エピローグ
忘れもしない、一九八九年一月。
日野燐子の父親、豊は、破産宣告した挙句、新しい母親と蒸発した。
行方は分からない。
燐子の母親、華織は、燐子が中二の頃、疾うに家を出てしまっていたから、母親に捨てられた時よりはショックでは無かった燐子だったが、中学三年生の冬休みに、実の両親共に見捨てられたという事実は、流石に受け入れ難く、今年は正月どころでは無かったし、新学期早々、帰宅もせずに、セーラー服姿の儘、多摩モノレールの柴崎体育館駅付近をウロウロしてしまった。
―こんな所に来たって何にもならないって分かっているのに。
松が取れないうちに居なくなった豊を探して、此の最寄り駅の辺りも、立川駅周辺も、残りの冬休み中探し回った。
警察にも捜索願を出した。
あれから一週間も経っていないから、警察からも、何の音沙汰も無い。
だから、こんな所には、もう既に居る筈も無い事は、燐子にも分かり切っていた事だったのに、何と無く足が此処に向いてしまった事、案の定其の場には居ない豊、そして此の場から離れ難く感じている自分自身、其れ等の全てが、燐子は堪らなく嫌だった。
「風邪引くぞ」
燐子が振り返ると、自身に残された唯一の肉親である母方の祖父、伊蔵が、焼き芋が包まれた新聞紙と、鯛焼きの入った紙袋を手に立っていた。
「おじいちゃん」
「帰ろう。そろそろ改元のニュースが入らぁな。芋でも食いながらテレビ観ようや」
「え?何?かいげん?」
「御前、元号が変わるんだよ、今日発表だ。興味は無いか?」
「え?何?げんごう?」
正月どころですら無かった燐子は、此処暫く、全くニュースになど興味が無かったので、そんな単語すら、今初めて聞く気分だった。
だから目を瞬かせながら聞き返した。
「昭和が終わるんだよ。…えーっと、何だ、元号ってのはなぁ、あれだ、明治とか、大正とか、あっただろう。其れだ。今までの元号が昭和だったのが、別の元号になるのさ」
「あ…昭和、終わっちゃうんだ…」
燐子は何と無く、今日までに起きた数々の出来事から受けた衝撃に加えて、其の事実を知る事で、今まで自分が生きてきた世界が無くなる様な気分になった。燐子は思わず、明日は有るのかな、と呟いてしまった。
伊蔵は、はぁん?と冗談めかして言った。
「明日は、正月の残りの餅が有らぁな。バタバタして、今年は飾ってすらいねぇが、貰った鏡餅を割って、鏡開きしてやらぁ。御前、揚げ餅好きだろうが」
伊蔵の揚げ餅は砂糖醤油を絡めて食べる、此の辺では珍しい味である。
普段は碌に料理もしない伊蔵だったが、袋ラーメンと揚げ餅だけは自分で作るのだ。
理想の味というのが存在すると見えて、既に鬼籍に入っている、燐子の祖母、華子の作る塩味の揚げ餅は受け付けなかった。
「…良いね、揚げ餅」
伊蔵が、自分を慰める為に、御道化て話題を明るくしようとしてくれた事を察した燐子は、無理に微笑んで、そう言った。
おうよ、と言って、伊蔵が、そろそろ擦り切れてきた妙な灰色のジャンパーのポケットから、燐子の嫌いな飴を取り出して、手渡してくれた。
燐子は、何時もの様に、其の飴を、嫌いだとも言わずに、礼を言って食べた。
ニッキが嫌いな燐子には、嫌いだとしか言い様が無い味なのだが、食べると、何時も伊蔵がくれる飴の味がするので、妙に安心するのである。
此の飴、今日も不味いな、と燐子が思っていると、伊蔵に、豪く立派な着流し姿の、長身の紳士が声を掛けて来た。
見惚れる程美しい、雪の様に白い髪と、ハッキリした瞳が印象的で、随分綺麗な御爺さんだなと燐子は思った。
風呂敷包みを抱えた紳士は、淡々と言った。
「すみません、中央病院は何方でしょうか?立川駅でモノレールに乗り換えたのですが」
へぇ?と、小柄な伊蔵は、相手の立派さに気圧された様な声を出しながらも、答えた。
「そりゃ、御諏訪さんの近くじゃないかね?此処からだと…立川南駅でタクシーでも拾った方が良かったか知らん。…ん?何処かで見たな、あんた」
