人魚の肉を食せし者
家中に、お手伝いさんと母親の悲鳴が轟き、すぐさま彼女らの手によって、夕菜は風呂場へと放り込まれた。
「これだもんな……」
夕菜は湯船につかりながら、ふぅ。と溜め息を吐く。
夕菜だって、今の自分の状態が奇跡のようなことは十分理解していた。
九才ぐらいまでは病弱で、この時期に冷たい水をかぶったりしたら、今にも死にそうな子供だったのである。
……と、いうより。実際そんな事があったら、間違いなく死んでいたであろう。
もちろん当時は学校に通えるほど体は丈夫ではなく、生きているのが精一杯。と表現するのが合っているような病弱ぶりだった。
それが、ここまで健康になれたのは……
(やっぱ、これのおかげなのかな)
夕菜は水面に浮かぶ、身に付けたままのネックレスを指先に引っ掛けるようにして持ち上げる。
名前は知らないが、自分が倒れると必ずやってくる若い医者が病気にかからないためのおまじない。といってくれたものだった。
どんなときも肌身離さず付けておくように。と念を押しながら。
医者が用意した薬を飲んだ次の日は、きまって体調が回復。
そういうこともあって、幼心にも医者の言葉を信じ、肌身離さずネックレスをつけ歩くようになったし、両親からも絶対はずすな。と釘をさされた。
あれから七年経った今でも、はずすことはない。
(そういえば……安岡君。このネックレスのこと知っているようだったな)
夕菜は屋上での出来事を思い出した。
(もしかして……あのお医者さんの身内とかなのかな?)
ぼんやりと思いながら、夕菜はバスタブからあがる。
ネックレスを貰って、病気にならなくなってからは、医者に会うことはなかった。
(でも……今日は大変な一日だったな)
夕菜は用意されてある洋服に着替えながら、これからのことを考えて、深々と溜め息をつく。
頭の中で、両親になんでずぶ濡れになって帰ってきたのかという詮索を、どうやってかわそうかと考えを張り巡らせる。
「まさか……殺されかけた。なんて、言うワケにはいかないしねぇ」
殺伐としたことを、夕菜はのんびりと口にしてみる。
怖く無かったわけじゃないけど…。
怖かったのは自分を殺そうとした雪音でもなく、助けてくれた陽一でもない。
二人が口にしていた、真莢という人物。
その場に、彼が居たわけでもないのに。
二人の中に感じた、圧倒的なまでの存在感。そこまで人を引きつけることができてしまう人物への畏怖の念。
「事情を説明しろだなんて、言うんじゃなかった」
漠然とした後悔。
いまからでも、きっと取り消す事のできる言葉なのだろうが……。
「でも、やっぱり。好奇心が勝っちゃうんだよね………どういう人なんだろう。真莢って」
鏡に映る自分の顔は自嘲を浮かべている。
(殺されかけたり、超能力者に会ったり……)
きっと、こんなスリリングな体験はもう無いだろうと夕菜は思う。
(したいとも思わないが……)
夕菜は髪を整えると、鏡に向かってニッコリと笑顔を作った。
「とりあえず……安岡君の言う通り、お父さんに真莢のことを聞いてみなくちゃね」
なぜ陽一が真莢のことを父親に聞けと言ったのか、それがどう言う意味を持つことなのか夕菜にとって疑問だらけである。
夕菜はバスルームを出ると母親がいるであろうリビングへと向かう。
「お母さん」
夕菜はドアを軽くノックしながら開ける。 すると、意外なことに、まだ仕事中であるはずの父親の姿もあった。
「あれ? お父さん、今日は遅くなるっていってなかった?」
「母さんから連絡もらって、あわてて帰ってきた。それで、身体のほうは大丈夫なのか?具合が悪くなっていたりしてないか?」
「だいじょうぶ。このネックレスのおかげかもね」
夕菜がネックレスをつまみながら少しおどけたように元気よく言うと、両親は胸を撫で下ろした。
「そうか。……で? なんでずぶ濡れになんかなったんだ?」
父親の言葉が少しきつくなる。
「えっ……その――そう。その前に、真莢って誰?」
お願い教えてポーズ付きの夕菜の言葉に、父親は動きを止めた。
「かなえ。悪いが席を外してくれないか」
父親の言葉に、心配げな表情を見せながらも、母親は部屋から出て行く。
