6.昼休み
「……ああ、そういえば」
「どうしたの、紫苑」
「放課後、さ。空いてる……?」
半分ほどなくなったパニーニを片手に、紫苑がふと思い出したようにそんなことを口にした。相変わらずストローで紅茶を啜っている明香と、メロンパンにかぶりついている楓花を除いた三人は、不思議そうな視線を彼女に向ける。
「何かあった?」
「大したことじゃないけど。明香と、自主練の約束をしたから。美典もどうかな、と」
「ああ、そういう。楓花も?」
「うん。どうせ暇だから」
とはいえ、美典はすぐに事の次第を察したらしかった。一方で雪華は話題に置いて行かれてしまい、怜と顔を見合わせる。怜もはっきりとは飲み込めていないようで、怪訝そうな様子だった。
「えっと……?」
つまり何をするのかという点で雪華と同じような疑問を、怜も持ったらしい。彼女が問いかけるような視線を紫苑に向けると、紫苑は少し慌てながら補足を加える。
「ああ、ごめんね。今日、魔術の授業があったでしょう」
「え、ええ」
「あれで、飛行の練習をしたわけだけど。あれのおさらい、と言ったらいいのかな」
「……つまり、飛ぶってこと?」
「うん。そんな派手なことは、しないつもりだけど……」
先の授業という言葉だけで、怜の目つきが険しくなったように見えたのは、雪華の錯覚ではないだろう。紫苑も気圧されたのか、徐々に声音が小さくなっていた。最も、怜が次のリアクションを取る前に、どこからか聞きつけたらしい闖入者が口を挟んだのだが。
「あら。それはまた、楽しそうな」
「……瑞樹ちゃん」
「ええ。ご機嫌よう、皆様」
いかにも淑やかな微笑みを浮かべながらも、他人をからかいでもするように神出鬼没の彼女を猫のように感じるのは自分だけだろうか。そう思いつつ雪華が振り向くと、瑞樹は両手を怜の肩口に添えながら、頭に自分の胸を載せていた。瑞樹が軽く体重をかけているせいだろう、怜の姿勢は僅かながら前屈みになっている。
「ええと、瑞樹ちゃん……」
「お構いなく、花厳さん」
「……そうじゃなくて。重いんだけれど」
怜は戸惑いながら瑞樹に声をかけるのだが、当の彼女は素知らぬふりを通していた。少なくとも、さっきまでの怜の剣呑な表情は見る影もなくなっている。振り向きようのない怜を除いて、さすがに驚いたような視線が集中するのだが、瑞樹は全く臆したように見えなかった。
「良ければ。私も混ぜて頂けると」
「私は、構わないんだけど。明香は?」
「別に。お好きなように……?」
紫苑も対応に困ったのか、明香へそう問いかける。困惑しきった紫苑に比べれば、まだ明香は平静な様子だったが、僅かばかり間があったようなのは、気にしすぎだろうか。瑞樹はそれに気づいたのか気づいていないのか、相変わらず笑みを浮かべている。
「ありがとうございます。そういえば……、花厳さんと篠宮さんも、来られるのですか?」
「うん。私はそのつもり。怜は?」
「……ゆ、雪華」
話がこちらに移ると、雪華は瑞樹と怜の方に顔を向けた。紫苑の提案は急な話だったが、それでも魅力的ではあった。どのみち、練習するにしても一人では危険すぎて、勝手に飛ぶわけにもいかなかった。それに、紫苑や明香のように慣れた人間が手本を見せてくれるだけでも、見に行くだけの価値はありそうだった。
とはいえ、怜は落ち着かないのだろう。いかにも楽しげな瑞樹とは対照的なほど、眉根を寄せて渋るような表情を浮かべた。それを察し取ったのか、瑞樹はすかさず怜の耳元に口を寄せる。
「花厳さん」
「……ちょ、ちょっと」
「……ということで。しっかりおさらいしなくては」
「う、うん……?」
わざわざ雪華とは反対側で交わされた会話を、聞き取るすべはなかったものの、怜が頬を真っ赤にしたのは明らかだった。