おや、と紳士は、素知らぬ様子で、そうですか?と言ってから、最寄り駅を一駅勘違いしておりましたかねぇ、と続けた。
いやいや、と、伊蔵は気の毒そうに言った。
「微妙な位置に在るからなぁ。うちも、立川南駅と此の駅の真ん中くらいに家が在って。うちは図書館の近くだから、病院も近所だよ。案内しようか?兄ちゃん」
「御親切に」
でも流石に悪いですよ、と言って、紳士は黒っぽい羽織を着た肩を竦めて微笑んだ。
「兄ちゃん、って、随分久し振りに言われました。昭和一桁生まれの還暦ですからね」
「へぇ、俺は大正十四年生まれの六十四さね。やっぱ俺の方が年上だわ、兄ちゃんより」
へへっ、と伊蔵が面白そうに言った。
燐子は、伊蔵が此の紳士を気に入ったらしい事を悟った。
其れは何と無く燐子にも理解出来た。
『兄ちゃん』などと呼び掛けたくなる気持ちも。
品が良くて綺麗だが、威張った感じはしないのだ。寧ろ瞳の美しさには、何故か中性的な美すら感じた。
若い頃は相当な男前だったかもしれない、と燐子は思った。
「お、来た。タクシー止めてやるよ。あれに乗んな。そんな立派な御羽織着てちゃ、此処から歩きも難儀だろ。おおい、此処だ、此処だ」
駅のタクシープールに近寄ってきたタクシーに向かって、伊蔵は手を振りながら駆け寄った。タクシーは止まって、後部座席のドアを開けてくれた。
紳士は再び微笑んだ。
「御親切に。そうだ、何かの御縁ですから、一緒に乗って行かれませんか?中央病院が御自宅の近くという御話ですから、送らせてください。一人も三人も同じですから」
伊蔵は、少し考える様な素振りを見せてから、普段なら断るんだけどよ、と言った。
「今日は此の孫に気分転換させてやりたいから、其の話、乗るわ。有難うな。御諏訪さんまでは乗っていくわ」
おや、と言いながら、紳士は燐子の方を見て来た。
燐子は何だか恥ずかしくなって、一礼した儘俯いてしまった。
そうと決まれば乗った、乗った、と言って、伊蔵はタクシーに先に乗り込んだ。
紳士と燐子も、慌てて、タクシーの後部座席に乗り込んだ。
タクシーなんて初めて乗ったな、と思いながら、燐子が物珍しくてキョロキョロしていると、タクシーの運転手が、恐る恐る、と言った感じで、御忍びですか?と訪ねて来た。
紳士はクスッと笑って、まぁね、と言った。
あぁん?と伊蔵は言った。
「あの…坂本自動車の…坂本紘一会長でいらっしゃいますよね?」
運転手は、そう言うと、恐縮しきった声で、まさか今日御会い出来るとは、と続けた。
紳士の顔をジッと見詰めてから、伊蔵は、あー、と言った。
「ニュースで見たんだ。あの大企業の。はあぁ、こんな男前、何処で見たかと思ったら」
伊蔵は、見忘れねぇ顔だわ、と、感心した様子で続けた。燐子も面食らって、隣に座る老人の、整った横顔を見た。
紳士は気不味そうに微笑んだが、伊蔵は嬉しそうに続けた。
「聞いたぜぇ、御先祖が鹿児島の人だってな?俺も、生まれは上野だが、明治の頃に先祖が鹿児島から移住してきたんだ。俺ぁ藺牟田伊蔵ってんだよ。よろしくな」
「はー、確かに、あちらの名字ですね」
紳士は、淡々とした声でそう言うと、親しげな顔で微笑んだ。
温度を感じない話し方が癖らしいが、微笑みが美しく、あまりにも優しそうなので、嫌な感じは全くしない。
「其れでは、上野から此方に御住まいを移されたという事でしょうか」
「おう、実家ぁ上野の、今は区役所になってる場所の近くだったんだが、隅田川の辺りは空襲が酷くてよ。一九八六年にゃ慰霊碑が建ったくらいのもんで。覚えてるだろ?」
東京大空襲ですね、と紳士が相槌を打ってくれると、伊蔵は尚も身の上話を続けた。