ドアが、しっかりと閉まったのを確認すると、父親はためらいがちに口を開く。
「……どこで真莢の事を聞いた?」
夕菜ではなく、夕菜に真莢の名を教えた人物に対する警戒心が、ありありとうかがえた。
「学校で」
父親の警戒心を感じ取ってか、答えは必要最低限になり、自然と短くなる。
夕菜の答えに、父親は少々間の抜けた顔をした。
「学校? どうして、学校なんかで……」
困惑した父親の言葉に、夕菜はできるだけ穏便な言い方をしようと試みる。
「真莢の友人らしき人が転校してきて、それで。……それに、あたしが病気になったときにきていた医者の身内みたいだったけど」
「本人がそう言っていたのか?」
「ううん。違うけど、このネックレスのこと知っていたし」
真剣な面持ちで押し黙ってしまった父親に、夕菜は首を傾げる。
「―――友人。あぁ、そういえば、そのネックレスを夕菜にあげるときに、そんなことを言っていたな……」
記憶の糸を手繰り寄せるようにして、思い出した事実に、父親は安堵の表情を見せた。「いいだろう。いずれ、夕菜は沖家を継ぐ人間だし、真莢のことを教えよう。少し、早い気もするがな」
力なく微笑むと、父親は夕菜にソファーへと座るよう促した。
「何から話せばいいのか……。我が家の血筋の者は、乳児の死亡率や病気になる確率が高く、その上、短命であることは知っているだろ」
「知ってる。あたしだって、子供の頃は病気ばっかりしてたし」
そのことが真莢と何の関係があるのだろう。と夕菜は父親の顔をまじまじと見る。
「その原因を考えたことはあるか?」
「……もともと体の弱い家系だから。かな」 夕菜の言葉に、父親はゆっくりと頭を左右に振った。
「そういった見方もできるが、一番の理由は沖家の人間が人魚の末裔だからだ」
呼吸することを夕菜は止めた。
まるで、一瞬時間が止まったかのように。
「本当なの?」
普段なら笑い飛ばしてしまうだろう言葉も、今日のような出来事の後はすんなりと信じられる気になってしまう。
それに自分の父親が冗談を言えるようなタイプの人間じゃないことも夕菜は知っていた。
「本当だよ。おとぎ話のような話だが、沖家の初代の花嫁が人魚だったと言われている。人魚と人間の間に生まれた子供の血を引く私たちは、ずっと、その枷を背負わなくてはいけないらしい」
「どうして?」
なぜ、人魚と人間の間の子供だからと言って、そんな束縛を受けなくてはならないのか。と夕菜は眉を寄せた。
「……沖家の初代が、人魚を裏切ったからだよ。想いが叶わなければ、人魚は愛する人を呪い殺すからね」
「じゃぁ、真莢って……人魚?」
「違う。彼は……人魚の愛を受けた不老不死の人間さ。夕菜、お前に沖家の当主に代々語り継がれてきた話を今から始めよう」
父親は、膝の上で手を組んだ。
その姿はまるで何かに祈るかのようにも見える。
「昔、二人の男が海で遭難し、人魚の姉妹に助けられた。それが、沖家の初代である藤史と真莢だ。
姉の人魚は真莢と、妹の人魚は藤史と恋に落ちた。
同じ人魚と恋に落ちながらも、二人は違う運命をたどることになる。
姉の人魚は真莢に自分の肉を食べさせて、不老不死にし、永遠の時を共に生きようとした。
しかし、妹の人魚は姉とは違い、寿命の短い人間になり、藤史と共に人間の生を過ごそうとした。
最初のうちは四人とも幸せだった。
人魚は繁栄を導くもの。
初代は、元人魚だったものを花嫁に迎えたことで、アッという間に財を成した。
財を成したことが原因かは分からないが、それが導火線に火を付けたことは確かだと思う。
やがて四人の間に破局が訪れた。
いつまで経っても若い真莢。
逆に、老いていく自分。
老いの先に見える死を藤史は恐れた。
そして、藤史は自分も不老不死を手にいれようとした。
それがすべての破局だったんだ。
藤史は姉の人魚を呼び出し、彼女をつかまえて、その肉を食べたんだよ」
父親の言葉に夕菜は目を見張った。
頻繁にみる人魚の夢…若森先輩が救急車で運ばれたときに見た人魚の幻覚。
抉り取られた人魚の腹部。紅く染まった自分の両手。
(血が持つ過去の記憶?)
