29.「僕」と「彼女」のおはなし
僕はあるべき日常に戻った。そこは何の違和感もなく当たり前の「普通」の世界で、けれど当たり前に僕の隣にいた君だけがいない。彼女はどこへ消えてしまったんだろう。ねえ、君は僕がすべて忘れてしまうと思っていたみたいだけれど、僕はちゃんと君のことを覚えているよ。
「ぼーっとしてないで、早く食べてしまいなさい。遅刻するわよ」
いつだったか夢で見た時よりも若い、けれど見慣れた顔の母さんが僕を追い立てる。どうやらこの世界の僕は実家暮らしをしていたらしい。どこかひとごとな気分で、僕は食卓の椅子に腰掛ける。いただきますとてのひらをあわせてみれば、左手首に見覚えのない痣ができていた。
目の前に並んでいるのは、熱々の味噌汁に、炊きたてのつやつやごはん。グリルから取り出したばかりの塩じゃけに、とろりとしただし巻き卵。父さんの希望で和食なのに、ドリップしたてのコーヒーまで並んでいる。どこも不思議のない、ごくごく一般的な朝食。君の大好きなフローズンヨーグルトや、冷凍フルーツ、冷製スープなんてものはもちろん置かれてなんてない。それが僕にはたまらなく悲しい。もう一度見た痣は、さっきよりもうっすら濃くなった気がした。
「いってきます」
たまらず、僕は朝食をかきこみ家を出る。自転車に乗らなくても、十分間に合う時間帯だ。まだ大学は夏休み前。早めに着いたなら、定期試験前の復習をやるのもいいだろう。夏休みに追試で呼び出されちゃかなわないもんね。ああ、アルバイト先のファミレスに、その期間中はシフトを入れないで欲しいって希望を出しておかなくっちゃ。僕は大声で叫びたくなるのを必死で抑え込んで、ひたすら雑事に向かい合う。そうでもしないと、僕は哲学者のように存在について考え込んで発狂してしまいそうだったから。
どこか現実感のないこの日常は、本当に僕のものなんだろうか。あの時過ごしていた夏休みこそは、僕にとって一体何だったのだろう。青春に励めと言われているように、学食で同じクラスの女の子にカラオケに誘われたけど、僕はバイトを理由に丁重にお断りした。最後に見た彼女の涙が頭から離れず、とてもじゃないけれどほかの女の子と遊ぶ気になんてなれなかったからだ。六花。僕の愛しい雪女。甘えん坊で天然で、そしてどこか残酷な僕の恋人。どうしてか、また痣が少し色みを増す。
バイトからの帰り道、彼女の面影を探して街を歩く。けれどどんなに歩き回っても、僕が使っていたコンビニは見つからないし、住んでいたはずのアパート――メゾン・ド・比嘉――にもたどり着かない。この道をまっすぐ行ったら。あの角を曲がったら。そうやって寄り道ばかりして、僕はついつい帰宅時間が遅くなってしまう。それでも諦めきれない僕は、きっとしつこい男なんだろう。
そう思いながら住宅地のとある角を曲がったのは夕暮れ時のこと。目の前には、うらびれた公園があった。そこの公園で少し休んだら、今日はもう帰ろう。そう決めて、ベンチに座ろうと思ったがそこには、先客がいた。全身をもふもふに覆われ、うっとりとした状態でよだれを流す不審者……もとい先輩が。
「せ、先輩?! 何やってるんですか!」
「おや、君はこんなに有名な子たちをしらないのかい。あちらは毛羽毛現、こちらはすねこすり、そして上にいるのがケセランパサランだ!」
なんでそんなにドヤ顔なの。ケセランパサランくらい、僕だって知ってるよ。あれでしょ、願い事がかなうっていう毛玉でしょう? でもそれ、毛玉っていうレベルの大きさじゃないからね。ほら、運動会の大玉ころがしで使うあの玉くらいあるし。先輩の小さな頭がどうしてぺしゃんこにならないのか、僕は不思議でたまらない。
そして、脚……というか脛にすりすりしているもふもふたちは、きっと文字通り「すねこすり」なんだろうなあ。でもね、その数が多すぎやしませんか。なんでペットショップのケージの中で積み重なりすぎたハムスターみたいに、先輩の脚はこのもふもふに覆われているの。しかもあとひとつは、なんでしたっけ? けけけけ? いやもうなんでもいいんだけど、なんか毛だらけみたいな名前のそれ。先輩の隣でもこっとしている巨大なそれは、もうなんか見た目からして確実に怪しい。怪しいのに両手がグーパーと動いて、握りしめたくなるのは何故なんだ! 思わず八つ当たり気味に先輩を見つめてしまう。
「こんなおかしな生き物たちともふもふ遊んでいるなんて、先輩は一体何者なんですか」
「ふふん、ボクはボクさ。一体、それ以外に何があるというのかい」
ほら、君ももふもふするかね。ドヤ顔でふんぞり返り、もふもふを勝手に勧めてくる先輩。くっ、負けた! 謎の敗北感にうちひしがれつつ、僕はもふもふを愛でる。よくわからないけれど気持ちの良いもふもふを撫でていれば、少しずつささくれ立った心が落ち着いてきた。何より、この先輩は僕が知っている日常を知っている。それが、今の僕には泣きたくなるくらい嬉しかった。
「それにしても、面白いね。君はボクのことを覚えているんだね。今までこんなことはなかったのに」
今、なんて言った?
