2.羽振女学院
羽振女学院が所在する羽振台は、府県境に近い丘陵地を切り拓いて建設されたニュータウンのひとつだった。羽振台はニュータウンでも学校や研究施設が集積する文教地区として開発が行われているだけあって、全体として若い学生が多かった。周辺の学校に通う学生寮やシェアハウス、アパートが建ち並び、登下校の時間帯になれば学生達で混雑する。その中でも特に目立つのは、やはり黒い学院の制服だった。
数日前に入学式は済み、授業も始まってはいるものの、全体としてはまだ慣れていない様子の新入生が目立っている。よく見ていると、雪華達のように高校相当の本科生以外にも、袖口に二重の白いラインを入れた制服を身につけている、まだ幼げな予科生の少女を見かけることもあった。
学院の正門に繋がる通りの歩道は、生徒が集中するこの時間ではかなり混雑している。予科から学院に通って羽振の街並みにも慣れている紫苑や楓花はもちろん、入学に合わせて羽振に引っ越してきたばかりの雪華や怜にも、道順は間違いようがなかった。何しろ通りまで出てしまえば、真っ直ぐ北の方に真新しい、強化ガラスを多用した本館校舎が見えるのだから。
開発から日にちが短いこともあって、全般的に羽振台の建物は新しいものが多いとはいえ、女学院の建物は大学のキャンパスにでも迷い込んだような印象を与える。実際、設計者は女学院の近くにある国立図書館や大学の校舎と同じらしいと、雪華は誰かから聞いた覚えがあった。
それにしてもと、校舎に入った雪華は僅かに眉を顰める。
一階ホールの吹き抜けは最上階の四階まで貫く、大胆な構造だった。外壁にガラスが多用されているのもあって、見通しや採光性では優れているのだが、雪華には目が眩んでしまうほど明るかった。
「雪華」
「ぁ、うぅん……。ありがとう」
声をかけてくれた怜の方を見ると、やはり眩しく感じるのか目を細めている。一方で前を歩く紫苑達は何でもなさそうにしているから、慣れの問題なのかもしれない。彼女が差し出してくれた手を握ると、ホール中央から真っ直ぐ上階へ伸びた階段を登る。
上空から見れば、羽振女学院の本館校舎は南を頂点としたT字形になるのだが、本科の一年生のホームルームは北棟の二階に宛がわれていた。各学年の定員は4クラス、そして1クラスは40人とされているが、一年生ではほとんどの場合、転入生に備えて定員を満たすことはなく、意図的に避けられてもいるという。だから、雪華達のホームルームである1年2組の教室も、人数の割には広く感じられた。
新学期が始まってまだ数日だからか、始業時刻にはまだ十分ばかり時間があったものの、既に主だったクラスメートは揃っていた。それぞれ思い思いの場所に単独で、あるいはグループを作る習性は、どこの学校でも変わらないものらしい。
「あ、おはよう楓花。みんなも」
「おはよーだよ、舞」
「おはよう」
雪華達が教室に入るなり、目敏く気づいたのか、明るい茶髪を肩口に揃えた小柄な少女が振り返った。立原舞と雪華は知り合って数日に過ぎないが、笑みを絶やさない快活さは、背丈が近いのもあって楓花とよく似ていた。
紫苑は挨拶と共に片手を挙げて応じると、五十音順に並んだ座席に沿って教室の奥に進んでいたのだが、途中で些か面食らう光景に足を止めた。
「ご機嫌よう」
「……ご機嫌よう、瑞樹ちゃん。京都はいつもこんな調子?」
「ええ、まあ。そういうものでは?」
「なんか、しっくりこないな。美典が素っ気なさ過ぎるからかな」
「……何よ」
「いつも通り、と言えばそうなんだけど。おはよう」
「……ええ、おはよう」
「ふふ」
軽くウェーブを持った黒髪を背中に流した少女、近衛瑞樹はいかにも良家の令嬢らしい口調で応える。とはいえ、何故か他人の机に腰掛けていては、上品な雰囲気も台無しだった。
紫苑もまだ瑞樹をよく知るわけではないが、一般の前期中等学校や、それぞれの学院に付属する予科からではなく、別の学院予科から進学する生徒は少数派だった。それも国内最古と呼ばれる、京都の白川女学院からとなれば、どうしても目立ってしまうものだが、彼女は特に気にしていないらしい。
その瑞樹に机を占拠されている方の藤崎美典は、紫苑と同じく羽振女学院の予科からの進学で、それなりに長い付き合いだった。肩口に触れる程度に黒髪を切り揃え、フレームレスの眼鏡をかけた彼女は、紫苑にも挨拶代わりに片手を少し挙げただけで、瑞樹のことを気にした風もなく読書に耽っている。最も、どちらかと言えば彼女は几帳面な質だったし、そうでない紫苑からしても、机を椅子代わりにされているのは邪魔そうにしか思えなかった。そのくせ追い払おうとしないのは、単に諦めたのか、あるいは新参者への不器用な気遣いなのか。紫苑には、というより美典以外の誰にも意図は分からなかった。
少なくとも本人が何も言わないなら、口を出すこともないだろう。紫苑はそう思うことにして片手を振ると、一足先に鞄を下ろした楓花に習って、彼女らとは少し離れた机に鞄を下ろす。紫苑の後ろでは、牟礼明香がぼんやりとした様子で、まだ新しい現代文の教科書を手繰っていた。