「おう、俺ぁ、生まれた年も関東大震災の二年後で、実家の周りぁ滅茶苦茶になったらしいんだが、二十二歳で江田島の士官学校に居た時に戦争が終わっちまって、帰って来た時は焼け野原でな。俺ぁ七人兄弟の次男坊だったんだが、縁者も全部おっ死んじまってて。上の兄貴も戦死しちまってて、実家の近所に住んでた兄貴の嫁さんやら俺の甥っ子なんかの家も、骨も出ねぇくらい焼けててよ。途方に暮れて、友達頼ったのさね。江田島の士官学校で出来た友達が立川に居たもんでな。そいつ等を頼って来ちまった。立川ぁ飛行場も在ったから、此処いら辺も、そんなに無事ってぇ訳でも無かったが、知り合いが居ただけマシさね。あれから豪い苦労したが、昔の上司の縁で国鉄の社員になって、最後は三鷹駅勤務だったよ。おっと、今はジャパンレールでJRだな」
成る程、と紳士は言った。
「こんな時に御会いするのも何かの御縁でしょうね。此れから向かうのも、鹿児島の親戚が移り住んでいる家なので」
ほぉ、立川に親戚かい、と、伊蔵も嬉しそうに言った。
「そりゃ奇遇だったな。其の親戚の家に、態々。此の寒いのにねぇ、御供も付けず」
「…昨年の秋に妹が急逝しまして。形見分けの品を届けたくて。こういう事は、代理ではなく、直接伝えたかったもので」
そりゃ悪い事を聞いたな、と、伊蔵が申し訳なさそうに言うと、いいえ、と言って、紳士は再び微笑んだ。
燐子は、紳士の黒っぽい着流し姿を、弔意と受け取った。
自分の他にも不慮の事態に遭遇した他人が居て、自分の隣に座っている事に対して親近感を覚えた燐子は、不思議と落ち着いた気分になった。
気分転換としては成功した、と思い、紳士の美しい横顔を盗み見ながら、嫌いな味の飴を、黙って、口の中で舐め続けていた。
「あの…妹様というのは、もしかして、ピアニストの坂本由里さんですか?」
運転手が再び、恐縮そうに言った。
伊蔵が、へぇ、と言った。
紘一は意外そうに、皆さん御存知でしたか、と言った。
そりゃね、と伊蔵は言った。
「俺等の時代で、日本人で世界ツアー出来るくらいのピアニストっていったらよ。有名さね。うちの娘はレコード持ってたんじゃなかったかな?そうかい、坂本自動車の御嬢さんだったかい。豪い美人だったが。言われりゃ似てない事も無いな」
其れは有難う御座います、と言って、紳士は、微笑みながら、抱えていた風呂敷包みを優しく撫でた。燐子は、嫌な気持ちで、飴をガリリと噛んだ。伊蔵がアップグランドピアノを買ってやり、ピアノを習わせて、短大に通わせた、日本人ピアニストのレコードを持っていた其の娘というのは自分の母の華織で、残念ながら家を出て行った。
燐子の中で、段々華織が架空の存在になっていく。
絵本の中の存在と変わらないのだ。
だから、今、かぐや姫の事を思い出しても仕方が無い程度には思い出したくない。
―ふん、嫌な味の飴。大きくて、全然無くなりやしない。
しかし燐子の嫌な気分は、紳士が解いて見せてくれた風呂敷包みの中身を見るや吹き飛んだ。
風呂敷包みの中に入っていたのは、天鵞絨の張られた箱に入った、大きなルビーのアクセサリーだったのだ。
其のあまりの見事さに、燐子は目を剥いた。
「坂本さんよ、そんなもん、他人に見せちゃなんねぇ。どうせ本物なんだろ?」
危ねぇなぁ、と、伊蔵が焦った声で言って、慌てて横から風呂敷を被せた。
運転席からは見えなかったらしく、運転手は、え?と言った。
おやおや、と言って笑いながらアクセサリーを仕舞う紳士に、信用してくれるのは有り難いが、と伊蔵は言った。
「不用心だろ、流石に。御抱えの運転手くらい居るだろうに。そんなもん、手で持って一人で公共交通機関利用たぁ、失くされても取られても、電車側は責任負えんぜ?」
俺がタクシー止めて正解だよ、と言う伊蔵に対し、紳士は明るく、ははは、と笑った。
「うちの弟にも同じ事を言われそうですね。独断で来てしまいましたが」
「いや、相談してやんなよ。大体、形見分けで譲られても、吃驚すんじゃねぇか?其れ」
