5.ゆらぎ
地面に降り立ったとき、雪華は全身が沸き立つような高揚感に包まれていた。風は冷たかったが、指先の冷えすら感じないほど身体は滾っていた。飛ぶこと自体は明香の背を追うだけでも一苦労ではあったが、風を切って空を駆けることは総じて、雪華が当初思っていたよりも遙かに楽しい体験だった。
それでも慣れないことに集中したせいか、地面を踏んでいるはずなのに視界が揺らいだ。思った以上に気力を使ったのか、まるで立眩みを起こしたような感覚だった。
「雪華」
すぐさま雪華の元に駆け寄ってきた怜の声は、今にも泣き出してしまいそうなほど震えていた。息苦しいほど力強く抱擁されると、雪華は逆らわずに身体を預ける。
「……見てて、怖かった」
「大丈夫、怜」
わざわざ聞くまでもなく、怜を不安がらせたのは明らかだった。そう言われてしまえば返す言葉もなく、靄のかかった意識では適当な文句も思い浮かばなかった。
恐らく、頃合を計って瑞樹が怜の肩を叩かなければ、授業の間ずっと抱きしめられていたかもしれなかった。瑞樹に促された怜から渋々解放されると、その隣に控えていた優からも、やんわりと注意を受けた。
「というわけで、無茶はしないように。あと、篠宮さん」
「はい。……先生?」
立眩みを堪えていると、最後に優が何かを差し出した。特に何も考えずに受け取った手のひらには、小さな包みが乗っていた。透明な包装に入った黄色いものは、どう見ても飴玉だった。
「ちょっときついようなら、少し休んでくださいね」
最後にそう言い残すと、困惑する雪華を後に置いて、優は別の生徒の元に向かっていった。思わぬものを渡されて、食べて良いものだろうかとぼんやり悩んでいるうちに、一足先に降りていた明香が落ち合った。
「雪華さん」
「……明香さん?」
「食べた方がいいよ。少し楽になる」
「……うん」
相変わらず要領は得ないものの、雪華は言われるまま封を破って口に入れた。すぐにパイナップルの甘酸っぱい味が広がり、視界のふらつきが落ち着いたように感じた。不思議そうな雪華の視線を酌んだのか、あるいは退屈しのぎなのか、明香は小さく肩を竦める。
「個人差はあるけれど、極端な加減速をやると反動が強く出るから。私が言えた義理ではないけど、必要なければ無理な飛び方をしない方がいい」
「……これ、Gとかじゃなくて?」
「加速度なら、飛んでいるうちに来るはずだから。降りてからラグがあれば、反動による消耗のせい」
話を聞きながら雪華が飴玉を舌先で転がすうちに、明香はふと思い出したように苦笑を浮かべた。手荒な肩慣らしを先導した彼女は、雪華より先に優のお小言を貰っているはずだった。
「この後は……?」
「皆の爪先が地面を離れるまでは、しばらくさっきと同じ。さすがに二回目は本気で怒られるから」
「分かった。……そうだね」
「しばらく、食べ終わるまではゆっくりしていて。雪華さんには、どちらにせよ退屈かもしれないけれど……」
明香の言う通り飴玉を食べ終えてから、雪華は地道な離昇と降着を繰り返すことで時間を費やした。身体が馴染む分には意義もあるだろうが、些か単調に過ぎる練習だった。そんな動作を、初経験のクラスメートもどうにか習得した授業の終盤には、ようやくグラウンド上をゆっくりと低く飛ぶ機会が生まれた。
初めて飛ぶ生徒の黄色い悲鳴には事欠かなかった。大抵は手慣れた生徒が手を取っているか、少なくともすぐ側にはいるのだが、それまで想像の範疇にしかなかった行為に恐れを抱くのは常識的な反応だろう。
「大丈夫?」
「うん」
体面のためか、それとも単に気遣いなのか、明香も手を差し出してはくれたのだが、雪華は小さく首を振った。何も恐ろしいとは雪華も思わなかったし、明香も似たような印象を持ったのだろう、無理に手出しをすることはなかった。
確かに、自由に飛べないのは少しばかり退屈だった。殊に、あれだけ爽快な飛行の経験を得てしまった後ではそうだった。授業が終わる頃には明香が手荒な肩慣らしに出た理由も、雪華には理解に苦しむものではなかった。
