暗転
しかし、忘れもしない、平成四年の二月二日。
其れは日曜日だった。
明日は節分だ、などと、呑気な事を考えていた燐子の前に、珍客が現れた。
「よう、リンコ」
「…ケン」
抜かった、と燐子は思った。
家から近いバイト先でファミレスを選んだのだから、ケンが客として来る事は、想定しておくべきだった。
相変わらず金髪のケンに、燐子は事務的に問うた。
「御注文は?」
「俺、一人暮らし始めたよ、去年の年末から。仕事が落ち着いたからさ」
「ブレンドコーヒーですね?他に御注文は御座いますか?」
「…聞けよ、リンコ。一緒に暮らそう。俺が悪かった」
「明太子スパゲティですね。畏まりました」
「聞けって」
「御注文、確認させていただきます。ブレンドコーヒーが一点、明太子スパゲティ一点。コーヒーは、食事の前、食事と一緒、食後、何時御持ちしますか?」
「リンコ」
「食後ですね。畏まりました。御料理出来次第、御持ちいたします」
リンコ、と叫んで、ケンが立ち上がった。店中の視線が、ケンに集中する。
「困ります、御客様」
燐子が冷たい声で言うと、ケンは一瞬、怯んだ。
バイクに乗る日は夏も冬も何時でも着ている、ケンの黒いライダースが、今日は寒そうに見えた。
燐子は小声で畳み掛けた。
「治療費、払って頂けるのでしたら、考えても宜しいですよ。…治ってから来ても流石に遅ぇだろ。バイク事故だぞ。阿保か。どうせ責任なんて取れやしねーだろ」
三十万だ、と燐子は呟いた。
ケンは、青い顔をして着席した。
「あんたには世話にはなったから、治療費は請求しないでいてやるよ。料理食ったら帰れよな。せめて売り上げ貢献しろ。食い逃げはするな」
去る燐子の背中に、何だよ、と、ケンは、狼狽えた様子で言った。
「あの偉そうなセンコーみてーな事言いやがってよ」
燐子は、思いがけないケンの言葉に、振り返った。
ケンは、意地悪い笑みを浮かべた。
「スゲー剣幕だったぞ。襟首掴まれてよ。嫁入り前の娘さんに何をする、責任取れるのか、ってな」
「嘘」
「嘘なわけあるか。ズリーよ、あんなタッパあったら敵わねぇわ。あのオッサンのせいで逃げ遅れて、お前のじいちゃんに殴られて、散々だったわ」
「…嘘。吉野先生が?」
あの穏やかな担任が、燐子の為に、ケンの襟首を掴んで叱りつけていたなどという事が現実に起こり得るとは、燐子には信じ難かった。
ケンは更に、吐き捨てる様に言った。
「あんなん、カッコばっか真面目な教師面で、中身がどうだか分からんわ。暴力教師。良い人ですって顔してよ。上辺ばっかり正しい事言って。反吐が出らぁ」
「先生は、良い先生だよ!」
燐子は、思わず、そう叫んでいた。
ケンが、目を丸くしていた。
サッパリした性格だとケンに誤解されているのであろう燐子が、ケンに対して声を荒げたのは、実は此れが初めてである。
此れまでは、相手に殴られない保証が無かったので控えていたのだった。
だが、恩人を侮辱されては、もう、例え殴られようと、燐子は黙っているわけにはいかなかった。
ケンに殴られる事など、何も怖くなかった。
燐子は続けた。
「良い人の顔じゃないよ。良い人だよ。本気で言ってくれるの。心配してくれるの。そういう大人も居るの」
「な、何だよ」
「今だから言うけどね、あたし、もっと前から、あんたと別れたかった。本当は別に、同棲が原因じゃないよ、別れたかったのは。きちんと生活の準備が出来てないのに、一緒に暮らそうとか、頭の螺子が外れた様な事言うから、嫌になったの。待ち疲れたなんて、大嘘」
ケンは、ショックを受けた顔をして黙った。
燐子は更に言った。
「ハッキリ本当の事言ってやりゃ良かったね。だって、二十歳で、あたしより年上で、大人でしょ?なのに、あんまり餓鬼みたいな事言うからさ。未成年に半分出してもらわないといけない様な暮らしなのに、あんた、何て言ったと思う?」
ケンは黙った儘、眼を瞬かせた。
燐子は続けた。
「あたしが金は如何するって聞いたら、要らないって言ったからね。つまり、足りない分は、あたしに出させようって事でしょ」
ケンは黙っている。
燐子は、もう黙っていられない。
心の何処かに溜まっていた不満が、堰を切って溢れ出してしまった。
燐子は、場所が職場なのを、一瞬忘れた。