自分の思考に夕菜は浸りかけたが、慌てて父親の話に意識を集中させる。
「しかし、人魚の意志に関係なく人間が人魚の肉を食べればただの猛毒なんだよ。真莢は、恋人である姉の人魚を失い、妹の人魚は愛する人間である藤史を失った。
死ぬことのできない真莢。人魚に戻ることが叶わない藤史の妻。
彼女の中に流れる人魚の血が、自分を裏切った藤史への恨みを果たそうと、それ以来、沖家に生まれてくるものは、病弱なものばかりになったんだ。
つまり……死んでしまった藤史の代わりに、子孫に人魚の呪の影響が出たんだ。
このまま愛した人間の一族が自分のせいで絶えてしまうことを妹の人魚は悲しんで真莢に頼んだんだよ。
人魚の肉を食べて、不老不死になった真莢の血や肉には消えかけた命を助ける力があってね。その力で助けてやってくれって。だから真莢は今でも沖家の人間を助けてくれているんだ。それと引き換えに、私たちは、沖家の財力と権力で不老不死である彼の身の安全を守るんだよ」
そう言って、寂しそうに父親は……和也は笑った。
嘘は言っていない。
ただ……言わなかった事が、あるだけ。
それ以上のことは、もっと娘が大きくなってから伝えよう。と、和也は息を吐き出した。「で、真莢のことを話したんだから、今度は夕菜が話す番だな」
「え?」
「え? じゃないよ。なんで、ずぶ濡れに何かなったんだ? もしものことがあったらどうする」
父親の追及に、夕菜は……固まった。
「えっ…えっと…………なんか気持ち悪い、眩暈もする」
夕菜はそう言って、ソファーにゴロリと横になる。
慌てた父親が母親の名前を大声で呼ぶのを聞きながら、夕菜はこっそりと舌を出し、心の中で謝った。
(ごめんなさい。仮病です……)
※ ※ ※
部屋にかつぎこまれて、具合の悪いふりをしてベッドに横になっているうちに、夕菜は疲れていたのか眠ってしまう。
「和也、心配すること無い。大丈夫だよ」
誰かの話し声に、夕菜は、ぼんやりと眠りから起こされた。
(……誰?)
「でも、真莢、さっきすごく具合を悪そうにしてたんだ!」
続いて聞こえてきた、父親の不安げな声に、夕菜は仮病を使ったりして『悪かったな』と反省する。
「わかったよ。じゃぁ、コップに水を持ってきて」
ドアの閉まる音。
いまだ目を閉じてる夕菜に、真莢は話しかけてきた。
「仮病なんか使うなよ。和也がかわいそうだろ」
笑みを含んだ、それでいてたしなめるような口調に、夕菜は重く眠い瞼を開いた。
「真…莢?」
「そうだよ。久し振りだね、夕菜」
穏やかに真莢は微笑むと、ベッドの上に起き上がった夕菜の頬に手を触れる。
「ど…うしたの?」
手を触れたまま動かない真莢に、夕菜はとまどう。
「いや…、昔はただの死にかけの子供だったのに、美人に育ったな。って思ってね」
茶化すようにいうと、真莢は夕菜の頬に触れていた手を離す。
伏し目がちに真莢は夕菜を見る。
以外と真莢の睫が長いことに夕菜は気が付いた。
「ずぶ濡れで帰ってきたんだって? もしかして、雪音にやられた?」
夕菜は肯定していいものかどうか戸惑う。 しかし、真莢は夕菜が答えるまでもなく、表情から読み取ったのか、それとも聞く前から確信していたのか、間も置かずに謝ってきた。
「ごめん。オレのせいだね……」
儚げに顔を歪め――気持ちに区切りを付けるように一呼吸置くとポケットを探る。
真莢は薬のカプセルを取り出すと夕菜に渡した。
「いま、水くるし、そうしたら飲んで」
そう言って、真莢は帰ろうとするが、ドアのところで立ち止まると夕菜を振り返った。 真莢の背中を目で追いながら、根拠はないが、なんとなく振り返るとは思っていなかった夕菜は、びっくりして僅かに目を見開いた。「な…なに?」
「……陽一と約束したんだよな。事情説明するって」
夕菜が頷くのを確認すると、真莢は「そうか」と言って廊下へと消えた。
夕菜は、一人になった部屋の中で、ネックレスに触れながら息を吐き出す。
