10.瑠奈
「……せっかく、佳い夜だったのに」
「すまないね、悧奈。ひと月ぶりくらいかな」
風が通らないせいか、わざわざ待ち合わせに指定された路地の空気はどうしようもなく淀んでいた。悧奈からすれば年の離れた従姉にあたる宮津瑠奈は、そんな居心地がいいとは言えない路地で、建物の外壁に背中を預けていた。右手の指先には、火をつけたシガレットを挟んでいる。
悧奈は苛立ちを隠すことなく、背中から肩口に掛かった濡羽色の髪をかき上げた。いかにも機嫌を損ねた様子の彼女を見て、瑠奈は困ったような微笑を浮かべた。彼女の瞳も、髪色も悧奈とはよく似ていたが、髪は肩口で断ち切ってしまっている。
「……そんなところ。どうしたの、瑠奈姉さん」
「可愛い従妹の様子を見たかった、では不足だったかい?」
「こんな場所でなければ、もう少し喜んだのだけど」
「……これは手厳しい」
彼女の呼び出しに応じたのは他でもない悧奈だったが、何もこんなところで呼びつけなくとも良いだろうと思わざるを得なかった。瑠奈は笑声を漏らすと、既に半分ほどに短くなったシガレットを口元に寄せる。
「喫煙者は肩身が狭くて。街中は煙草ひとつ吸うのも不便だったから」
「……昔は、吸っていなかったのに」
「まあね。だけど、習慣になってしまうものだよ」
悧奈の知る限り彼女が煙草を吸い始めたのは、長くても連絡が途切れた頃、三年程前からに過ぎないはずだった。それだけあればヘビースモーカーになってもおかしくはないのかもしれないが、悧奈は一層渋い表情を浮かべる。そんな悧奈をよそに、瑠奈は短くなったシガレットを路上で踏み潰し、新しいものを箱から抜き出して火をつけた。新しく吐き出された煙が、路地の空気を澱のように淀ませる。
「何をしに来たとは、聞かないけれど。……まさか、本当に顔を見に来ただけ?」
「今日はね。近いうち、羽振へ来ることになったから、挨拶がてら」
「……そう」
「まあ、詩乃の事もあるけども。元気そうで何より」
「……お陰様で」
とんでもないことを言われた気がしたが、悧奈はシガレットの煙が白い靄となって視界を妨げるのを眺めて、かろうじて平静を保った。
「……姉さん。一本貰えるかしら」
「煙草?」
「ええ」
絶妙な居心地の悪さと口寂しさが相まって、悧奈は煙草を強請ることにした。脈絡のない要求に、今度は滅多なことでは動じない瑠奈が戸惑ったように見えた。それでも彼女が半分ほどに減ったマールボロの箱を差し出すと、悧奈は躊躇いなくその一本を引き抜いた。
「……悪いけど。火の持ち合わせがないわ」
「用意が悪いね。どうぞ」
「普段、吸わないから。……ありがと」
瑠奈に比べれば些かおぼつかない手つきで、煙草を咥えると借り受けたガスライターで火をつける。うまく着火すると紫煙を深く吸い込み、吐き出すように大きな溜息をついた。微かな煙草の甘さと強いタールの苦みを舌先に乗せながら、従姉に習って壁にもたれかかる。
「確か、詩乃が嫌うだろうに」
「……ええ、大っ嫌いよ。あの子は、鼻が利くもの……」
瑠奈が返したライターをポケットへしまうのを横目に、悧奈は彼女の方を見ようともせず、視線を端から燃え落ちていくシガレットの炎に落とす。瑠奈も無理に視線を合わせようとはせずに、代わりに困ったような笑い声を上げた。
「いいのかい」
「どうにかする。……そういえば、私なんかに預けて、詩乃をどうするの」
「どうもしないさ。強いて言えば、幸せになって欲しいとは思うけれど」
「……なんて、らしくない」
かつての記憶を思い出して、悧奈は長くなったシガレットの灰を振り落とした。昔からそれなりに付き合いのある従姉で、幼い頃は実の姉のように頼ったこともあったのだが、今では姉妹と呼ぶには憎まれ文句の多い、ラフすぎる関係性になったと思わなくはない。関係性そのものは不快ではないものの、嫌になるほど時間の経過を意識してしまうのは、楽しいことではなかった。
「私も良心を云々するつもりはないけれど。どうやら、根っからの悪魔とは言えないらしい」
「……それとも、悪魔の気まぐれだとでも?」
「それはいいな。次の言い訳に採用しようか」