「そうかもしれません。いえ、此の、妹の誕生石の髪飾りを形見分けする事自体は弟の提案で、御忍びは独断という訳で。諸事情で、公に訪問して、騒ぎにしたくないもので」
「…まぁ、あんたの素性と荷物の中身を知ったら、分からんでもないな。俺の知ってる限りじゃ、家の前に高級車で乗り付けられ平気な豪邸は近所には無ぇしよ」
「そう、昔、家の茶畑の近くに乗り付けて迷惑を掛けてしまった事も有りました。今となっては懐かしい話ですが。其の時は未だ親戚も御茶農家で。御近所大騒ぎになって」
「…御茶農家やってた親戚に、ルビーなぁ。えっと、誕生石ならルビーなの、ってか」
「ああ、そんな歌、在りましたね。あれでは八月になってましたが。実際のところ、妹は七月生まれです」
「へぇ、此の孫も七月生まれさね。これまた妙な縁が有ったもんだ」
「おやおや、そうでしたか」
クスッと笑いながら俯く紳士に、運転手が、弟さんってまさか、と小さい声で言った。
「ああ、御察しの通り、現社長の坂本彰二の事です。御若いのに、感心にも、随分御詳しくていらっしゃる。…其の社長がね、妹思いで。…あの子の嫁ぎ先のドイツまで葬儀に駆け付けて参列して、こういう形見を色々と持って、帰って来てくれて以来、かなりの間塞いでいる、という次第で。だから自分が。…何せ、去年の九月十九日に急に蜘蛛膜下出血で亡くなったものだから、心の準備が出来ていなかったのでしょう。未だ五十六で」
紳士が、そう言い終わるか言い終わらないかのうちに、悪い事聞いたなぁ、と言って伊蔵が泣き始めたので、車内の全員が、一瞬、ギョッとした顔をして伊蔵を見た。
運転手は慌てて前を見たが、燐子は其の儘伊蔵の方を見詰め続けた。
「俺もなぁ、連れ合いが五十六だった時に、蜘蛛膜下出血で亡くしちまって。此の子が小学三年生だったから、もう六年になるが、急だったなぁ。未だ定年前だったせいも有るが、普段から頭痛持ちだってんで、たいして気にも留めてなくて、気付いてやれなかった。…あれから、同居してた一人娘…此の子の母親なんだが…、娘も様子が変わっちまった」
「そうでしたか」
燐子は、伊蔵の様子を見て泣いた。祖母の死も悲しかったが、伊蔵が、燐子の両親たちの振る舞いに心を痛めている事を再認識し、泣けて仕方が無かった。
しかし紳士は、泣いている伊蔵に対して、淡々と、こんな御縁もあるのですね、と言った。
「奇妙な符号の連続は、もう偶然では御座いますまい。此れにも意味が有るのでしょう。何か御力添え出来る事は有りませんか?」
「…信用出来る不動産を紹介してほしい。持ち家を売りたい。土地付きの戸建てだ。後は、信頼出来る弁護士も」
燐子は、伊蔵の言葉に、ハッとして顔を上げた。と、申されますと?と紳士は言った。
「駅と病院と図書館が近いと聞けば、立地としても申し分ないとは思いますから、其の点は御力添え出来るとは存じますが」
「ああ、学校も近いよ。昔からの友達も居るし、小学生だった娘の為に、便が良いからって選んだ土地だからな。中央病院の近くともなりゃ、少し高台で、そんなに多摩川も近くねぇから、水害にも遭い難い。築二十四年だから上物にゃ価値は無いだろうが、今のうちに土地を売って金にしたい。俺ぁ、此の孫を育てたい。今年高校受験なんだ、其れなのに、可哀想に、年金受給者の俺しか、もう傍に居て遣れねぇんだよ。此の子が何したってんだ。別に、大きな家ぁ要らん。安アパートで充分さね。欲しいのは此の子の為の金だ」
祖父の覚悟の言葉を聞いた燐子は顔を両手で覆い、更に泣いた。
―おじいちゃん、あたしの為に、あの家売っちゃうんだ。あたしが生まれ育った家を。
「事情が御有りの様ですね。詮索は致しません、御用立てしましょう」
紳士の淡々とした口調に慣れたのか、寧ろ何故か落ち着くものを感じた燐子は、顔を上げて、其の精悍な顔を見た。有難うよ、と言って伊蔵は涙を拭った。
「安心した。お、そろそろ改元かな。運転手さん、ラジオを付けてくれないか」
