電話
其の日の夕方、燐子は、綜一と紅子、吉野教諭に見守られながら、吉野家の廊下の黒電話を借りて、豊に電話した。
伊蔵の遺品から、豊の蕨市の住所に関する書類等が出て来たのを、取り敢えず、適当に大きな茶封筒に入れて保管していたのが役に立った。
―本当は、話をするのは嫌。でも、言わなきゃ。…皆、死んじゃったって。
意外にも、七回呼び鈴が鳴る頃、はい、と男性の声で受話器が取られた。
「…あの、日野豊さんの御宅でしょうか」
「はい、何方様?」
「…倫子です」
自分は、そんな名前じゃない、と思う事が、燐子には、何だか救いになった。自分は『燐子』なのだ、と。自分で、そう決めたのだ、と。
稍あってから、相手は、おお、と言った。
「倫子か!」
「…あの…。急な話ですけど。母と祖父が亡くなりました」
「え…?」
相手の反応が怖くて、燐子は精一杯、呼吸を荒くしない様に、胸の動悸を速めながら続けた。
「だから…高校の先生の御宅で、養子にしていただく事になって。其れで…」
「ああ、何か、書類が要るんだな。良いぞ。何したら良い?」
あまりにもアッサリ、そう言われたので、燐子は、全身の震えが止まらなくなった。
そして、何も話せなくなった。
電話口の父は、驚いた様な声で返してきた。
「倫子?如何した?」
分かっていた心算だったのに、と思い、倫子は震えながら泣いた。
―此の人の中に、うちのじいちゃん達なんて、疾っくに居ないし、死んだって聞いたって、そんな事教えたって、何にも変わらないって、分かってたのに。あたしだけが、おじいちゃん達の事、悲しいんだって、分かってたのに。でも、良かった。あたし、誰かの頭の中のおじいちゃんを、此れで…もう殺さなくて済むんだ。…いいや、違う。頭の中に残ってた、『優しかったお父さん』を消し去りたいんだ。本当は、そうなのかもしれない。
思い出さない様にしてきた、もう売ってしまった家の二階、其の畳み敷きの部屋の中に在った父親の設計用机、製図用の定規、シャープペンシルの芯が沢山入っている箱。
伊蔵が処分してくれていた其れ等の中に、頭の中に僅かに残る映像では、豊が其処で仕事をしていたのだった。
華子が生きている時は、あんな家でも家族の体裁を成していた。其の時の豊を、別に燐子も異常な大人だと思っていたわけではなかった。
―やっぱり会わないと。会って殺さないと、いや、消さないといけないのは、あたしの頭の中の『優しいお父さん』の残像。ちゃんと幻滅しなきゃ。何時までも終われない。
見兼ねたのか、吉野教諭は、燐子の代わりに、高校の担任の吉野玖一です、と言って電話に出て、豊と会う約束を取り付けてくれた。
次の日曜日に蕨市に行く旨を伝えて、吉野教諭が受話器を置く頃、燐子は、耐えきれず、蹲って泣いてしまった。
紅子が、泣きながら燐子を抱き締めてくれた。
「さ、大丈夫。御飯、食べましょうね。御刺身よ。倫子ちゃんが来てくれるから、御馳走にしたんだから。…いいの、食べなくたって、構わないのよ。今日食べなくたって。もう、うちの子になるんだから、他に幾らだって御馳走食べる機会は有るから」
食べます、と言って、燐子は紅子を抱き締め返した。
―他に誰が、あたしなんかに御馳走作ってくれるの。吐いてでも食べるんだから。
燐子は、伊蔵の事を思い出して、噎び泣いた。でも、と紅子は言った。
「…成人したら…本当に、好きな所に住んで良いのよ?此処は、変な家だから…」
え?と燐子は、思わず泣き止んで、聞き返してしまった。
綜一さん、と紅子は言った。
「此の子を、うちの子にする事は賛成よ。絶対、今は其の方が良いわ。『今は』ね。…私は、何なら此処に、ずっと此の子が居てくれても構わないわ。…でも、此の子にとって、其れが良い事かは、分からないでしょう?…あの子達には連絡したのよね?多分今夜来るわ」
「…紅子さん。…そうだね、うちの子になる以上、倫子ちゃんに話しておかないといけない事も、有るよね」
創子ですね、と吉野教諭は言った。
綜一は頷く。
燐子は、目を瞬かせながら聞いた。
「…吉野先生の妹さんですよね?」
「…うん、上の妹。周子は兎も角、創子は…」
紅子が、ごめんなさいね、倫子ちゃん、と言った。