「……馬鹿」
もともと厭世的というか、皮肉屋の素質は多分にあったのだろうが、精一杯の皮肉を軽くあしらわれた悧奈は呆れて紫煙を吸い込んだ。それを知ってか知らずか、瑠奈は僅かに笑声を漏らした。
「はは。まあ……、詩乃のことは頼めないかな。何しろ、私は包丁ひとつ扱えないから」
「……ほんとうに、今さら。聖花にでも持たせてみたら」
目の前にいる瑠奈にせよ、家族にせよ、何人か共通の知り合いにせよ、何故か悧奈の周囲はまともな家事ひとつ危うかった。これほど細やかな日常生活から遊離してしまった人間ばかり集まるのも、考えれば不思議なことだった。
「……ぞっとしないな。刃傷沙汰の方が早そうだ」
「姉さんも、喉首でも掻っ捌かれてくればいい……」
「勘弁してくれ」
少なくとも悧奈からすれば、選択肢はなかったのだ。恐らく瑠奈もそう感じたのだろうが、だからといって同情する気にもなれない。悧奈に年端もいかない少女の世話を押しつけたのは、他でもない瑠奈なのだから。
瑠奈が何のつもりなのか、悧奈は知らなかった。それでも詩乃を自分に預けた理由も碌でもない理由のはずだと、偏見じみた予断を持っていた。
「……邪魔なんでしょう、姉さん」
「いくら私が悪魔でも、悪意を押しつける趣味はないよ」
流れに任せて言葉を投げかけると、思いのほか瑠奈の歯切れは悪かった。彼女なりに思うところがあるのか、シガレットを吹かしながら僅かに俯く。
「自らが何を愛するか、自分だけが決めることだろう? 私の趣味は私のものであるように、ね」
悧奈は黙ったまま一口吸って、肺腑の底まで空気を吐き出した。きつい苦みを舌先に転がしながら、フィルターの間際まで灰になったシガレットを足元に投げ出した。
「知っての通り、私はどうも押しつけがましくて。君は優しいから、安心できる」
言葉は理解できるのだが、悧奈に彼女の真意は推測できなかった。首を振って、地面に落ちた吸殻をブーツの爪先で踏みつける。自己と他者の評価が食い違うことは多々あるにせよ、自分が優しい人間だと評価されるのはあまりに居心地が悪かった。瑠奈は珍しく気を遣ったのか、それとも単に用事を済ましたからか、言葉を続けた。
「そろそろ帰るといい。明日も忙しいだろう」
「……ええ、姉さん。次は期待しておくわ」
「はは。ご期待に添えればいいけれど」
「少なくとも、忘れたとは言わせないから……、いつか、ね。お休みなさい」
「ああ。おやすみ、悧奈」
未だにシガレットを吹かす瑠奈と別れて、悧奈は街頭が疎らに照らすだけの夜道に足を向けた。大したことをしたわけではないのに、一挙に押し寄せた倦怠感がひどく疎ましい。
昼間は汗ばむほどの陽気なのだが、朝夕には上着が恋しくなるのは、内陸故の寒暖差が大きいせいだろうか。肌寒く感じた悧奈は、肩に羽織ったダスターコートの身頃を引き寄せた。深夜故に人通りは少なく、物音も悧奈の聴覚を刺激はしない。逆説的にもう少し騒がしければ気も紛れたのかもしれなかったが、今の悧奈に静寂は孤独を強く連想させた。気分を紛らわそうとイヤホンを探ったのだが、手元にはなかった。
上空は晴れているはずだが、月は見えなかった。ぼんやりと薄靄がかかった夜空は、整理のつかない悧奈の内心を映しているようにも感じられた。
「……あの、ひとは」
顔見知りにしては、お互いよく知りすぎた関係だと悧奈は思っていた。少なくとも、不意に連絡の途切れた数年前まではそう考えていた。それが、悧奈が羽振に移ることが決まった半年前、あらかじめ知っていたように瑠奈が詩乃を寄越したのだった。
唐突な事態ではあったが、行く当てがないという詩乃を放っておくつもりにはなれなかった。それに土地には不案内な悧奈に代わって、学生には些か分不相応な部屋や、詩乃の身の回りを手配したのは瑠奈の仕事でもあった。最も、そこまでして彼女が詩乃の身柄を預けた理由は判然としなかったのだが、自身が慌ただしかったことも相まって、当時はあまり深く詮索はしなかった。
ともかく、悧奈は疲れ切っていた。早く帰って、今夜も詩乃と眠ろう。そう思ったとき、悧奈は自分で思う以上に、詩乃に依存してしまっているらしいことを自覚した。つい半年前まで、一人で眠ることは当たり前だったのだが。
