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人魚鎮魂歌  作者: 音音
3/11

人魚の晩餐

(…海の香り)

 すん。と梅雨の晴れ間に除いた青空を見上げ、沖夕菜は鼻を鳴らした。

しかし、自分の思ったことに、夕菜は苦笑いを浮かべる。

(海の香り…って行ったこともないのにね)

今年十七歳を迎えるが、夕菜は海に行ったことはなかった。

水族館にも。海と関係する場所に行く事を両親に禁じられていた為だ。

小中学校の臨海学校はもちろん欠席。水族館が組み込まれた遠足も欠席。なぜダメなのか両親は一度も話そうとしなかった。

夕菜も聞こうともしなかった。不満が無かったわけじゃない。

不満だらけだった。

でも、その不満を口にしたら壊れてしまいそうで、両親の愛情が壊れてしまうんじゃないかと夕菜は不安で口にすることが出来なかったのだ。

道路にできた水溜りが、太陽の光を反射してきらりと光る。

夕菜は海に住む人魚の昔話をしてくれた人が居たことを唐突に思い出した。

子供の頃の霞がかったような不思議な思い出。

古来より、人魚の流す涙は真珠に変わり、人魚の肉、食すれば不老不死となる。

御伽噺として語られる人魚の話。

幼いときに語って聞かせてくれたのは誰だったのか。

海が嫌いな両親が、夕菜に語って聞かせることなど考えられなかった。

それに、語って聞かせてくれたその人からは、微かに海の香りがしたから…海に行ったことないのに、なぜか夕菜は、その香りが海の香りだと思った。

人魚の御伽噺を聞いていたからかもしれない。

(あぁ。それ以来、あの香りが、あたしにとっての海の香りになったのかもしれない)

夕菜は意味も無く嬉しくなり思いっきり空気を吸い込んだ。

(懐かしい海の香り…)

妙な事を思い出したなぁ~と夕菜は空を見上げる。幼い時にあった顔も覚えていないその人と、その人が語ってくれた御伽噺。

なんで今頃思い出したのか……。

祖父母には嫌われていたし、というより、両親以外の親族から嫌われていたから、彼らが夕菜のために御伽噺を話してくれたとも思えない。

自分に悲しい人魚の恋物語を語ってくれたのは誰だったのか夕菜は記憶を辿る。

思い出したのは語ってくれた御伽噺だけではなく、自分の頭を撫でる優しい手。

(思い出せないけれど…あたしにとって大切な人)


 ※ ※ ※


 始業のベルは、けたたましい救急車のサイレン音にかき消された。

皆、一様にして窓の外を覗き込む。 

二階にある、その教室からよく見える位置に救急車は止められた。担架に乗せられ運ばれていくのは、沖夕菜の知った人物。

潮の香り……夕菜がそう感じて視線をさ迷わせ、再び救急車の方に目をやると女がいた。

運ばれて行く患者に寄り添う様に宙に浮いている。

女の下半身は鱗に覆われ、腹部は…… 夕菜が目を逸らせずにいると、女は夕菜に向かって艶然と微笑んだ。 

恐怖に夕菜が目を瞑る。

(なんで…夢の人魚が!?) 

心臓の辺りの制服をギュッと握り締めた掌に汗が滲む。

早鐘の様に脈打つ心臓をなだめ様と、ゆっくりと息を吐き出しながら、恐る恐る夕菜は目をあけた。

(幻…幻に決まってる。あんな夢が続いたから幻覚をみたんだ……)

そこに腹部を鮮血に染めた人魚の姿は無かった。

(ほら…居ない。大丈夫)