とはいえ、文字通り初めての経験をした少女達の興奮は、そんな程度で冷めるものではない。教室に戻ってから着替えの最中は言うまでもなく、その後の休憩時間でも、会話の内容は授業の内容で持ちきりだった。少なくとも予期せず目立ってしまった雪華には、あまり嬉しいことではなかった。よほど惹かれるものがあったのか、初めての経験となったクラスメートからは憧憬の眼差しが向けられた。反対に多少でも予科にいたクラスメイトは同情とも憐憫とも言いがたい、微妙な視線を寄越してくるせいで何とも落ち着かなかった。
「雪華ちゃん」
浮ついた空気に居心地の悪さを感じながら、昼休み前の授業が終わると、机の上を片付けていた雪華の元に紫苑が訪れた。怜もその後ろをついてきていたのだが、どことなく気まずそうにも見えるのは、気のせいだろうか。
「お昼、買いに行きましょ」
「う、うん。楓花ちゃんは?」
「喋ってるから置いてきた。そのうち来るでしょ」
「そ、そっか……」
「さて、二人とも。行くよ?」
「ええ」
「うん」
それだけに、紫苑の普段と変わらない、飄々とした振る舞いは有難かった。文字通り何事もなかったような口ぶりに、雪華も席を立ちながら思わず笑みが漏れる。
三人が連れ立って一階に降りると、登下校時には必ず通る、校舎中央のエントランスホールに出た。左右に広がる校舎のうち、西棟は学生以外にも利用されることのある小規模なホールや会議室に、反対の東棟は学校食堂と購買に充てられていた。雪華達も用事があるのは、当然ながら東棟の食堂と購買だった。
学校の設置数が限られる魔術学校では、必然的に親元を離れて暮らすケースが多いうえ、学校給食もないから、生徒数の割に食堂や購買の規模は大きかった。それでも人数が集中する時間帯は、どこでも混雑するものだった。
紫苑に続いて入った購買は、コンビニから雑誌や日用品のコーナーを省いて、一回り小さくしたような場所だった。昼食は始業前に学院の外で買って持ち込むこともできるから食堂よりも混雑のほどは知れているものの、頻繁に通りかかる生徒や教職員を避けることにはなる。弁当も並んでいるのだが、三人は学校近くのベーカリーが作る、種々のパンが陳列された棚を物色する。パンは既にビニールや紙袋で包装されているから、めいめいで好きなものを取ってレジで精算をすれば良いのだが、紫苑は迷う様子もなく昨日と同じ包みを手に取っていた。
「紫苑ちゃん、……昨日もそれだったよね?」
「いいじゃない。美味しいよパニーニ」
「私もそれにしようかな。紫苑ちゃん、もうひとつお願い」
「はいはい、怜ちゃん」
「怜まで……。これにしよう」
それぞれパンの包みと飲み物を選ぶと、なるべく手早くレジで精算を済ませた。紫苑は明らかに二人分の量を抱えていたが、その理由はすぐに分かった。人混みから抜けてエントランスに出ると、楓花が階段を降りてこちらに向かって来るのが見えた。紫苑はそれを待っていたように、笑いながらレジ袋を突き出す。
「楓花」
「あ、みんな。先、行ってたんだ」
「ええ。これお昼」
「……ありがと、紫苑」
無駄足になったからか、何とも言えない顔で紫苑からレジ袋を受け取る楓花の表情が少しおかしく、雪華と怜は互いに顔を見合わせて笑みを漏らした。そうして四人で二階の教室に戻ると、食堂や他の場所で食事を取る生徒が多いためか、教室は既にどことなく閑散としていた。普通の学校より生徒こそ少ないとはいえ、年頃の少女達ばかりなのだから、もう少し賑やかでも不思議ではないと思うのだが、案外こうしたものなのだろう。
自席に座った明香が紙パックに入った紅茶をストローで飲んでいる傍ら、美典が持参の弁当を広げ、特に喋ることもなく二人で昼食を取っている。紫苑を先頭にして雪華達が入ってくると、二人がちらりと視線を寄越した。それに応じるように、紫苑は僅かに肩を竦める。
「静かなのは、いつものことだけど。なんというか」
「……まあ、習慣だから」
「それもそうか。座っても?」
「適当にどうぞ。みんなも」
「じゃあ、遠慮なく」
「ええ」
美典が言うように適当に近くの椅子を借りると、紫苑は手頃な机にさっき買ってきたばかりの食事と飲み物を並べる。雪華達もそれに習い、昼食を摂ることにした。