先輩は何とも楽しそうににんまりとする。こういう顔をしている時の先輩は、しつこく追いすがったところでそれ以上のヒントは教えてくれない。でも先輩が「面白い」と話していることには、大体意味があることを僕は知っている。
僕は何だか答えを掴んだような気がした。そうだ、大切なことは「僕」が「僕」であることだ。ああ、僕は諦められない。君は僕が普通に幸せになることにこだわっていたけれど、普通ってなんだい。僕が幸せかどうかは、僕が決めることだ。だから、僕は君を探そう。手首に見えていた痣がまた濃くなった。ぼんやりとしていた痣はどこかハートの形に似ている。
僕は毎日少しずつ両親へ手紙を書くことにした。信じてもらえないかもしれないけれど、両親が僕がいなくなった後に少しでも悲しまないで済むように。それはただの自己満足かもしれないけれど、あの夢で見たやつれたふたりの顔は酷くこたえたから。それでも彼女のいる世界に行きたいと願う僕は、本当に親不孝者だなあと自嘲する。
一緒に彼女への手紙も書いている。これは何だろう、ラブレターっていうのかな。ちょっとした願掛けだったりする。お百度詣りじゃないけれど、手紙を書き続けることで夢でいいから会いたいななんて僕は思っているのだ。
ようやっと君への100通目の手紙を書き終えたとある日。僕はそれをいつも通り、君が好きだと言っていたクッキーの空き缶にしまった。いろいろと考えていたせいか、もうすっかり明け方らしい。ふっと視界を何か黒いものが横切った。まさか、この時間にGの襲来か! 僕はとっさに雑誌をひっつかみ、左側を睨みつける。……そこにあったのは、ふるふると震える細い緑色の「蔓」だった。しかも、それは僕の手首から生えている。ああ、わかった。手首の痣はハートの形に似ていると思っていたけれど、そうじゃなかったんだね。あれは、朝顔の葉っぱの形だったんだ。僕は彼女が着ていた浴衣の柄を思い出していた。
赤い糸じゃなくて緑の蔓に導かれて、僕は歩き始める。あちらの塀を上ったり、よそ様のお宅を突っ切ったり。まるでひとが歩くというよりかは、猫が進む散歩道みたいだ。そう思った僕の前に、見覚えのある三毛猫がいた。タマだ! でもタマはいつものように素知らぬ顔をして、僕の前をとててててと走って行ってしまう。
走り出した僕の前には大きな藪。タマはそこに突っ込んで行ったけれど、僕にはちょっと難しい。躊躇していると、宇座敷さんたちのお子さんたちが、両脇から藪を押し広げてくれた。まるでトトロに会いにいく抜け道みたいな小さな道が現れた。僕はさらに走っていく。ずいぶん長い距離を走ったみたいなのに、息切れもしないのは、この間川辺さんたちにもらった妙な薬が効果を発揮しているのだろうか。緑の蔓はまだまだ伸びている。
いきなり横殴りの雨。けれどいつか出会ったカンタ(仮)が傘を貸してくれた。橋のない川というか海に出たときは、海坊主が小さなボートを貸してくれた。燃え盛る炎が目の前に出た時には、なぜか風が吹いてそれを消してくれた。
駆けて、駆けて、駆け抜けて。
僕はとうとうアパートに戻ってきた。朝日を浴びたひまわりが、おかえりとでも言うように左右に揺れている。ちりんと、管理人さんの家の風鈴が鳴った。
「ただいま」
僕は帰ってきたよ。彼女の住んでいる部屋と僕の手首を繋ぐ緑の蔓。そこには真っ白な朝顔の花が咲いていた。