「そりゃ、自分で家賃全額出すより、セックス付き飯炊き女付きで家賃半額の方が良いわな。食費も半分未成年に出させようって、其れで平気だから嫌なの。話になんないよ。よく考えてみな?あたしに得が無いよ、あんたと暮らしても。あんたしか得してない」
ケンは、ポロポロ泣き出した。
しかし、燐子は黙らない。
「そんな生活で、あたしが、もし働けなくなったら如何するのさ。誰かの稼ぎを当てにした状態でやっていこうだなんて、二十歳にもなって思い付く頭が嫌い。怖いよ、其れを平気で言えるのが。嘘でも、安心させる様な事、言ってほしかったよ。今一人暮らしだから、何だって?オマケに未だ、バイクで怪我させられたけど、キチンと謝ってもらってないからね、あんたに。俺が悪かった、って、本当に思うわけ?一緒に住もうだ?絶対に寄りは戻さない。分かってないなら、もう一回言うけどね、他人をバイクで怪我させたの、あんたは。ノーヘルだったら即死だよ、あたし。下手すりゃ殺しと変わらんからな。そりゃ、うちの温厚な担任も怒るわ。じいちゃんに殴られたので済んで良かったとは思わないのかい、此のクズ。よく顔出せたな。其れを、ちょっと悪かった、とか言えば、一人暮らしすりゃ一緒に同棲してもらえて、寄りが戻せるだろうって思い付く頭が嫌だよ。馬鹿丸出しだろ。取り敢えず、怪我させて済みませんでした、だろ。こっちは御前の御蔭で、怪我だけじゃなくて、就職内定取り消しになったからな。そりゃ御前に三十万出せるとは思っちゃいないけど。賠償金払えって言われないだけ優しいと思えよな」
ケンが泣きながら、スンマセンした、と小声で言った。
惨めったらしい、と思って、燐子は吐き気すら覚えた。
何が一番嫌かと言って、恐らく、ケンが、未だ燐子が自分の事を好きだろうと思い込んでいたであろう事が、一番腹に据えかねるのである。
なまじ外見が良いから、女に構ってもらえて、其の様に思い上がる機会が多かった人生なのだろう。
燐子は、自分も其の思い上がらせた一因を作ったであろう事が更に嫌だった。
燐子は、腹立ち紛れに、おう、と言った。
「もう、あたしの前に面出すな」
ケンは、燐子の言葉に、はい、と言って、鼻水を出す程泣いた。
「ちょ、藺牟田さん、藺牟田さん」
男性マネージャーが、燐子の元に走ってやって来た。
店中の視線を、今は、燐子が一身に集めていた。
「あ、済みません、あたし」
ケンが、いむた?と言ったが、燐子は、ネームプレートが読めない昔の男を無視した。
頬が熱くなり、恥ずかしい、と思って、燐子は謝罪した。
「すみません、こんな騒ぎ起こしちゃって、あの」
「いや、あのね。其れもだけど、まぁ、其れは後で良いから。来て」
マネージャーは、失礼致します、とケンに告げ、代わりのスタッフを呼び、燐子を連れて、裏口の方に向かいながら言った。
「今、藺牟田さんの担任の先生っていう人が来て。御祖父さん大変らしいよ」
通夜も葬式も納骨も、記憶が無い。
燐子は自分の事を、襤褸雑巾みたいだ、と思った。
あの日、伊蔵は、燐子と一緒に駆け付けた吉野教諭に、譫言の様に、孫を頼みます、と言って、動かなくなった。
其れ以降の記憶が曖昧なのだ。
葬式も何もかも、伊蔵が信頼していた、村野という弁護士や吉野教諭が手続きしてくれたのだが、燐子は金を払うばかりで、何をしたのか、まるで覚えていない。
ただ、葬式って金が掛かるな、と思った。
伊蔵は、寺の石段で派手に転んで脳挫傷を起こしたらしい。
打ち所が悪かったそうだ。
―こんな、あっけない。嘘だもん。バイトの前に、一緒に御昼食べて。…何で?
杖を使う程では無いと本人は言っていたが、足が悪くなっているから、最近は遠出しなかったというのに、伊蔵が、そんな亡くなり方をするとは思いもしなかった燐子である。
羽衣町に在るK寺の石段付近で僧侶に発見されたという事から、華織の墓参りに行こうとしていたらしい事を察すると、燐子は、泣けて仕方が無かった。
―酷い、お母さん。おじいちゃんを連れて行ったなんて。
論理的では無いが、燐子には、もう、此の世には居ない母親に、心の中で当たり散らかすくらいしか、能動的に出来る事が無かった。
そして其れが唯一、死んでから家族として心の中に戻ってきた母親に、自然に甘えられる行為だった。