「で、どう。美典……」
一方で瑞樹の関心が怜に向くと、紫苑は改めて美典の方を見た。ちょうど弁当を食べ終えて、水筒からお茶を飲んでいた彼女は、さっきの怜にも劣らず渋い表情だった。もちろん、それは恐怖心からではなかった。
「飛びたいのは、確かなんけれど。今日は用事があって」
「……そっか」
「また誘って、紫苑」
「もちろん。そうする」
一度流れができてしまえば、とりとめのない会話は意外と続くものだった。
「……え、もうこんな時間?」
「そうみたいね」
気づけば昼休みの終わりを告げる予鈴が、教室に鳴り響いていた。教室への出入りがやにわに慌ただしくなると、楓花はいかにももの寂しそうな声を漏らした。誰にも増して彼女が賑やかだったせいか、紫苑は少しばかり肩を竦めると、やにわに立ち上がって軽く手を叩く。
「さて。とりあえず放課後、ここまで。取りに帰るの面倒だから、鞄は持ってきて」
それを合図としたように、それぞれ席を立って授業に備える。自席にいる明香が、見送るようにひらひらと手を振っていたのを見て、雪華は軽く手を挙げた。
「雪華?」
「ううん。何でもない」
前を行っていた怜はそれに気づかなかったのか、不思議そうに振り返る。手を振っている間に少し遅れた雪華は、彼女の側へと並んだ。
「そう言えば、怜」
「ん……?」
「瑞樹さんと。何かあったの……?」
わりあいに社交的というか、怜が人当たりの悪い方ではないことは、雪華も良く知っていた。しかしながら、面識の程も知れているはずの彼女と、短い期間であれだけの仲になっていたのは少し意外なようにも感じられた。怜にも思うところはあるのか、苦笑を漏らす。
「これってほどもないけど、不思議な人だよね。物怖じしない、というか……」
「そう、なんだ」
「うん。授業の前、雪華を待ってた時も。少し、びっくりしたくらい」
もっとも、雪華も瑞樹に対して、悪くは思わなかった。できればもう少し、二人で話していたかったのだが、様子を見る限り、それほどの時間は残っていなさそうだった。
「じゃあ、次の時間に」
「うん」
教壇に次の授業を担当する教師が立つと、雪華は怜と別れて席に滑り込んだ。午後の授業は強化ガラスを通して、教室にも燦々と降り注ぐ陽光のせいか、あるいは食後に特有の気怠さのためか、どことなく物憂げな空気のうちに流れていった。授業の内容をノートに書き留める合間に、隣で舟を漕ぎ始めた栞奈の肩を軽く揺すっていると、午後の日差しが視界に飛び込む。
ガラスを隔てても衰えることのない陽光の眩しさから、雪華は思わず目を細めた。体質のせいで幼い頃から強い光がひどく眩しく見えるのだが、これだけ明るければよく晴れていることだろうと、ふと思い浮かぶ。約束したときから空模様は懸念していたのだが、得てして崩れやすい春の天候も、今日に限ってはそのような素振りは見えない。
そんな具合で意識が他のことに向いていたせいか、授業の記憶はどことなく曖昧だった。終礼のホームルームが済んでから荷物を鞄にしまうとき、後からノートを見返して内容を思い出せるだろうかと訝しんだ。ともかく雪華がスクールバッグを肩に掛けた一方で、隣の栞奈はいかにも精彩を欠いた仕草で、まだ鞄に荷物を押し込んでいた。彼女の大きな黒い瞳は、早くも朝の快活さを使い切ったように眠たそうだったが、雪華が帰ろうとしているのには気づいたらしい。
「ん、と、ゆきちゃん。それじゃ、また明日……」
「また明日、栞奈ちゃん。早めに寝た方がいいよ……?」
「ん、そうする……」
いかにも気怠そうに腕を振る栞奈を後に置いて、雪華は怜と合流してから、昼休みの約束通り紫苑の席に集まった。既に残りの面々も集まっていて、紫苑はぐるりと全員を一瞥すると、事もなげに言った。
「それじゃ、行きましょうか」