吉野綜一画伯
金曜日の放課後、気付けば、燐子は、吉野教諭に連れられて、制服姿にコートとマフラー姿で、中央病院の近くの道を歩いていた。
道を歩きながら、赤やピンクのディスプレイが、矢鱈目に付く。
今日はバレンタインデーらしい。
一週間の忌引きは疾うに終わっていたが、電話にも出られず、まともに日常生活が送れていない燐子を心配して、吉野教諭が、弁護士の村野氏を伴い、態々(わざ)燐子の家を尋ねてくれたのだ。友達からの手紙を沢山携えて。
有難過ぎて、燐子は涙も出なかった。
吉野教諭の顔を見ると、安心したのか、燐子の腹の虫が鳴いたので、吉野教諭は、安アパートの玄関先で、村野氏と彼是話をした後、燐子の家の電話から、自宅に、生徒を連れて行くから夕飯を追加で御願い出来ないかと連絡してくれて、今に至る。
痩せた眼鏡姿の村野氏は、吉野教諭に燐子を任せると、何時でも御連絡ください、と、優しく言って去った。
長身の大人の傍らを歩くのは、大きな木に寄り掛かっている様な気分になって、燐子は、妙にホッとした。
道すがら、そんな事を考えながらボンヤリ歩いていると、隣を歩いている吉野教諭が、燐子に話し掛けてきた。
「ほら、日野さん、一小出身って言ってなかった?俺の父に会った事有るかも」
「…え?」
「うちの父、画家でさ、一時期、近所の小学校で絵を教えるボランティア要員で」
「はぁ」
門扉の近くに、白いスカイラインが停めてあった。
吉野教諭の車らしい。
大きな家だ、と燐子は思った。
何しろ、駐車スペースと家の他に、庭に、でっかいプレハブ小屋が建っているのだ。
家が大きい、と言うより、敷地が広い、と言うべきか。
「あれ…倉庫ですか?」
「ああ、あれ?父のアトリエ。あ、ほら、出てきた。父さん、ただいま」
「お帰りー」
にこやかに、プレハブ小屋から出てきた、濃紺のシャツに、何か、ルビーの様な石のついた、シンプルな形のループタイをした洒脱な初老の男性を見て、燐子は、やっと意識がハッキリした。
つまり其のくらい驚いたのである。
―此の人。
燐子は、完全に思い出した。
「あ、あ、あ、よ、吉野、吉野綜一画伯?」
「え?玖一、此の子は?」
「ああ、教え子。一小出身らしいから、父さんの講義を受けていた子じゃない?」
「あー、第一小学校の子かぁ。覚えていてくれたのかぁ。そっか、高校生になったの。大きくなったねぇ」
「…父さんの顔って、一回見たら忘れないと思うけどな。例え小学生でも」
「そーぉ?」
燐子は未だ信じられない気持ちで、吉野綜一画伯こと『綺麗なオジサン』を見た。
「よ、よしのせんせい、お父さんって、画家って、もしかして」
「そう、画家の吉野綜一。あ、ビックリしたよね?テレビとかには顔出さないし、近影とかも少ないけど。…こんな顔の画家、だよ」
役者でなくて?と、燐子が問いたくなる様な、老いても、やはり綺麗な儘の顔をしたオジサンだった。
成程、こうして見てみると、親子である。
体格が、よく似ていた。
身長は、吉野教諭の方が僅かばかり高い。
但し、綺麗なオジサンの方は、腹は出ていなかった。
何が如何なっているのだろう、と燐子は思った。
綜一は、眼を瞬かせた。
「如何したの?生徒さん連れてくるなんて、初めてじゃない?」
「うん、御飯でも食べさせてあげたくて。母さんには連絡してある」
「そっか、一緒に御飯食べようねぇ。御名前は?」
綜一は、孫にでも話し掛ける様な優しい声で、燐子に語り掛けてきた。
「えっと、ひ、の、りんこ、です」
「日野さんかぁ、宜しく」
燐子は、夢を見ている様な気持ちで、はい、と言った。
別に、綺麗なオジサンに再会したからといって、恋に落ちたりはしないが、一瞬伊蔵の死を忘れるくらいには驚いた。
去る姿を見ながら、燐子は、嘘でしょ、と呟いた。
吉野教諭は、分かる、といった。
