傷
其の晩は、泊っていけば、と綜一が言うので、其の儘燐子は、吉野教諭宅に泊る事になった。
燐子は、止めてもらう予定の、創子という人の部屋に案内される前に、畳敷きの仏間に案内された。
紅子の父、紅紫の部屋だったという其の場所には、先祖代々からの物だという、立派な仏壇が在った。
燐子は驚いた。
此の家の人達は、勇二、という人の位牌に話し掛けるのである。
まるで、勇二が生きているかの様に。
「勇二、日野倫子さんだよ。勇二くらいの年の子だよ。今度から、うちに住むからね。俺の生徒。…俺の…妹になるのかな?…御前の妹にもなるのかも?宜しくな」
吉雄教諭は、仏壇の前に立つと、実に自然に、位牌に話し掛けた。
燐子は、戸惑いながら、吉野教諭の背後に立ち、思わず、どうも、と言ってしまった。
吉野教諭は、まるで、弟の部屋に気軽に立ち寄ったかの様に、穏やかに微笑んでから、仏壇の在る部屋を後にした。
燐子が、慌てて、其の後を追おうとすると、綜一に伴われて、盆を持って仏間に入ってきた紅子が、仏壇に話し掛けながらホットコーヒーを供えた。
「ね、他の人は水が良いでしょうけど。勇二はブラックコーヒーなのよねぇ。背伸びしちゃって。本当は苦いのよね?倫子ちゃんもブラックコーヒーが好きなんですって。新しく、うちの子になる子だから、守ってあげてね」
そして綜一が、明日は御刺身だよ、と仏前で報告した。
「楽しみだねぇ。好きだろう、刺身。倫子ちゃんが来た御祝いに御馳走だからね」
燐子は、最初は驚いたが、直ぐに慣れ、そして、ああ、此れが此の家の苦しみなのか、と悟った。
―十五年前から仮に、こうなのだとしたら。
誰も其の、勇二という人の死に納得していないのだ。
納得なんか出来ないよね、と燐子は思った。
そして自分も翌日、自宅に荷物を取りに戻ってから、祖母と母と伊蔵の、戒名が書かれた木札が入った古い位牌に、同じ事をしてみた。
位牌に話し掛けると、何と無く、伊蔵と話が出来た様な、落ち着いた気分になった。
「おじいちゃん、吉野先生に、孫を頼みますって言って、逝っちゃったけど。吉野先生、約束守ったよ。…何か、あたし、妹になるらしいんだけど。何か、変だけど…」
会いたくないよ、と言って、燐子は泣いた。
「…お父さんに会いたくない。おじいちゃんと、お母さんが死んじゃったって、教えたくないよ。…お父さんの頭の中で未だ生きてるかもしれないおじいちゃんを、殺しちゃう気がする。変な事言ってるって分かってる。でも、おじいちゃんの事、殺したくない。お父さんの頭の中のおじいちゃんだって、あたしのおじいちゃんだもん」
―でも、会わなきゃ。本当に縁を切る為に。
「あたし以外の誰にも、お父さんの頭の中のおじいちゃんを殺させない。おじいちゃんは、お母さんは」
あたしのだもん、と言って、燐子は泣いた。