夕菜は現実を確認するかのように息を大きく吸い込むと、自分の友人達を振り返った。

夕菜と仲の良いグループの女の子達は、一人を除いて教室の隅に集まっていた。

目配せをしながらこそこそと話しているのに気付くと夕菜は顔を曇らせた。

 ――あれ、若森先輩だよ。

 担架に乗せられた生徒の姿に、ある方向を伺いながら内緒話に花を咲かせる。

 ――三人目よ。ヤバいよ怖い。

 聞こえてくる彼女らの内緒話。

夕菜は彼女らの会話が聞こえていないか、野田美由のほうに気遣わしげな視線を向ける。 

自分の席の所で、立ったまま俯いて震えている美由の姿。 窓の外を見るまでもなく、友人たちの会話によって知れた、運ばれた人間の名前に美由は動けずにいた。 

付き合い始めたばかりの彼氏が倒れたことだけで、美由が怯えているのではないことを夕菜は気付いていた。 

夕菜は美由の側に行くと、元気づけるように肩に手を置いた。

「美由。きっと大丈夫だよ。若森先輩、元気になってすぐ戻ってくるって」 

夕菜の言葉に、美由はすがるような視線を向けて、夕菜の肩に顔をうずめる。

「夕菜。……ありがとう」

美由の感謝の言葉の中に混じる、いいしれない怯えた感情。

励ますように夕菜は美由の背を軽く叩く。 触れ合ったところから伝わる美由の身体の震えは、無言のうちに夕菜に語りかけられる美由の不安。

中学の頃から、美由の好きになった男子生徒が死んでしまう。

もし。と夕菜は思う。

(もし、若森先輩が死んでしまったら……)

美由についての酷い噂が流れるだろう。

一人目は運が悪かった。 二人目は酷い偶然。 そこまでは酷い偶然で、まだすませられる。 夕菜は、まだ内緒話をやめない友人たちを振り返った。

三人目が出たら、彼女らは酷い尾ひれを付けて噂をばらまくだろう。

(若森先輩が死んだりしませんように……)

