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その翼は誰がために Rites of Maiden  作者: 雨宮 桜花
1章 羽振の乙女達
9/12

9.詩乃

 悧奈のスマートフォンが通知を知らせる相手は限られていたから、メッセージの送り先に意外性は感じなかった。ただ、通知画面に出た文面を一瞥すると、悧奈は困惑と呆れを表情で半々に混ぜ合わせた。

「志沢君?」

「ああ、先生。従姉(あね)からで」

 よほど怪訝な顔をしていたのか、悧奈はぼんやりと尋ねてきた井上先生に応えると、脳裏のメモへ予定を書き付けた。あまり詩乃を一人にするのは忍びないのだが、無碍にするわけにも行かなかった。ともかく彼女を心配させる前に、悧奈はスマートフォンを素早く仕舞い込んだ。

「……りな」

「詩乃?」

 それでも鈴の鳴るような声に名前を呼ばれて、気遣わせたかと思いながら詩乃に向き直ると、彼女は机にカップを置いて、こちらを見上げた。

「……その。帰らなくて、だいじょうぶ?」

「ああ、うん……。詩乃は、もういいの」

「うん。おむかえ、来てくれたから」

 園の生徒達には仲間内でいくつか不文律があるらしく、そのひとつは保護者が迎えに来た生徒を無理に引き留めない、というものだった。生徒達がそれぞれに事情や用事があることを知っているために、この不文律はかなり厳格だった。詩乃がそう問いかけたのも、そんな理由があってのことだろう。悧奈の予定は、先程連絡があった夜までは空いていたし、夕食や入浴の支度はしなくてはならないとしても、それらはもう少し遅い時間帯からで良かった。だから今すぐ無理に帰ることもないと思って問いかけたのだが、詩乃はこくんと首を縦に振る。

「そう。では先生、お先に」

「ああ、また明日。志沢君、詩乃君」

「うん。さようなら、いのうえ先生」

 この場の誰もが園の不文律には通じていたから、多くを語らずともコミュニケーションは円滑だった。学校との両立もあって、園までは頻繁に顔を出せない美典は、少々残念そうに手を振る。

「みのり、さんも。さようなら」

「さようなら、詩乃ちゃん。またね」

「うん」

 羽振の校内では冷静というか、むしろ無愛想な一面が強いのだが、こうして読み聞かせや学習の手伝いをしに来るくらいなのだから、彼女も小さな子供には甘いのだろう。意外と幼稚園や保育園の保母さんが似合うかもしれないと、悧奈は余計な想像を思い浮かべる。

 荷物を置いてきた悧奈は身体ひとつで身軽だったが、詩乃は昼間に使った教科書やノートを仕舞ったリュックサックを取りに、一度建物に入っていく。彼女が戻るまでの僅かな時間、美典は思い出したように唐突な話題を振った。

「もし良かったら。撮った写真、見せて欲しいのだけれど」

「……ああ」

 転換が突然すぎて、悧奈は思わず肩を竦める。特に隠してもいないし、美典の口の堅さに信用はあったものの、それほど興味を持たれること自体が意外だった。

「……帰って覚えていたら、送るわ」

「ええ、大丈夫。ありがとう」

 しばらくもしないうちに、ぱたぱたと軽い足音を立てて詩乃が戻って自分の靴を履き直す傍らで、悧奈も無造作に焦茶色のローファーへ爪先を差し入れた。靴を履くと、詩乃の手を繋いで、空いた腕を軽く掲げた。

「また明日、志沢さん」

「藤崎さんも」

 簡単な別れの挨拶を済ませて、悧奈は詩乃に合わせて帰路を辿る。悧奈が詩乃と似たような年頃、つまり小学生の半ばあたりでは相応に騒がしい子供だったと思うのだが、詩乃はひどく物静かで無口だった。悧奈からの言葉にはふたことみこと応えてくれるのだが、自分から何かを話すことは珍しかった。今日も多分に漏れず、悧奈から話しかけた。

