28.夏祭りと「僕」のおはなし
アパートの裏手の山の神社で夏祭りがある。
それを聞いて、わたしは決めた。今日で最後にしよう。今度こそちゃんと終われますようにって。
「あらあら、そんな格好ではいけませんよ。こちらにいらっしゃい」
わたしが外へ出かけようとするのを、管理人さんが止めた。こちらにいらっしゃいなんて、何かしら。管理人さんに誘われるままお家に上がり込めば、そこには濃い藍染の浴衣が飾られている。和裁士が作ったものだろうか、丁寧に手縫いされたそれを羽織るように勧められる。申し訳なくて後ずさりしていれば、有無を言わさずあっという間に着付けされていた。
わたし用に誂えたわけではもないのに、ぴったりの浴衣に少しだけ驚く。ああ、そうだった。このアパートはマヨヒガ。この家の中に迷い込んで来た者に、必要なものを与えてくれる。ということは、きっとこの浴衣は今のわたしに必要なものだったのだろう。とびきり綺麗な格好でお別れしなさいってことなのかしら。首を傾げるわたしをよそに、管理人さんは思案顔。
「でも、これだけでは少し寂しいですね」
そう言いながら庭へ降りていく。戻って来た管理人さんの手にあったのは真っ白な朝顔。気がつかなかったのだけれど、お化けひまわりの近くに咲いていたらしい。もしかしたら、お化けひまわりの茎を支柱がわりにして、大きくなっていったのかもしれない。
その朝顔をくるくるとわたしに巻きつけていく。花嫁さんのドレスじゃあるまいし、これはちょっと微妙じゃないかしら。けれど管理人さんがぱちんと指を鳴らした途端に、朝顔は最初からそうだったように浴衣の青地の中に溶け込んでいった。まるでシンデレラに出てくる妖精の魔法みたいね。さらに髪を整え、ひまわりの生花を飾ってもらったわたしは、すっかり浴衣美人に変身だ。しかも管理人さんは「彼」の用意まで手早く済ませてくれた。
「おみやげ、かってきてね」
ざしきわらしたちが、わたしたちの周りをくるくる回る。祈るように。呪うように。繰り返される屋台の食べ物は、どこか祝詞にも似ていて、わたしは思わず苦笑する。わたしたち妖は、本当なら食べ物なんて必要ないのに。それなのにこんなに美味しく感じてしまうのは、人間である「彼」のそばにいるからかもしれない。もうざしきわらしたちったら、そんな無茶なお願いをして。「彼」がここに帰ってこないこと、あなたたちも知っているはずでしょう?
「縁というものはな、迷うようならまだ切ってはならぬ」
普段のおちゃらけた顔が嘘なくらい、今日の川辺さんは神々しい。河童神社の姫巫女は、本来こういうオーラをしているのでしょうね。大丈夫よ。川辺さんったら、そんな顔をしないで。女は度胸って言うでしょ! あら、違ったかしら。ね、わたしは迷ったりなんかしないの。わたしは川辺さんに負けないくらい色っぽいウインクをする。
なーお
アパートの塀の上では、タマ姐が昼寝をしていた。間違えないように。通り過ぎた肩越しに、そう聞こえた気がして振り返った。タマ姐はすぴすぴと眠ったままだ。たくさんのひとが、わたしたちを見ている。だから、きっと大丈夫。わたしはぎゅっと「彼」の手を握りしめる。もしかしたら、自分が思っている以上に緊張しているのかもしれない。
昼間の神社と夜の神社は違う顔だ。昼間の聖域のような静けさとは異なり、夜の神社は色々な部分の境界があやふやになっていた。特に今日は夏祭り。あちらとこちらが混じり合う。見えない扉がいくつも開き、ここは世界を繋ぐ場所になる。
屋台の店主たちには、妖怪たちもたくさん混じっている。彼らからすれば「彼」の存在は興味をそそられるのだろう。客引きがすごい。人当たりの良さそうな相手を選んで、わたしたちは夏祭りを満喫する。金魚がぴしゃりとはねて、わたしをからかう。時々頭の後ろでしゃきしゃき音がするのは、「彼」を狙う悪いものを、お化けひまわり(ミニ)が駆除してくれているからだろう。生花として髪の毛を飾るだけでなく、ちゃんとボディーガードもしてくれる頼もしいひまわりだ。でも、もうこのあたりが潮時かしらね。わたしはぐるりとあたりを見回す。ひとならざるものが、増えすぎだ。わたしは「彼」の手を引き、少しずつ目的地に向かって歩き出す。
たどり着いたのは小さな裂け目。ここからなら、「彼」は帰れるだろう。「彼」のあるべき場所に。世界はそこから分岐して、きっとそこでなら「彼」は幸せになれる。口づけで、「彼」にわたしの力を移してゆく。「彼」が無事に世界を渡れますように。視界の端で、死神が地団駄を踏んでいるのが見えた。今まで散々利子を搾り取ったのに、それでは満足できないらしい。でもね、お生憎様。今回はわたしの勝ちよ。
「彼」が行く先の世界をわたしは知らない。けれど、これだけはわかる。「彼」は、その世界で天寿をまっとうするのだ。
その世界では、「彼」は神隠しに遭うこともない。
見知らぬ子どもをかばって、植物状態になることもない。
タチの悪いものにつきまとわれて、喰われてしまうこともない。
わたしの知らない普通の女性と、普通に恋に落ちて、普通に結婚をし、普通に子どもと孫ができて、普通に老いて死ぬ。そんな平凡な幸せがあなたを待っている。
でも、わたしは寂しがり屋だから。置いていかれたわたしは、きっといつか世界を氷漬けにしてしまうから。だからわたしの全部をあなたにあげる。わたしを全部消してちょうだい。
「それでも僕は、絶対に、君を、忘れない!」
あなたが力を振り絞ってわたしを突き飛ばすから。
わたしは置いていかれてしまった。この世界に。ひとりきりで。死ぬ覚悟はできていたのに、見送る覚悟や置き去りにされる覚悟はできていなくてわたしは身体が動かせない。長い長い年月を、わたしは「彼」なしで生きなくてはならない。力のほとんどを失った、残りカスのようなわたしはただ生きることしかできないのだ。
「彼」はきっと忘れるだろう。あのアパートで過ごした日々を。アパートの住人たちのことを。そしてわたしのことを。けれどそれでいいのだ。あちらの世界で生きるには、こちらの世界の思い出は邪魔になるだけ。さようなら、大好きなひと。わたしは、涙をこらえて「彼」を見送る。もう2度と会うはずのないあなたの顔を決して忘れないように。死にぞこなった分、わたしがあなたを覚えていよう。
きっとあなたは大丈夫。わたしは小さく微笑んだ。





