4.河童と「僕」のおはなし
先ほどまで和やかに談笑していたはずの男に殴られたのは、突然。アパートの隣人に挨拶をし、ドアにチェーンをかけたその瞬間のことであった。ああ、この男はこのようにして今まで生きてきたのであろうな。女を殴ることにためらいを覚えるどころか、嬉々として手を振り上げる。男は、そんなクズであった。まさに予想通りの行動。思わず笑い出しそうになるのをこらえたまま、妾は吐き捨てる。
「下賤の身で、妾に触れるでないわ」
床に這いつくばったままの妾の制止に、男はへらへらと笑い続ける。人を小馬鹿にしたその安っぽい笑みがまったく癪に触る。非力な女子を痛めつけることしかできない矮小な俗物が、何を偉そうに。だが、こちらとしても黙って殴られてやる必要はない。これは、確信を持ちたかったためにわざと殴られてやったまで。すぐに治るとはいえ、妾の玉の肌を傷つけたこと、存分に後悔させてやろうぞ。
「マジウケる。何急にキャラ変えてんの? まあ、オレ、そう言うのも好きかも。長く楽しめるようにせいぜい頑張ってよ。どうせやることは一緒だし。ヤって、写真と動画撮って、またヤって。友達も呼んできて、いっぱいシてあげるよ。ああでも、そんな風に言われてオレ傷ついちゃったから、またうっかり手が滑っちゃうかもね!」
こやつに、「アタシの住んでるアパートはあ、なんかすごくってえ、隣の人の声がぜーんぜん聞こえないの~」と伝えたのは妾だ。「だからあ、パーティーしたり、ホラー見たりするときはうち使っていいよお。いっぱい、楽しいこと、シよ?」と話して、嬉しそうな顔をしていたのは、男女の交わりだけでなくこれが目的であったのであろうな。まあ、パーティーのことを薬物乱用パーティーと勘違いしたのかもしれぬが。
そのまま再度こやつの拳がうなるのを見て、妾は指を鳴らした。その瞬間に、部屋の景色が変わる。先ほどまでいたのは、とあるアパートの一室。どこか古ぼけた外観に似合わない、こざっぱりとした部屋。今時珍しい、畳に押し入れ付きの物件じゃ。
けれど、今は違う。大きくざわめくのは山の木々。かすかに聞こえるのは、近くを流れる大きな川のせせらぎ。どこか土の香りが漂うここは、まぎれもない田舎だ。足元の感覚が変わったことに気がついたのか、男が少しばかり慌てておるのう。男に説明する気はないが、ここはとあるさびれた町にある小さな神社の境内じゃ。通称、河童神社。その昔は水難除けの神様として崇められておったが、今では別のことで有名となった。そう、人生が変わる縁切り神社として。
まったく、世の中にある河童を祀った神社の中には縁結びの神として名高いものもあるというのに、妾のところは縁切りか。しかも本来であれば、悪縁を切り、良縁を結ぶというのが縁切り神社の仕事であるのだが、「縁を切る」仕事ばかりが持ち込まれるのは何故であろう。少々納得いかぬ部分もあるが、仕事はすべきであるし、祈りは聞き届けなければならぬであろうな。何より女を殴って喜ぶような男は、虫が好かぬ。
人間の男と交わるのも嫌いではない。昔はみだりに川に近づく童の尻子玉をちょいちょい失敬したものであったが、今の時代はなかなかそれも難しい。代わりに、男の精を喰らえば、魂まで喰らわずとも、ほどほどに生きながらえることができる。必死な顔で腰を振る男どもも可愛げがあるではないか。だが、女を喰い物にする輩は別じゃ。
この男、最初に見かけた時から酷い格好をしておった。もちろん、人間としての格好であればまだマシな部類ではあるがの。あの皮一枚の見てくれに騙される女も多いであろう。だが、こやつの魂は腐臭を放っておる。襟巻きのごとく、死霊生き霊を問わず女を幾人もまとわりつかせ、水子を両足に絡ませながら歩く姿。異様の一言であるな。
こちらの世界にも、ある程度の「目」を持った輩がおるようじゃの。何人かはぎょっとした顔をして、慌てて視線を逸らしておったわ。ああ、それは正しいことであろうな。こやつに関わると、ろくでもないことに巻き込まれるのは必至。下手をすれば底なし沼に共に落ちることになるのじゃから。
ついでに言えば、妾の姿も肌を露わにした「きゃみそーる」とやらから、「巫女服」に変えている。人間の言葉で「ぎゃっぷ萌え」と言うそうではないか。存分に妾を愛でるがよい。
さてと。妾がここに戻ってきた証に、神楽鈴を鳴らす。それを待ちわびていたのであろうな、境内の井戸からいくつもの青白い腕が飛び出してきた。
ぎゅるり。ぎゅるり。
腕はまるで生き物のように男に巻きつき、男の顔を撫でる。そう、それはまるで愛おしい者を出迎えるように。ここに捨てられたのは、男への恨みつらみだけではない。捨て去ることができなかった男への愛情もまた、縁切り神社が引き受ける。それゆえに、この腕たちは男を心から欲しておるのだ。まあ、妾的にはこの腕に捕まっておくのが良いと思うぞ。青白いし、腕だけであるが、男を大事にしてくれるであろうしな。あ、あやつ漏らしおったわい。この小心者め。
「やめ……、たすけ……!!!」
「そなたに嬲られた女どもも、同じことを言っておったのではないかの。助けてくれ。許してくれ。あるいは捨てないでくれ。一緒になってくれ。そう言って、泣いてすがったであろうに。貴様が許さなかったそれを、なぜ自身は許されると思うのだ?」
ほんに、こやつは面白い。女の顔が変わるまで殴った男が、ややこの宿る腹を蹴り上げた男が、たかが青白い手の数本に足を掴まれたくらいで泣き叫びおって。
ぎゅ、ぎゅ、ぎゅるり。ぎゅるり。
おやおや、青白い腕に混じって、ヘドロのように真っ黒な腕まで浮かび上がって来おったわい。あれは、面白い。他のとは比べものにならぬほど、怨念が渦巻いておるぞ。ふふふ、さあ死ぬ気で逃げるが良い。その手に捕まったが最期、おぬしらは溶け合って一つになる。女の妄執と、男の心はそのままの状態で! まああの腕を呼んだのも、妾ではあるがの。
男がどちらを選ぶのか。しばらく眺めるものもまた一興。すぐに決着がついてしまうのは面白くない。生かさず殺さず、ゆるゆるといたぶってやろうぞ。妾は神社に備えられた日本酒とともに、隣のベランダで取ってきたばかりの新鮮なきゅうりを取り出した。ゆるりと扇をひらき、涼を楽しむ。饗宴はまだ、始まったばかり。