13.「僕」と熱帯夜のおはなし
寒い。
寒いってばよ。
いつもはちょっと汗ばむくらいなのに、ふと目を覚ませば鳥肌を立てて震えている僕の体。今は8月、真夏だよ? なんでこんなに手足が冷たくなっているの。しかも体を動かそうとしても、どうにもならない。まるで誰かに抱きつかれているような重み。自由になるのは右手だけ。まさか……、これが噂に聞く金縛りというやつか!
とうとう僕のもとにも怪奇現象がやってきたらしい。どうしよう、目を開けた瞬間に血みどろのゾンビがいたりしたら。これはカーテンやドアの隙間が怖いとか言っている場合じゃなくなってきた。しばらく悩んだあと、僕は手探りで枕元の携帯電話を探してみる。……だって、寒さのせいかトイレに行きたくなってきたんだからしょうがないじゃないか。いるかいないかわからないもののために、漏らすわけにはいかない。そこは成人男子の矜持として、絶対に。
恐々と薄目を開ける。うっ、まぶしい。スマホの画面に表示された時刻は、ようやく午前2時を過ぎた辺り。これはいわゆる草木も眠る丑三つ時という時間なのでは? そのまま意を決して体の上をライトで照らしてみれば、ちらりと見えたのは長い髪をなびかせた女の姿。こんこんと眠りにつく、僕の彼女だった。ゾンビでも幽霊でもないけれど相手は妖怪なわけだし、怪奇現象のくくりとしては正しいのかもしれない。
なんで彼女がここに? 疑問に思いつつ、エアコンの設定を確認してみる。リモコンに表示されていたのは、驚きの温度。そりゃあいくらタオルケットにくるまったところで寒いはずだ。僕ひとりの時なんて、エコモードとやらなのだから、その気温差は砂漠並み。まさかとは思うけれど、寝冷えしていたらどうしよう。お漏らしは避けられたけれど、愛しの彼女の前で腹痛でトイレに駆け込むとかありえない。マジで死活問題だよ。
っていうか、晩御飯を一緒に食べた後、彼女は自分が借りている隣の部屋に帰ったはず。なんか今日は、特別業務が入っていたとか話していたし、アルバイト先から帰宅後に間違えて僕の部屋に来てしまったのだろうか。ちなみに僕らは大家さん公認のもとで、お互いの部屋の合鍵を持っていたりするのだ。よっぽど疲れているのだろう。彼女を僕の体の上から下ろしてあげても目覚める様子はない。
ここ最近の彼女は、何かに追われるようにアルバイトをこなしている。切羽詰まった感じもしていて、時々僕はとても心配だ。とりたてて贅沢をしているわけではない彼女に借金なんてあるはずもないのに。何をそんなに焦っているんだろう。僕がそれとなく尋ねてみても、穏やかにはぐらかしてしまう君。やっぱり僕じゃあ、頼りないのかな。
本当に情けない話なんだけれど、冷凍倉庫ではまったく役に立たなかった僕はすぐにそのバイトをクビになった。今は別のバイトをしているけれど、僕のバイト代なんて正直なところ彼女の足元にも及ばない。しかもバイト先が別になったせいで、今回の特別業務を一緒に手伝うこともできなかった。君のために、僕は一体何ができるんだろう。
エアコンの設定を元に戻そうか、しばし悩む。今の状態は人間である僕にとっては辛すぎる温度だけれど、雪女である彼女にとっては心地よいものだろう。疲れて帰ってきた君をせめてゆっくり寝かせてあげたい。そう結論づけた僕は、押し入れから冬用の毛布を取り出そうとして固まった。僕の身体に脚を絡めて眠っている彼女。どんないい夢を見ているのだろう、君があどけなく、にへらと笑った。
「……くん、だいしゅき」
おいおいちょっと待ってくれ、だいしゅきって、ちょっと! あんまり無邪気に笑ってるから、襲うに襲えないじゃないか! 馬の前に人参置いて、待てをさせるくらい無茶苦茶な君。ねえ、ここまでお膳立てしておいて、据え膳喰わせる気がないというのは、どういうことなのでしょうか。僕は彼女にこの鬼畜な所業について、軽く小一時間は問い詰めたい。
リビドー溢れる大学生、親の目を心配する必要もない一人暮らし。彼女はアパートの隣の部屋に住んでいて、昼間なんて半同棲状態。しかも季節は夏。それなのに、ああ、それなのに! いまだに清らかな関係というのは、これいかに。今なら僕は血の涙を流せる気がする。
ねえ、僕の理性を試してどうするの? 伸びきったパンツのゴムくらい、耐久性がない僕の理性。この耐久力実証試験に一体なんのメリットがあるっていうわけ?
幸せそうに微睡む君の隣で涙目の僕は、ただひとり真夏の我慢大会を始める。