真莢に触れられた頬が、熱かった。
※ ※ ※
真莢は路上駐車してある車の窓をコンコンと叩く。
陽一は熱中していたノートパソコンを閉じると、車のドアロックを解除した。
「お疲れさん」
助手席に乗り込んできた真莢に向かって、声を掛けながら、陽一は後部座席にノートパソコンを置き、その横にある救急箱に手を伸ばす。
「大丈夫か?」
「あぁ。ただの仮病だ。心配いらない」
返された真莢の言葉に、陽一はボリボリと頭を掻いた。
「違うよ。お前のことだよ。今回はどこ傷つけたんだ? 手当てすっからだせよ」
「……どこも傷つけてないよ」
「そっか」
ホッとしたように、救急箱を元の位置に戻す陽一の行動を目で追う。
「心配かけてごめん」
「お前が謝ることじゃないだろ。こっちが好きで心配してるだけだし。それに、心配だけで済んでるんだから、いいほうだろ」
心配が現実になるよりは良い。といって、陽一は笑う。
「昔さ……沖家と縁を切らないのは、生きていく術だと割り切ってるって、陽一に言ったよな」
「言った」
その時のことを思い出したのか、陽一は複雑な顔をする。
「その言葉、取り消す。――違った……オレが、沖家の人間に執着してたんだ」
真莢は助手席に体を静める。
夕菜を間近で見て気がついた事実。
夕菜が男に生まれていたら、自分は、きっと、今もそのことに気が付かなかったろう。と真莢は思う。
「似てるんだよ。夕菜も和也も……それ以前の奴らも……絢音に似てるんだ」
沖家の人間には、絢音の妹の華魚の血が流れている。
血が見せる幻影。
自分はずっと、彼らの向こうに絢音を見ていたのだと真莢は言う。
「それで真莢が救われるんならいいんじゃねぇの? 絢音の身代わりにでも、なんにでもしちゃえ。運よく、夕菜は女だし。ちょうどいいんじゃねぇの?」
軽いノリの陽一の言葉に、真莢は苦笑する。
「そういうわけにはいかないだろ」
「そうか? まぁ、どっちみちさ。どこまででも僕は付き合えるし、気長に生きて、絢音を捜せばいいじゃん」
「そうだな。いまさら急ぐ必要はない…か」
ゆっくりと車は動き出した。
ヘッドライトが路面を照らす。
車は住宅街の中を滑るように走り抜けていく。
人や車の通りがないために、ライトや街灯に照らされるのは塀や電柱ばかりで……それらが異様な存在感を伴い夜に浮き上がる。
ボリュームを絞ったラジオ。
真莢の中に込み上げてくる焦燥感。
根拠なんてない嫌な予感。あえて理由をあげろというのなら、いつもなら人通りがあるのに、今日に限っては猫一匹も見掛けないから……というのが理由かもしれない。
「真莢……ヤバイ」
陽一は急ブレーキをかける。
車が完全に止まる前に陽一の身体が揺らいでハンドルに俯せになるように倒れた。
陽一の様子に、真莢は慌ててサイドブレーキを引いて無理やり車を止めると、足を突っ込んでクラッチを踏みギアを切り替えて、安全を確保する。
一体どうしたのだ? と運転席の陽一に視線を移そうとして悪寒が走った。
「陽一?」
真莢は自分の目を疑った。
陽一の身体には人魚の恋呪が絡み付いていた。
若森に絡み付いていたように、陽一の身体にも墨で書かれた記号のような字が包帯のように身体に巻き付いている。
「冗談…だろ?」
恋呪から感じる波動は、若森に巻き付いていた恋呪と同じ力を発している。
同一の人魚が陽一にも恋呪を仕掛けてきたのだ。
真莢は車から降りると、運転席側のドアを開けて、陽一を助手席へと移動させる。
シートベルトで身体を動かないように固定すると、携帯を取り出して事務所に電話を掛ける。
ワンコールで雪音が出た。
「陽一に恋呪が掛かった。意識が当分戻りそうもないから、海音に安岡家のほうにフォローするように言っておいてくれ」
雪音の了解の言葉がすぐに帰ってくる。
「あぁ、今から事務所に戻る」
真莢は要件を手短に告げると、携帯を切り、車に乗り込んだ。




