分かるのだ。創子の顔は何も変わっていない。
其れなのに、燐子の目には、創子が真っ黒い塊になってしまった様に『見える』のだ。
そして、肥大していく。
突然、何かを警告する様に、燐子の下腹部が痛んだ。
其の痛みは、一瞬、両足の土踏まずを貫く程、ズキリと痛んだ。
燐子は、其の場に、思わず、へたり込んだ。
「許さない」
黒い塊は、燐子を通り抜けて、燐子の上の方に言葉を投げつける様に吐き出す。
燐子が其の方向を見ると、苦渋に満ちた顔で玖一が立っていた。
「あんた達が、新しい家族と幸せになるのは許さない。あたし達は認めない」
「…分かった」
冷や汗をダラダラ流しながら、玖一が、そう言うと、止めなさい、と言って、紅子が、燐子を庇う様に、黒い塊の前に出た。
「認めないのは勝手にしなさい。綜一さんが決める事よ。養子が増えて遺産相続が心配、とかいう話だったら違う時にしましょう。夜中に態々、ケチを付ける様に出向いてきて、そんな事を言い立てて来ないで。何時だと思っているの」
紅子は泣いている。
黒い塊は、しかし、『紅子を見ていない』。
「許すも許さないも、勝手にしなさい」
今度は綜一が、そう言って紅子の前に出た。
黒い塊が、ずっ、と、視線を綜一に移したのを、燐子は感じた。
「勇二の御仏壇に手を合わせたら『帰りなさい』」
綜一が、何かを命じる様に、そう言うと、ピン、と、何か張り詰めた物から何かが弾かれた様に、燐子は感じた。
次の瞬間、黒い塊を、其の弾かれた物が貫いた様に、燐子には思えた。
黒い塊は、ずっ、ずっ、と移動する様に動くと、仏間の方に消えた。
黒い塊の後を、無表情で、周子が追った。
燐子は、生まれて初めて、腰が抜ける、という体験をした。
全然足に力が入らず、立てない。
立てずに居る燐子の手を、縋り付く様に握って、ごめんなさい、と言って、紅子が泣いた。
「こんな目に遭わせて、ごめんなさい。恐ろしかったでしょう」
「あれは…。あたしは、何を見たの?あれは何?真っ黒な」
紅子が、え?と言った。
「倫子ちゃん、『あれ』が見えたの?」
綜一が、創子と周子を帰したというので、食卓に、玖一と綜一と、燐子の三人で座った。
紅子は、綜一が眠らせた。
娘二人と対峙した後は、何時も酷く消耗するのだという。
「『あれ』は…其の。御祓いとか、そういうものが必要な何かでは?…いえ、すみません。娘さんに、こんな事言って」
燐子の言葉に、綜一と玖一は、驚いた顔をした。
あ、すみません、と、思わず燐子は謝った。
「数学の先生を捕まえて、こんな、非科学的な事…」
いや、と玖一は言った。
「君に、『あれ』が見えるとは思わなかった。真っ黒な塊の事を言っているなら、だけど」
「そう、其れ。やっぱり、見えるのね、皆にも。『あれ』は、何?」
綜一は、悲しい顔をして、言った。
「『あれ』は、名前を付けて祀られてきたものと、祓われてきたもの達の塊だよ。だから、今更御祓いは効かないし、『あれ』を押さえてくれていた人も、もう亡くなってしまった。だから、『あれ』は、もうずっと、あの儘」
「え?な、ほ、本当に?悪霊とか、そういう類のものですか?」
「もっと言うと、其の残り滓みたいな物だね。攻撃性は無い」
「こ、攻撃性?」
燐子は、人生に於いて、ああいったものの攻撃性について考えた事が無かったので、如何考えたら良いものか、と思ったが、燐子の動揺を他所に、綜一は続けた。
「三年前に、『あれ』を押さえてくれていた人が亡くなってから、出る様になった」
ごめん、と綜一は言った。
「誰にでも『あれ』が見えるわけでないから、如何説明したものかと思っていたのだけど、見えるなら話は早い。うちの上の娘が来る時だけ、我が家は地獄になる。…最初に言わなくて、ごめん。詐欺みたいなものでしょ。一か八か、君に、『あれ』が見えなかったら良かったけど、『あれ』を見てしまったら…良い気持ちはしないでしょう。薄気味悪いと思ったら、養子縁組は止めても良いから。違う方法で、未成年後見人とか、何か上手い手を考えるから」
玖一は、悲しそうな顔で俯いていて、一言も発しない。
燐子は戸惑った。
「いや、その、何か…」
此れは、言葉にして説明出来なくて当たり前、という気が、燐子はした。
玖一の妹二人、という存在が、あまりにも思っていた存在とは『違った』のである。
「あの、未だ、如何考えて良いか分からないですけど…」
「今なら引き返せる。此処は、こういう家だ。此れを知って、嫌だと思ったら」
綜一が言い終わらないうちに、嫌です、と燐子は言った。
燐子の言葉に、綜一と玖一は再び驚いた顔をした。
「嫌。此処の他に、行く所なんて無い。行きたい所も無い。あたしは。此処の子なの。追い出さないで。何でもするから。あんな紅子さんを置いて、何処にも行けない」
言いながら、燐子は泣いた。
「もう一人ぼっちは嫌。一人ぼっちより怖い事、あたしには無い」
そうなのだ。折角入れてもらえた家を出る方が、年に何回も遭遇しない、得体のしれない物より、今の燐子には恐ろしい。自分には何の得にもならないのに、倫子に御馳走を作ってくれる紅子と離れる方が、今の燐子には考えられない。
―人間の方が怖いもん。うちのお父さんの頭の中の方が、怖いもん。十八歳なんだから、自分の居場所は、自分で決めるんだ。
玖一が、日野さん、と慌てた様に言った。
しかし、燐子は黙らない。
「表面上は、普通なのね。あたし達にしか、『あれ』は見えていない。攻撃性も無いのね」
綜一は、躊躇いがちに、うん、と言った。
分かった、と燐子は言った。
「怖いとは言わない。そんな事言ったら負け。言ったでしょう、十回我慢したら、あたしの勝ちだって」
「え…、言ったけど」
「『あれ』を殴るのは無理かもしれないって事は分かったけど、あたしは、あんなものに負けない。見えるって事は、立ち向かえるって事。あたしは、あんなものを怖がって、此の家を出たりしない。其れは負け。いい?生きた人間の方が、よっぽど酷い事したのよ、あたしに。攻撃性が無いなら、十回我慢出来たら、あたしの勝ちなの。絶対に、あたしの勝ち。絶対出て行かない。あんなの、生きた人間よりは怖くない」
でも、と綜一は言った。
何か言おうとする綜一を、燐子は遮った。
「此処に居させてください。…こんな、あたしなんかに、うちの子になれば、って、成人まで御飯作ってくれるって言ってくれる人達に、もう会えない」
紅子の安心感の有る姿が好きなのだ。
綜一の明るさも、吉野教諭の優しさも。
伊蔵を失ってボロボロになった燐子には、其れ等が如何しても必要な気がしてならない。
「…そうまで言ってくれるなら、止めない。…日曜日、蕨市に一緒に行こう」
綜一は、ゆっくりと、そう言うと、食卓の椅子から立ち、部屋から出て行った。
燐子は、待って、と言って、廊下まで綜一を追い掛けた。
綜一は、悲しそうに微笑んで、燐子の方を見ると、アトリエにおいで、と囁いた。
「紅子さんに聞かせたくないから」
燐子は、素直に頷くと、歩き出す綜一の後に続いて、玄関から庭に出て、アトリエに向かった。




