27.「僕」と夏祭りのおはなし
彼女とふたりで、夏祭りに行くことになった。近くの神社で今日の夕方から行われるらしい。急な出来事だったのに、彼女は準備よく浴衣を用意していた。やっぱり雪女の正装は和服だから、その関係で浴衣もラインナップされているのだろうか。濃い藍染の布地に白い朝顔。古典柄の浴衣は、もともと色白の彼女にすごくよく似合っている。いつもは下ろしたままの長い髪の毛もくるりとアップにまとめられていて、そのうなじの色っぽさに僕はひとりドキドキした。
ちなみにいつも通り、ジーパンとTシャツとスニーカーで出かけようとしていた僕は、良い笑顔の管理人さんにひっ捕まえられて、すでに着替えさせられている。手際よくひん剥かれる恐ろしさよ。そんな、こんな格好彼女にも見せたことないのに……とちょっとばかりショックを受けたりもしたのだけれど、無償で男性用の浴衣を貸してくれたあげく着付けまでしてもらったのだから、文句を言ったら罰が当たるだろう。それにしても管理人さんの家には何でもあるなあ。
「りんごあめ、わたあめ、やきそば、かき氷、フランクフルト、ベビーカステ……」
「わかった、わかったから。何かおみやげをみんなに買ってきてあげるから」
何とも真剣な顔をして指折り数えている宇座敷さんちの子どもたち。僕は、財布の中身がすっからかんになるであろうことをこの時点で覚悟した。うん、お祭りの屋台の商品って本当にびっくりするくらいぼったくり価格だよね。ああ、もちろん浴衣のお礼に管理人さんにもおみやげを買うつもりだよ。……川辺さん、物欲しそうな顔でこっちを見ないでください。海であれだけぶいぶい言わしてるんですから、山でも同じように過ごしたらいいじゃないですか。え、神社で羽目を外しては部下に示しがつかない? 何のこっちゃ。
アパートを後にしてしばらく歩けば、すぐに神社に到着する。夜の神社は普段ならちょっとしたオカルトスポットだけれど、夏祭りともなれば賑やかで、ウキウキした気分になってくる。色とりどりの提灯がゆらゆらと揺れて、うん、いいムードだよね。人混みが酷いからちょっとはぐれそうになり、僕は彼女と自然と手を繋ぐ。まだまだ清い僕らの関係も、今夜ちょっとだけ進んじゃったりなんかして。少しだけ期待して彼女を見れば、彼女は頬を染めて僕を見つめ返してくれた。
よし、落ち着こう。まずは食事から。腹が減っては戦はできぬだよ。さてどの屋台から攻めようか。たこ焼きにいか焼きも捨てがたい。悩む僕の横で彼女が気をとられているのは、氷の山に突き立てられる冷やしフルーツ。雪女だもん、やっぱり冷たいものが好きなんだね。
「何にする?」
「わたしはこれ!」
冷やしパインにかぶりつく僕の横で、チョコバナナをぺろぺろと舐め回す君。そんな小さな桃色の舌と唇で、挟んだり、咥えたり。ああっ、そんな奥まで! 神様、目の毒です! 妄想著しい青少年の身には、酷すぎる仕打ちです! にこにこ笑顔の彼女の横でひとり悶絶する僕。はたから見たら絶対に気持ち悪いと思うけれど、僕の彼女が可愛すぎるんだからしょうがない。
金魚すくいの金魚を眺めてみたり、射的でぬいぐるみをねらってみたり。どちらをやっても百発百中の彼女に再度惚れました。ラムネの早飲み競争に参加してみたり、真剣に型抜きをやってみたり。ううう、まだげっぷが出そうで苦しい。っていうか、型抜きってどうやったら成功するの? 画鋲を刺した瞬間にパリンって割れちゃうんだけど……。まあそんなことを繰り返すうちに、僕たちは知らず知らずのうちに参道からそれていたらしい。気がつけば、人気のない場所に出ていた。
「今日は、本当に楽しかったね」
彼女がにこりと微笑んだ。うん、本当に楽しかったね。けれどその言葉とは裏腹に、彼女の声が少しだけ沈んでいるような気がした。あ、もしかしてちょっと疲れちゃったかな? 下駄だし、もしかしたら鼻緒で指の間が擦れちゃったのかもしれない。……いや、もしかしたらトイレかも。うん、浴衣だとトイレって行きにくいよね。着崩れたらお直ししなくちゃいけないし、そもそも花見や夏祭りの会場のトイレは汚さマックスとか聞いたことあるし。
「ごめん、疲れちゃった? みんなのおみやげを買って、そろそろ帰ろうか?」
「……うん、そうだね。そろそろ、帰らなくっちゃ」
そう言いながら、彼女が僕に抱きついてきた。そ、そんな、確かに僕も一歩進んだ関係になりたいとは思っていたけれど、初めてが外だなんてちょっと難易度が高過ぎるのでは?! い、いやいや、ここでムードを高めて、その後僕の部屋でだな。ドキドキしながら、彼女と唇を重ねる。ぬるりと彼女の舌が僕の口内をなぞったその時。あふれるほどの力が僕の中に無理矢理注がれた。ダメだ、これは絶対にダメだ!