「うちの娘が、今夜乗り込んでくるかもしれないけど…仮に創子が倫子ちゃんに何を言っても、『自分に言われているのではない』と思ってくれないかしら」
「え…?の、乗り込んでくる?…自分の、実家にですか?」
「…そうでなければ…人によっては、耐えられないと思うわ。だから、私も、此処に貴女が居てくれたら、本当に嬉しいけど…断るなら今のうちよ、今言うのは、卑怯な気もするけど。出て行きたくなったら、出て行って構わないからね。此処は変な家だから」
母さん、と吉野教諭が言うと、紅子は泣いた。
「こんな、普通の子を、うちの事情に巻き込むのは気の毒よ。此処は、変な家なのよ。…言葉では上手く説明出来ないくらい」
―でも、此の家が良い。
燐子は、ふと、そう思ってしまった。
特に強い理由が有るわけでも無いが、此の家の子になるのだ、と、燐子は既に決めてしまっていたのだ。
―此の家に、必要とされたい。会ったばかりの人達だけど。…だって、一番辛い時に、扉を開けてくれた家だから。ただ、其れだけの理由かもしれないけど、あたしには充分。
燐子は、此処以外の別の場所には、もう行く事を考えられないのだった。
「…その、創子さんっていう人に、人生で何回会いますかね?」
燐子の問いに、綜一は、ふむ、と言った。
「俺の葬式…?其れと、遺産相続の話し合い…十回は会わないと思うけど、盆正月も、伊豆から帰って来やしないからさ」
「…人生で、十回耐えたら、あたしの勝ちって事ですかね」
「…や、勝ち負けって…」
綜一は戸惑った顔をしたが、燐子は立ち上がりながら笑った。
「あたし、タイマンで負けた事は無いですよ。遺産なんか要りませんが、嫌味を言われても平気です。馬鹿ですから」
吉野教諭が、あれ?と言った。
綜一は、あはは、と笑った。
「何其れぇ。創子と殴り合うって事ぉ?其の発想、無かったぁ。凄い、面白いねー」
「いえ、流石に、そんな事、自分からはしませんけど。あたしは、そんな品の無い解決方法が発想出来る馬鹿な人間ですから。だから、奥歯が一本無いわけですよ」
如何です?と燐子は言った。
「其れでも、受け入れてくれますか?多分、言われますよ、世間様に。碌な娘じゃないってね。孤児みたいな、バイク事故起こして停学と内定取り消し食らった娘だって」
俺ね、と、綜一は、紅子が立ち上がるのを手助けしながら言った。
「多分、周子より君と相性が良い。君って『自分』の塊だもの。些か衝動的だけど、君、っていう存在の主張が、俺は好きだよ。そういう、突っ走れる衝動性って、時として芸術と相性が良いから」
「ちかこ、さん?」
「…ある意味…創子より、俺は問題だと思っているけど。周子単体で何か、こっちにしてくる事は無いよ」
「…創子さん単体だと、有るっていう事ですか?」
「君は自分の事を馬鹿だって言うけど、そういう頭の回転の速いところも好きだよ」
そう言って、綜一は、ニヤッと笑った。
「人生の荒波に、一緒に打って出る?家族になったら、なかなか同じ船から降りられないよ?…上手く、口では説明出来ない事だから。此の家の…うちの娘二人の違和感っていうものは、自分で感じてもらわないと、何とも」
「…良いですね。あたしも、説明してもらっても、分かる頭か如何か自信は無いですもん。あたしは、良い娘にはなれないでしょうが、図太い娘とか、強い娘にはなれるかもしれません。船酔いはしそうですけど、其の船、乗りますよ」
如何ですか、と、燐子は、紅子に言った。紅子は吹き出した。
「私、貴女好きよ。自分の戸籍を、こんな家に任せて良いって思えるのなら好きにしたら良いと思うわ。私は、何時もの生活、何も変わらないもの。貴女が成人するまでは、ずっと御飯を作ってあげる心算。殴り合いくらいだったら、今更起爆剤程度の事ね。何か変わるかも。…殴れるのかしらね、『あれ』は…」
紅子の含みの有る言い方は気になったが、如何ですか、と燐子は、吉野教諭に言った。
「…こんな妹ですが、良いですか?」
はー、と吉野教諭は、何時もの様に言った。
「取り敢えず、事情を聴いてから、君が選んだら良いと思うよ。嫌なら止めれば良いし」
燐子は、そうですか、と言った。
「結構、そんな、アッサリ…。じゃあ、其の『変な家』っていう理由を教えてください」
まぁ、夕飯でも食べようよ、と綜一が言うので、一同、廊下から食卓まで移動した。