黙って話を聞いていたらしい運転手は、慌てた様に、はい、と言って、ラジオのニュースを付けてくれた。ラジオは、ガサガサ音をさせながらニュースにチューニングされた。
一九八六年 一月七日 十四時三十六分。
「新しい元号は『へいせい』であります」
ラジオのニュースは、続け様に、新しい元号、とやらの漢字の説明をし始めた。
「お、官房長官が発表。平和に成る、みたいな字かね?ま、戦争は起こらなさそうだな」
伊蔵が宙に指で漢字を書きながら、そう言うと、其れは良いですねぇ、と運転手が言った。しかし紳士は、『淡路』か、と呟くなり、渋面を作って俯いてしまった。
燐子は驚いて、思わず、あわじ?と問い返してしまった。
紳士は燐子に向かって微笑んで、言った。
「ああ、御嬢さん。御若い方は御存じ無いかな。大正のへそ、日本のへそ、と言えば淡路でしたよ。『子午線』も有りますしね…」
「しごせん?」
こりゃ、と伊蔵が言った。
「御前、もう少しは勉強せいよ。日本のへそだよ。なぁ坂元さん、淡路が如何したね」
「ああ、淳仁天皇を御存じですか?藺牟田さん」
そりゃな、と言って伊蔵は笑った。
「御名前だけだが。俺等の頃は、教育勅語と歴代天皇名は、尋常小学校の頃から丸暗記させたからな。今でも言えるぜ、神武、綏靖、安寧、懿徳…」
「そう。明治三年に、明治天皇から弘文天皇と仲恭天皇と共に諡号を贈られた御方です」
分からないな、と思って、燐子は尋ねた。
「えっと、今は、へいせい、天皇、になったって事ですか?」
おいおい、と伊蔵が言った。
「不敬だぞ。諡ってなぁ『死後に呼ばれる名前』だぞ。天皇陛下の御世の元号と天皇という呼称と合わせて呼ぶ奴が有るか。亡くなられて初めて『昭和天皇』という風に御呼び出来るんだぞ。亡くなる前は、そう称された事は無い筈だ。せめて今上天皇とか、今上陛下だろが」
今の御若い方は御存じ無いかもしれませんよ、と紳士は言った。
「ですが、日本というのは言霊の国ですから。今は『平成宮御宇天皇之世』だと国民が考え、口にしていく事で、其の様になっていくかもしれません」
難しい事言うねぇ、と、伊蔵が不思議そうに聞き返したところで、タクシーは諏訪神社の前に着いた。
おう、此の辺で良いや、と伊蔵が言うので、運転手は後部座席のドアを開けてくれた。
後部座席の三人は、燐子から順に、一度、諏訪神社と書かれている、大きな石碑の前で降りた。
伊蔵はビシッと敬礼して言った。
「坂本さん、色々と有難うな。タクシー代だけでも、俺が出すよ。不動産屋や弁護士の仲介もしてほしいし、御礼だ」
いえ、と言って、微笑みながら、紳士は、伊蔵の腕から、新聞紙に包まれた焼き芋を、そっと取り上げた。
「代わりに此方を頂いて宜しいですか?親戚の好物なので」
伊蔵はニヤッと笑って、鯛焼きも付けようか?と言ったが、紳士は、クスッと笑って、いいえ、と言った。
「其方は御孫さんと御召し上がりください」
紳士は、焼き芋の包まれた新聞紙の端を破ると、懐から取り出した高級そうな万年筆で何事かを書き付けると、伊蔵に手渡した。
「此方に御連絡ください。其れでは、また」
伊蔵は、連絡先が書かれているらしい其の紙切れを見ながら、流石に高級住宅街だな、と言って笑った。
紳士は一瞬、妖艶に見える程美しい微笑みを浮かべて、タクシーの後部座席に座り、ルビーの髪飾りと焼き芋と共に去った。
粋じゃねぇか、と、去るタクシーの車体を見ながら、伊蔵は楽しそうに言った。
燐子は伊蔵に、此の家を売るのかとは問えなかった。
こうして、燐子の平成は、親の破産宣告と蒸発、嫌いな飴の味で始まった。
一九九一年
五月 雲仙普賢岳に異変。
六月フィリピン・ピナトゥボ火山噴火。
六月三日 雲仙普賢岳火砕流。
『瀬原集落聞書』シリーズです。戦時中の話が長くなりそうで、平成初期の話から書くことにしました。