「そろそろ帰らなくっちゃ」
どうして、ここには誰もない? さっきまでは、お互いはぐれそうになるくらいの人ごみだったじゃないか。いくら参道から外れた場所に来てしまったのだとはいえ、ここはあんまり静かだ。静かすぎる。ひとのざわめきも、祭囃子も何ひとつ聞こえてはこない。まるでこの世界には、僕たちふたりだけしか存在していないみたいに。
こんなこと、望んでなんかいなかった。僕はただ、君と一緒にただ穏やかに過ごしたかっただけなのに! 彼女を引き剥がそうとしているのに、どうしてだか力が入らない。
「だって、あなたはもう自分の名前さえ忘れてしまったでしょう?」
彼女の言葉に、ぎゅっと目をつぶる。僕は、僕は……。彼女の名前は白雪六花。雪女であることを隠して冷凍倉庫でアルバイトをしている大学生。好きなものは、アイスに冷やしラーメン。嫌いなものは熱いもの全般。子どもともふもふが大好きで……。彼女のことなら、何だって出てくるのに自分のことはなにひとつ思い出せない。名前も、家族も、何もかも。僕は一体何のバイトをしていたんだっけ? 大学で勉強しているものは何だった? 気がついた途端に、足元が抜けるような気がした。いやそれでも僕は何よりも、誰よりも君が大切だった。それだけは真実だ。誰にも否定なんかさせない。
「あなたのためになら、わたしはどうなってもかまわない」
そんなことを彼女に言わせた自分が、情けなくてしょうがなかった。僕は、彼女によって生かされていた。僕は、彼女によって支えられていきているだけだった。彼女が僕に再び口付ける。目の前の彼女が、縮んだ気がした。気のせいなんかじゃない、彼女は僕よりも頭ひとつぶん小さくなっている。そうか、彼女は消えるつもりなんだ。僕をもとの世界に返して、そのままいなくなってしまうんだ。そんなの、あんまりじゃないか。僕は君なしでは、生きてなんかいけないのに!
渾身の力で彼女を突き飛ばす。その後に、自分がどうなるかなんて考えてもいなかった。ぐらりとバランスを崩した身体が、宙に浮かぶ。そのまま、唐突に現れた石段の下へと落ちて行った。石段の終わりにある朱塗りの鳥居が、だんだんと大きくなる。こんなところに階段なんてなかったはずなのに。ああ、僕は連れていかれてしまう。戻されてしまう。
「いいの。わたしのことなんて、忘れて。幸せになって」
嫌だ、嫌だ、嫌だ。この言葉の後に何が起きるのか。僕にはわかる。僕はもう知っている。薄闇の中で、彼女の浴衣に咲いた白い朝顔がゆらりと揺れていた。
それでも僕は。
転げ落ちた先。石段の下に叩きつけられる衝撃が僕の体を襲うことはなく、けれど僕の視界はそのまま暗転した。