「おはよう、明香」
「……ああ、紫苑。おはよう」
声をかけると彼女は手を止めて応じたものの、明らかに冴えない様子だった。紫苑は多少なりとも彼女の身上を知る以上、無理もないことだと思う。明香はしばらく口籠もってから、掠れた声で応じた。
「……昨日は、ありがとう。ひとりだと厄介だったから、助かった」
「気にしないで、明香。長い付き合いなんだし」
「ええ、それでも」
「こちらこそ」
そこで彼女には珍しく、眠たげに大きな欠伸をするものだから、紫苑は不安になってしまう。
「……身体は。大丈夫?」
「寝付けなかっただけ。飛べたら、気分転換になるだろうけど」
「確か、二限目だったかな。いい加減、外に出して欲しいものだけど……。しばらく、新入りさんのお手々を引いてあげないと」
「……そう、ね」
そこで先行きを思って、どちらともなく苦笑を漏らした。魔術の習得は実践が第一と言われるものの、ごく普通の前期中等学校から羽振に入った少女達に基礎座学は安全面でも必須になる。とはいえ、先んじて魔術の学習を受けてきた予科出身者には、座学は重要とはいえ些か退屈な代物だった。
それに予科でも同様なのだが、ある程度慣れてくるまでは経験者とペアを組み、慣れてくるまでサポートする慣例になっていた。授業である以上は仕方ないことだが、しばらく自由に飛べないことは、さぞフラストレーションが溜まることだろう。そこで、紫苑はあることを思いついた。
「……今日。放課後は空いてる?」
「ええ。どうしたの」
「たまには、羽を伸ばすとしましょう」
「……文字通り、というところ?」
「もちろん」
「喜んで、紫苑」
雪華と怜は紫苑達を見送ると、少し顔を見合わせてから、それぞれの席に就くことにした。新学期に入ってまだ数日だから、席順は相変わらず五十音順なのだが、並びの偶然で同じ列の先頭と末尾に、それぞれ座席が振られてしまっていた。
「……席替え、早くしてくれればいいのに」
「隣にいないと、不安……?」
「ぅ、不安というか……。その、肌寂しい?」
「……もう」
怜はそれがよほど不服なのか、立ったまま小さく息を吐いた。もちろん雪華としても惜しくはあるのだが、揶揄い半分にそう尋ねると頬を真っ赤にして俯いた。恋する乙女を絵に描いたような表情に、雪華も落ち着かずに気恥ずかしくなってしまう。自分から振ったことだとしても、朝から堂々と惚気られては反応に困ってしまう。
それに同じくらい、彼女に名残惜しげな顔をされると離れにくいのだが、こればかりはどうしようもなかった。怜がそれとなく腰に手が回すのを、雪華は照れ隠しを兼ねてはたき落とした。
寂しいのは確かだが、何もクラスメイトに見せつけたいわけではないのだ。改めて真正面から怜の顔を覗き込むと、彼女はふいと目を逸らす。
「私のこと、抱き枕か何かだと思ってる……?」
「……そんなこと、ない、けど」
「別に、いいけれど。でも、帰るまでは、我慢してて……、ね」
「ぅ、うん……」
視線を感じて振り向くと、瑞樹がいつの間にか自分の席に戻っていた。なんとなく猫を思わせる微笑みに作為を感じるのは、考えすぎだろうか。ともかく怜と別れて教室の奥に進むと、ひとつ手前の席に、以前から雪華がよく見知ったクラスメートが、背もたれに身体を預けて座っていた。
腰に届くほどストレートに伸ばした、鴉のような濡羽色の髪には癖ひとつない。僅かに瞼を伏せて音楽を聴いているのか、腰のポケットからイヤホンのケーブルが胸元に伸びていた。時として話しかけることすら躊躇うほど、物憂げにも見える志沢悧奈の大人びた容貌は、予期せず羽振で再会しても変わらなかった。
「……おはよう、悧奈さん」
「……ええ、おはよう」
雪華はあからさまに声を潜めてしまったが、彼女も驚いたのか視線を向ける。しかし、それきり言葉が続くことはなく、互いに黙り込んでしまう。
例えば紫苑や瑞樹のように、もう少し会話を続けられれば悧奈との関係も変えられるのだろうか。雪華は小さく詰めてしまっていた息を吐き出すと、机の隣に鞄を置いて、掴み所のないクラスメイトの後ろ姿を見つめていた。
しばらくして始業前を告げる予鈴が鳴ると、立ち歩いていた生徒達も、めいめいに自分の席に就いて授業の用意を整える。その頃には現代文担当の教師が教壇に立っており、本鈴のチャイムが鳴ると共に、教師が出席を取って授業が始まる。
数日前に配られた後期中等学校向けの教科書からは、まだ刷り立てのインクの匂いがした。高校と同等の授業内容はそれなりに複雑なのだが、主要な科目では授業の形態そのものまで異なるわけではない。
しかし、後ろから教室全体を見渡すことができた雪華からは、室内は揃ってどこか落ち着かないように思えた。この後に何の授業が待っているのかを考えれば、当然のことかもしれなかった。大して代わり映えしない教室の授業ではなく、いかにも羽振らしい授業が待っているのだから。