「……夜、少し留守にするけれど。お風呂に入ったら、先に寝て構わないから」

「うん」

「晩ご飯。何にしようか……」

 変哲もない住宅地の中を通る帰り道は、すっかり歩き慣れている。短い道すがら、途切れ途切れに話しながら、二人は黄金色に染まり始めた西日に目を細めた。

 アパートに戻ったとき、ダイニングの壁に掛けた時計は五時前を指していた。それぞれ手を洗ってから、悧奈は奥の寝室で制服からもう少し気楽な格好、襟を省いたVネックの黒いブラウスとスキニージーンズに替えた。

 リビングに戻ると、先に詩乃が鞄から教科書やノート、筆記用具をローテーブルに広げていた。悧奈はそれを傍目にキッチンに立ち、夕食の算段をする。いくらか悩みながら、その日の献立は生姜焼き、レタスとセロリのサラダ、味噌汁に決めた。料理の腕は世辞にも巧くはないが、もともと物を作るのは好きな性質だったし、これぐらいなら悧奈の手にも負えた。

 手を動かしながらダイニングを窺うと、日中の復習だろうか、詩乃はノートを広げて何かを書き写している。思わず同じ頃の自分を省みて、悧奈は苦笑を浮かべてしまう。帰ってからは何を間違えても宿題をこなす気にはなれなかったし、今ぐらいの時間に流れるテレビ番組を良く見ていた覚えがある。とはいえ、前者はともかく、後者を詩乃が好まない理由は知っている。外部からの刺激に過敏な傾向を持つ詩乃は、テレビを見ることを好まないからだった。過去はともかく現在は悧奈も時折音楽番組を見る程度で、テレビからは離れていたから、リビングの隅にある機械に電源を入れることは少なかった。

 しばらくして最初に仕掛けておいた炊飯器がアラームを鳴らすと、悧奈は食器を揃えて簡単に盛り付け、急須でお茶を淹れた。それらを片端からダイニングテーブルに持って行くと、詩乃がノートを閉じて悧奈の方へと立った。

「りな」

「詩乃?」

「なにか、お手伝い……」

「それなら……、お箸と湯呑みをお願い」

 慌ただしくしていたから、詩乃も落ち着かなくなったのだろう。そのように頼むと、彼女はこくりと頷いてキッチンに向かった。悧奈はと言えば、とりあえず手にしていた味噌汁のお椀を置いてから、食卓の配膳を整える。

「頂きます」

 一通りの作業が済むと、二人はテーブルに就いて手を重ねる。悧奈は改めて食卓を眺めると、それなりに上手く仕上がったことに満足して生姜焼きに箸を伸ばす。向かいの詩乃も少しずつ箸を進めるのを見て、少しばかり安心もした。彼女の食が細いのは知っていたから、悧奈としてはせめて食事を楽しんで欲しかった。

「……美味しい?」

「うん、おいしい……」

「良かった」

 だから、詩乃の言葉には自然と微笑みが浮かぶ。普段は食べ切れずに残ることも多いのだが、今日はよく動いたのか、皿の上から料理は綺麗に無くなった。

「ごちそう、さま」

「ええ、ごちそうさまでした」

 箸を置いてもう一度手を重ねると、手分けして使った食器をシンクまで下げる。それから食休みと思って悧奈が奥のソファに座り込むと、詩乃もその隣にちょこんと収まった。

「……何か見る?」

「……うぅん」

 一応、テーブルの端が定位置になったリモコンを引き寄せたのだが、詩乃は小さく首をった。何か目的があったわけではないから、テーブルの定位置にリモコンを戻す。

 詩乃がもたれかかって、悧奈は脇腹に小さな温もりを感じた。これくらいの年頃では、まだ人肌が恋しいのだろうか。多少、くすぐったくはあるものの、不思議と悪い気はしなかった。手を繋いで、身体を背もたれに深く預ける。沈黙は苦にならなかったから、心地良い時間だった。

 思えば、幼かった悧奈は誰かと触れ合った記憶がほとんど無かった。そんな記憶に対して、ごく僅かな例外であった従姉のことを思い返すと、隣の詩乃に悟られない程度に息を吐いた。本当に、こんな夜遅くに、何の用事なのだろうか。心地良さと若干の気怠さに飽かせて、漫然と時間を過ごしていたのだが、用事を思い出すと悧奈は嫌々ながら時計に目を向けた。出かける頃合いを考えると、そろそろ詩乃の入浴を用意しなくてはいけないことに気づいて、名残惜しさからもう一度、溜息を吐いた。

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