「ね、吃驚するよね。俺は顔が祖父に似たから、こうだけど。弟は、あの父に、そっくりだった」
「…はぁ。あんな顔が、二つも」
「ね、吃驚するよね」
「はい、…ビックリですね」
少し正気に戻った燐子は、幾分丁寧に返答した。
ファミレスは案の定クビになったが、言葉遣いの方は、バイトの御蔭で多少マシになった、と自分でも思う燐子である。
招き入れられた家は、彼方此方に絵が飾ってあって、燐子は今まで、此れ程文化的な空間で居住している人間達を見た事が無いと思った。廊下は寒いが、リビングは暖かく、台所からは味噌汁の香りがしていた。
「母さん、ただいま」
「お帰りなさい」
「紅子さん、玖一が生徒さん連れて来たって」
「はい、いらっしゃい」
台所から振り返った、所謂おばちゃんパーマの、エプロン姿の初老の女性の姿を見るや、燐子は、安心のあまり、泣き出してしまった。
―何年振りだろう。家に、エプロンをした女の人が居るのを見たのは。おばあちゃんだ。…お母さんだ。そうだ、お母さんだって、居なくなる前は御飯作ってくれていたもの…。
長い事、其の人達は、燐子の前から姿を消していたのだったが、此処に居たのか、と思うくらい、燐子は懐かしくなった。
結局燐子は蹲ってしまい、泣きながら、お母さん、と言った。
傍らで、吉野教諭の驚く声が聞こえた。
「日野さん?」
「お母さん。酷い。如何して」
如何して燐子の母は、こうじゃなかったのだろう。
如何して、こうじゃなくなってしまったのだろう。
如何して此の様な姿で燐子を可愛がってくれていた祖母は居なくなってしまったのだろう。
そんな、考えない様にしていた事柄が、燐子の頭の中を回る。
「あたし、此の、お母さんが良かった。如何して居なくなっちゃったの、お母さん」
其れは、今更言っても仕方の無い事なのに、口をついて出て来てしまった言葉だった。
傷付いた事さえ忘れようとして蓋をしていた事まで、出て来てしまった。
其れくらい、ボロボロになった燐子の心には、台所に立つ小柄な人物の安心感が染み過ぎた。
自分でも、何時もの自分でない事は分かっていた。
「如何して、あたしのお母さんは、こうじゃなかったの」
誰を恨んだら良いのだろう。
もう燐子には誰も居ないのだ。
燐子は顔を覆って言った。
「おじいちゃんが居なくなったら、あたし、一人ぼっちだ」
「日野さん、落ち着いて、大丈夫だから」
燐子は、ハッとして、屈んだ儘、声のする方を見上げた。
吉野教諭が、困った顔をして、燐子の方を見ていた。
大丈夫だよ、と吉野教諭は言ってくれた。
「大丈夫。持っていたものが、全部無くなったわけじゃないから。御祖父さんが御金を出してくれたのを無駄にしたらいけない。高校は、もう少しだから、ちゃんと卒業して、専門学校に行こう」
「…先生」
「日野さんは、あと、二年は大丈夫だって言ったでしょ。二年、真面目に専門学校で勉強して、其の間に、此れからの事、将来の事を考えたらいい。モラトリアムって分かるかい?執行猶予って事だよ。社会に出るまでの執行猶予が、学生時代だ。御祖父さんがくれた時間だよ。其の時間が君を守ってくれる。二年も有る。だから、大丈夫。絶対、何か、他のものが見つけられるから。大事なものが。だから、大丈夫」
おじいちゃんの代わりになるものなんて、見付けられる気がしないけど、と思いながら、燐子は、担任の、心配そうな顔を見詰めた。
少なくとも此の人物は、燐子を心配して、本気で其れを言ってくれている、という事が、信用出来た。
「…はい。あの、すみません。折角御招待して頂いたのに、みっともないところを御見せしてしまって」
幾らか落ち着くと、燐子は、恥ずかしくなって、やおら立ち上がった。
見れば、初老の夫婦が、心配そうに此方を見ていた。
吉野教諭が、あの、と言った。