しばらくもしないうちに、悧奈は見慣れたマンションのエントランスを通り抜けた。いつものように階段を登り、舌の上に残った煙草のタールの苦みを感じながら、悧奈は息を詰めた。さほど長い時間、詩乃を一人にしたわけではないが、どうしているだろうか。そんな不安が、悧奈を物憂くさせていた。
「……ただいま、詩乃」
「おかえりなさい、りな」
眠ってしまっているだろうかと気を遣ってドアを開けたが、その心配は無用のようだった。詩乃は小さな背中を丸めるようにして膝を抱え、ソファーに座っていた。悧奈は玄関口で羽織っていた上着を脱いだが、紫煙の匂いは隠すことができなかった。こうした刺激に敏感な気のある詩乃は、悧奈の側に寄ると直ぐに表情を曇らせた。
「……臭う、かな」
「うぅん」
無論、眠る前にはシャワーでも浴びて服を替え、口も濯ぐのだが、それでも臭いで詩乃が嫌がるのは避けたかった。その場の雰囲気はあったとしても、口寂しさだけで煙草を強請ったことを悧奈は少し後悔する。
「……シャワーを浴びてくるから、そうしたら。一緒に寝ようか」
「うん」
リビングの壁に掛けた時計は、十時に近づいていた。悧奈はともかく、詩乃に夜更かしは好ましくない。この年頃ならそろそろ嫌がりもしそうだが、僅かに俯くようにして頷いてくれた。彼女の白い頬が少し赤く見えたのは、思い過ごしだったろうか。
悧奈は着替えの下着だけ取ってから、脱衣場を兼ねた洗面台で歯を磨いた。歯磨きを済ませると髪を束ねてひとつに纏め、無造作に服を脱ぐ。服は棚の空いた隅に畳んで置いておき、下着は洗い物籠に入れた。
身軽になると、少し熱めにしたシャワーを浴びる。意識こそしていなかったが、それなりに汗ばんでいた身体には心地良かった。しばらくお湯を浴びてから、悧奈はシャワーを止めてバスタオルを身体に巻いた。
ざっと水気を拭って下着を履き、髪を解く。まだ湿気が残っている気もするが、肌寒さすら感じる空気がそのうち解消してくれるだろう。役割を果たしたバスタオルを洗い籠に投げ入れてリビングまで出てくると、すっかり寝支度を整えた詩乃が待っていた。パステルブルーを主調にしたパジャマは彼女の体格より少し大きいから、程良く幼げな愛らしさを引き立てている。本来なら寝間着は寝室に置いてあるから、詩乃はわざわざ着替えてからここで待っていたのだろう。
そんな格好を見ると、悧奈は思わず口元に手を遣っていた。思っていたより眠気が回ってきたらしいと自覚しつつ、ほとんど無意識に彼女の手を握って寝室へと歩く。
「歯は磨いた……?」
「うん」
たわいもない会話を差し挟みながら、ベッドの上に置かれたパジャマを身に纏う。オフホワイトのコットン地を使ったそれはスタンダードなデザインながら、適度な着心地があって悧奈の気に入っていた。
ベッドへ横へなると、詩乃も直ぐに潜り込んで、悧奈のそばにつく。最初のうちはベッドを分けた方がいいのかと考えたのだが、一人で眠る事を詩乃が嫌がるようだったから、そのまま同じベッドで一緒に眠る事にしてなっていた。実を言えば悧奈の方が慣れなかったのだが、今ではすっかり馴染んでしまっている。
「りな」
「……寂しかった?」
ベッドに入るや否や、詩乃は胸元に埋まるように抱きついた。悧奈が小さな背中に腕を回してやると、彼女はこくりと頷いた。
「お姉さん、と。何かあったの……?」
「ううん。近くに来たから、顔を見たかったって。何も心配しなくていいよ、詩乃……」
寂しがりで、とかく不安げな詩乃に、悧奈は笑っていて欲しかった。だから、悧奈は詩乃を側に抱き寄せる。一人であることを是認して生きてきた悧奈に、詩乃の存在は不思議なほど好ましかった。そしてふとした偶然で始まった生活が、今は愛しかった。
「りな……?」
「だいじょうぶ、だから……、おやすみ」
これから何が起ころうとも、悧奈は詩乃を不幸にしたくなかった。腕の中に感じる温もりが、悧奈に心地良い睡魔を齎してくれる。瞼を伏せて、ゆっくりと眠りに意識を委ねた。