身の上話
二月十五日の夕飯前に、燐子は、プレハブ造りのアトリエで、画材と資料の整理をしながら、訥々(とつとつ)と、綜一に身の上話をした。
「そっか、じゃ、お父さんって埼玉に居るの?」
花と女性の美しい絵を描きながら、綜一は、背後の棚を整理する燐子の方を見ずに、そう言った。
「はい、蕨市らしいです。連れ子の居る看護婦さんと住んでいるらしいです」
会いたくないなら会わなくてもいいよ?と、言いながら、綜一が、燐子の方を向いた。
「弁護士さんと俺達で話を付けても良いしさ。御祖父さんだって、会わせたくなかったかもしれないし」
燐子は、本を片付けながら、綜一の方を見て言った。
「いや、あたしの中で、一回死んだ感じの人だったんで…。今更、何か…。会う事自体は、如何でも良いんですけど…。其処まで、皆に任せっきりにしない方が良い気がするんです。完全に縁を切りたいから、自分でケジメを付けようかなって」
自分の言うケジメとは、祖父と母の死を実父に告げる事だ、とは、何と無く、青臭い事を言っている様な気がして、気恥ずかしくて、燐子は口に出来なかった。
ケジメねぇ、と、不思議そうに綜一は言った。
「其れが君の倫理観?其れなら其れで良いよ。何方にしても、君一人では行かせないし、妙な事にはさせない。其の点は安心していいから」
「有難う御座います。…折角、何とか幸せに暮らそうとしているのに、今更、御金貸してほしい、とかで出て来られても困るから。今のうちに、自分で、きっちりケジメ付けて、自分の中では死んだ、っていう事にして。そうやって終わりたいんです」
妙なとこ真面目なんだね、と綜一は言った。
「自分ルールの倫理観っていうの?しなくてもいい苦労だと思うけどなぁ。でもまぁ、君が遣ろうと決めた事なら、全力で応援するからさ」
「有難う御座います。…出来たら、あんまり薄情な事は言いたくないですけど。あたしの中で、あの人は、もう家族じゃなくて。血が繋がっているだけの人になっちゃったから。でも、自分の血縁なのに、そういうの、祖父にだけ背負わせて、守られて。祖父にこそ父は他人だったのに。…何ていうか、もう代わって背負ってくれた人は居ないし。自分の親だけど…」
いや、だからこそ、自分で何とかしないと恥ずかしい気もするのである。
今までの燐子は、血縁の所業に流される未成年だった。
だが、十八歳で、そろそろ高校卒業。本来は就職する気ですらいた。
だから、自分では、もう大人の心算だった。
流されるのではなく、自分で決めて、自分で向き合って、越えていきたいのである。
今となっては、豊に会う事は、伊蔵達の事を告げる為だけではなく、何かの通過儀礼の様にも感じられた。
「…血が繋がってるだけの他人って言い方、冷たいですかね」
分かるぅ、と綜一は言った。
「あの、居るよね、そういう人。血縁が如何こうじゃないよねぇ」
「…分かってもらえます?」
「うん、うちも苦労したもん。だから、もう何でもいいよ。縁が有った同士で集まって幸せになろう。家族は、自分で作って良いんだもん」
綜一は、実に無い気無い様子で、そう言うと、再び絵を描き始めた。
此の、戦災孤児だという人物は、相当苦労したらしい。
昨晩、兄弟が頭を拳銃で打ち抜かれて亡くなったらしいと吉野教諭から聞いた時は、度肝を抜かれたものだ。
戦時中の事らしいので、吉野教諭も詳細は知らないらしいのだが。
伊蔵の影響で、戦争経験者の話には弱い燐子である。
伊蔵の知り合いからシベリア抑留の話を初めて聞いた時には、自分の身に起きた不幸など微風なのではないかと思ったくらいである。
其の人間の幸不幸は他人が決める事では無いし、だから、不幸の大きさというものも、他人と比べるものではない。
人の不幸は其々(それぞれ)で、どれも各人にとっては辛いものだと思う燐子だが、戦争を知っている人間に向かって弱音を吐いてみても、何と無く、自分の辛抱が足りないのだろうか、と思ってしまう事が有るのである。
―まぁ、結局あたしって、運が良いからね。お父さんの事だって、何とかなるでしょ。
「有難う御座います…鹿児島って、どんな所ですか?」
「ああ、本当は、藺牟田さん、なんだっけ、倫子ちゃん。本当に御縁が有ったよね。そうだねぇ、もう、出てからの方が長いから。丁度倫子ちゃんくらいの年の時に上京して来てね。だから、今は面影も無いだろうけど」
ほら、と言って、綜一は、アトリエの壁に掛かっている油絵を、筆で指し示した。美しい、形は富士に多少似た形の山が、白と、淡い紫の濃淡で表現されていた。
「桜島。あれがね、鹿児島市に居ると、殆ど何処からでも見えるの。…藺牟田池って言うと川内?川内からは、あんまり桜島、見えないかなぁ」
「せんだい?」
「ああ、川の内って書くんだけど。千の臺築きて、っと」
綜一は、何事かを唱える様に言いながら、再び絵を描いた。
燐子は再び聞いた。
「桜島は、灰を降らせるんでしたっけ?…其のくらいしか知らないけど」
「そうだよぉ。も、凄いから。ドーンってねぇ」
噴火するの、と言って、綜一は、燐子に背を向けた儘、両手を上げて、笑った。
噴火を表現するアクションらしい。
燐子は其の剽軽さに微笑みながら、言った。
「帰ってみたいと思った事有ります?」
「そりゃあね。でも、帰る場所なんて無いから。大事なもの一切合財置いて、命辛々逃げてきたもの。もう、紅子さんが居る所が居場所になっちゃった。だから、家は此処だよ」
「…そうですか」
吉野教諭曰く、綜一は、自分の過去を殆ど語らないのだという。
余程の事があったのだろう、と燐子は思った。
加えて此の人物は、自分の子供を亡くしているのだ。
自分の子を未だ持った事の無い燐子には、其れは、想像もつかない苦しみの様に思えた。
『綺麗なオジサン』は、話をしてみれば、とんでもなく大きな、重い物を心に抱えた、幸福には饒舌で、不幸には寡黙な人だった。
「君が未成年じゃなかったらね。結婚だろうと何だろうと、好きにしても良いだろうに。成人だったら、態々しなくても良い様な作業なんだけど。…まぁ、頑張ろう」
綜一の励ましの言葉に、燐子は、有難う御座います、と返した。