「前、少し話したかもしれないけど。此の子は夏に事故に遭って。其の後、御母さんが亡くなって、今月の二日に、御祖父さんも亡くなって。ちょっと、気持ちに疲れが出て、不安定になっている筈だから、今日は大人の居る所で、御飯を御馳走してあげたくて」
そう、と、初老の紅子夫人は、優しい声で言った。
亡くなった祖母と其れ程年が変わらない様に見えたせいか、親近感が持てた。燐子は、日野倫子です、と言って、紅子に、深々と頭を下げた。顔立ちは多少キツいが、清潔感が有って、笑うと目が無くなる紅子の存在は、其れから何度も、燐子を落ち着かせてくれた。
「倫子ちゃん、うちの子になっちゃえば?俺の養子にさ」
リビングに在る、少し古びた木製のダイニングテーブルで、四人で椅子に座りながら、ハンバーグと海老フライ、という、何処と無く懐かしい御馳走を食べながら、身の上話をしていると、出し抜けに綜一が、そんな事を言ったので、燐子は我が耳を疑った。
だが、紅子は、またですか、と、特に驚いた様子も無く、言った。
「貴方の言いそうな事だわ。何時だったかしらねぇ、成子さんの時も似た様な事言って」
「でもでも、あの時は成ちゃん、別に、うちに住んでくれなかったじゃない。直ぐ御嫁に行っちゃって」
「そりゃ、成子さんの好きな人が、成子さんにプロポーズしに、渋谷から青梅まで追い掛けてきたのですもの。うちに住むより、あっちに御嫁に行きますよ」
吉野教諭は、えっ?と言った。
「俺が小学校上がったくらいの時?あれって、そうだったの?大騒ぎになったじゃない。高級車が、茶畑に乗り付けて」
「うん、子供に見せるものじゃなかったよね、ごめん」
綜一は、実に軽く謝った。
吉野教諭は、箸を置き、天井を仰ぎながら、あー、と、何かを思い出したかの様に言った。
「そうだった、御近所さんも集まって来ちゃって」
「映画張りのラブシーンだったよねぇ」
綜一の言葉に、燐子は、驚いて、思わず噎せた。
過去に茶畑で何が起きたというのだろう。
ああ、ごめん、ごめん、と、綜一は、実に軽く謝った。
「ま、部屋も余っている事だしさぁ。創子も周子も伊豆に御嫁に行っちゃったし。第一、御祖父さんが亡くなっちゃったから、此の場合、親権者って、御父さんなわけでしょう?此の儘だと最悪御父さんと今更同居か、未成年で一人暮らしじゃない。ちょっと嫌だろうけど、一回其処と話してさ、うちの養子になれば?」
そうですね、と紅子は言った。
「未成年の女の子一人、こんな状態で置いておくのは、私も何だか心配」
吉野教諭は、多少混乱気味に、でも、と言った。
「幾ら担任でも、生徒と同居っていうのは不味いのでは。そりゃ、もう少しで卒業したら、生徒じゃなくなるけど。…えっと?でも、養子だと、俺の妹になるのか…?まぁ、名字は、日野から藺牟田になった時みたいに、変わった事を公表しなきゃいいわけで…?…えっと?…倫理的には如何なんだ?此れ…」
そうだろうけど、と綜一は言った。
「逆に考えてみて。担任でも何でもなくなったら、十八歳も年下の女の子構っているの、変になるじゃない。今は二月だけど、三月末まで、此の子を、此の儘放っておくの?一ヶ月の間に此の子に何か遭ってから、あの時保護しておけば良かったって思っても遅いよ。まさか、蒸発したとかいう御父さんに任せやしないでしょう?だから此の子、一人ぼっちだって、自分で言っていたじゃない。御祖父さんも浮かばれないよ、そんなの」
一人ぼっち、という綜一の言葉に、妙な実感が籠っていて、燐子は再び泣いてしまった。
あらあら、と、紅子が、困った様に言った。
吉野教諭は、うーん、と言った。
綜一は、そうだ、と、何かを思い付いた様に言った。
「俺の養子にしてさ。弟子って事にして、プレハブのアトリエに住まわせている事にしたら良いよ。実際は、寒いから創子達の部屋で寝泊まりしてさ。住所はアトリエなわけ」
「あー。成程。御弟子さんね」
取った事無かったものねぇ、と紅子は言った。
綜一は、燐子に、如何?と言った。
「民族衣装や刺繍の資料はアトリエに有るから。染料の本もある。服飾に必要な資料でしょう?入学前に、ちょっと予習していけば?服のデザインに関係しそうな事は色面構成くらいしか多分教えられないけど、デザイン遣りたいなら、無駄にならないと思うよ。美術を見て、感性を鍛えるのだって、練習だから」
「其れは…本職の画家の方に何かを教えて頂けるなんて、願っても無い話ですけど。よ、養子って、…良いんですか?」
燐子は、涙を拭いながら、綜一の、真っ直ぐな目を受け止めた。綜一は明るく言った。
「そりゃ、御父さん、生きてはいるらしいけど、幾ら未成年だからって、今更保護者を御父さんにして、同居したい?其れよりは良いでしょ?」
其れは確かに、と燐子が言うと、ね、と綜一は言った。
「画商さんに絵を送るのとか、画材の買い出しとか、ちょっとした雑用も遣ってもらうっていうのは如何?画材の整理だけでも助かるけど」
「あら、其れなら本当に、住み込みの御弟子さんみたいね。きちんとした仕事よ。御小遣い程度だけど、工房によっては御給金も出る筈よ」
紅子の発言に、滅相も無いです、と燐子は言った。
そう?と紅子は言った。
「此の人も、こう言っているし、倫子ちゃんが嫌じゃなかったら、如何かしら」
「嫌だなんて」
半ば燐子の出身小学校では伝説的存在となっている『綺麗なオジサン』の養女及び弟子になれるとは、燐子は、想像した事も無かったが、嫌な気は全くしなかった。
吉野教諭は、そっかぁ、と、観念した様に言った。
「…ま、養子縁組の事は詳しくないけど…。確かに、初七日は過ぎているからね。そろそろ、家庭裁判所で、未成年後見人だか何だかの話をする時期だったんだよ。其れも有って、今日、弁護士さんと一緒に日野さんの家に行ったんだけど。…養女兼御弟子さんって事なら、高校にも、そう言ってみようかな。住所は同じ敷地内だけど両親も同居で、アトリエ住み込みって説明してみる。日野さんが良かったらだけど」
「…吉野先生は其れで大丈夫ですか?」
「いや、うちの親父が面倒見るって言っているものをさ。如何こう言えないよ。此れでも割と有名な画家だもん。其の人が、初めて弟子を取ろうって言うのを、素人の俺に口出し出来ない。滅多に出来ない経験ではあるよ。何せ、弟子第一号だから、世界に一人だよ、吉野荘一の弟子は。日野さんのマイナスには、ならないと思う。芸術的な物に触れてデザインのセンスを磨く、っていう概念が、理系の俺にはピンと来ないけど。まぁ、養女って事なら家族だし、専門学校卒業するまででも、此の家に居れば?卒業する頃には成人しているし、俺としても、二十歳になったら流石に、もう大人の目から離しても大丈夫って気がするし、そうしたら、自分の好きな所に住んだら良いし」
如何?と、吉野教諭は言った。
燐子は、綜一、紅子、吉野教諭に見詰められて、たじろいだ。
「そんなに御世話になって、良いものでしょうか。…でも」
今更、豊を保護者として暮らしては、伊蔵の努力が無駄になる、と燐子は思った。
「本当に、願っても無い話だと思うし、あの、あたし」
寂しいです、と、燐子は、思わず言ってしまった。
口にすると、ボロボロ涙が出てきた。
紅子は、其れは当たり前よ、と言った。
「身内を行き成り亡くして、十八の女の子が…寂しくて当然よ。私に出来る事は少ないかもしれないけれど、御飯は作ってあげます。ね、倫子ちゃん」
「…はい」
燐子は、紅子の優しい声に、再び泣きながら、養女兼住み込みの弟子になる事を承諾した。
決まりだね、と、綜一は、明るく言った。
食後にはホットコーヒーが出た。燐子がノンシュガーで飲むと、何故か紅子は、微笑ましいものを見る様に、目を細めて笑った。