夕菜は祈ることしかできない自分を歯痒く思った。


 ※ ※ ※


 銀座のガラス張りのビルの七階にあるテナント名はマーメイド探偵社。 

いくつかの部屋に分かれたオフィスは、事務所。書庫。私室などに使い分けられていて、先日まではマーメイド設計事務所の名前があった場所だ。

この階のテナントは頻繁に名前が変わることで同じビルの人間には良く知られていた。 

しかし、名前が変わっても経営者はかわることがなかった。 

学生に間違えられることもある若い外見の経営者の名前は杉浦真莢。

今現在の彼の表向きの肩書きは探偵事務所所長であるが、彼の持つ名刺にはそういった肩がきは書かれていない。

設計事務所のときも、それ以前の会社のときも、彼の名刺に会社名が印刷されることはなかった。名刺には彼の名前と『人魚鎮魂歌師』の文字。

彼が名刺を持つようになってから、ずっとかわらぬスタイルである。

「真莢様。昆布茶がはいりました」

小さな顔に大きな瞳や小さな唇などがバランス良く収まった少女が、テーブルの上に広げられた地図を寄せて、ウエッジウッドのティーカップを置く。

ティーカップを置くときに揺れた、顎のラインでそろえた緩やかなウエーブのついた青みがかった髪からは甘やかなシャンプーの香りが漂い、真莢の鼻孔をくすぐる。

「海音。シャンプー変えた? なんか懐かしい良い匂い。どこのメーカ?」

「チャイルド社の『Yes』っていうシリーズのナンバー9ですよ」

「そっかー。チャイルド社ね」

「真莢様。言っときますけど、このシリーズは女性向けのものですよ」

海音の釘を刺す言葉に、真莢は顔をしかめる。

「海音、男性差別はいけないよ。うん」

真莢はそう言うと、海音にニッコリと笑いかける。

「だからさ、今度は俺の分も買ってきてね」

語尾にハートマークが付いていそうな雰囲気の言葉に海音は困ったように眉を寄せた。

それから真莢はシャンプーの話をしていたときとはうってかわって真面目な顔をすると、仕事の話を始める。

「海音。南郷高校への俺と陽一の転入手続きを頼む。それと、ここ一・二年の内に死亡。現在病気療養中の生徒と教員を調べて。それと校内で流れている噂話の収集を頼む」

「わかりました。噂話のほうは少々時間を頂きますが、他のことは三十分以内に報告できると思います」

真莢の言葉に海音は早速行動を開始しようとするが、なにか思い当たることがあったのか自分の机のほうに向かいかけたところで、急に真莢のほうを振り返る。

「真莢様。南郷高校と言いますと、沖家のお嬢様が通ってらっしゃる学校ではありませんか?」

「そうなんだよねー。七年目の再会ってことになると思うんだけどね。もしかすると元凶に関わってるか、それとも元凶になってるかってことがありえそうでねー」

歯切れの悪い真莢の言葉に、海音は目を伏せる。

「今までに沖家の方に、そのような方はいらっしゃったんでしょうか?」

「いないんだけどね……」

昨日見た、水の波動を纏った、夕菜の姿が脳裏にちらつく。

「でしたら、元凶になっていることは無いのでは」

元気づけるように、できるだけ明るく言う海音の言葉に、真莢は渋い顔をした。

「それがさ、沖家の直系では今まで女が生まれたことないからさ……なんとも言えないんだわ」

「一度もないんですか?」

「うん。沖家とは殆ど血の繋がりが薄れているような末端の分家になら何人か女が生まれてはいるんだけどね。それだって両手で数えられる程度だし……沖家の血が直系とは比べようが無いくらいに薄まっているから、彼女らを直系に当てはめて考えるのは無理があるしねー」

間延びした語尾のあとに、真莢は盛大な溜め息を付く。

「沖家のお嬢様のことも、お調べ致しましょうか?」

海音の言葉に真莢は数十秒沈黙した後、重そうに首を振る。

「いいよ調べなくて。先入観を持つのは良くないし。彼女が元凶かどうかは、その内わかるから。たぶん……それからでも遅くはない」

めずらしく頼りない言葉で真莢は口を閉じる。

「わかりました」

海音が仕事に取り掛かろうとしたところで勢い良くドアが開いた。

「マーメイド探偵社? 設計事務所はやめたのか?」

ぶつぶつ言いながら、額にかかった濡れた髪をうっとおしそうにかきあげて、背が高く、外見は中性的イメージの強い青年が入ってくる。 真莢の仕事を手伝っている仲間だ。

「いったいどうなさったんですか? 陽一様」

濡れ鼠と化している陽一の姿を見て海音は首をかしげる。

「外、雨が降ってきた。海音さん、タオルちょーだい。ビショビショだよもう」

少しでも体に付いた水滴を払おうと、手で服をはたきながら陽一が部屋の中へと入ってくる。

「陽一様。タオルと一緒に、真莢様のでよければ着替えもお持ちしますが?」

「そうしてくれると助かるよ。やっぱり、海音さんは気が利くよね」

陽一は、そう言と濡れた格好のままソファーに、べしゃっと座る。

「本当。おまえって気が利かないよな」

濡れたままソファーに座った陽一に冷たい視線を送りながら真莢は言う。

「なにが?」

そんな真莢の言葉を意に介した様子もなく、陽一は真莢の飲みかけのティーカップを手に取ると一気に中身を口に入れて、口の中に入れた液体をティーカップの中に吐き出した。

「汚いなー」

「真莢……これ、何?」

陽一は吐き出したティーカップの中身を指し示して尋ねる。

「昆布茶だよ」

真莢の答えに、陽一は動きが止まる。

「あのな、なんでティーカップで昆布茶なんか飲んでんだよ! あー! しかも僕が贈ったウエッジウッド! お前、どーいう感覚してるんだよ。昆布茶は湯飲みで飲めよ!」

「ふっ。陽一、甘いな。いついかなるときも探偵はティーカップでお茶を飲むものなんだ」

半ば陶酔したような真莢の言葉に陽一は顔をしかめる。

「真莢ー。お前さ、何か、また変な本読んだろう?」

陽一の言葉に今度は真莢が顔をしかめた。

「変な本とは失礼な。リオーマの探偵小説。ファジー・シリーズだ。あれは名作だぞ! なんといっても、名探偵ファジーが凄いんだ」

真莢の力説を無視して、陽一はタオルと着替えを持ってやってきた海音に礼をのべて受け取る。「ありがとう、海音さん。それとさ、ここ、いつから探偵事務所になったの? 一昨日までは設計事務所だったでしょ?」

まだ、熱くペラペラと語っている真莢を尻目に陽一は海音に尋ねる。

「今朝です。昨日の夕方に以前に買い求めた本をお読みになられて、いたく感動されたとかで……」

「感動ねぇー。設計事務所にしたときは、テレビ番組の建築名探偵とかいうやつを観て、設計事務所にしたんだよな……」

「はい。その前は、旅行代理店でした……」

海音は申し訳なさそうにいうと俯いてしまう。

「海音さんのせいじゃないんだから気にすること無いよ。それに、名前だけで本当に経営してるわけじゃないから。真莢の好きにさせてやろう」

陽一はそう言うと、人好きのする笑顔で海音に笑いかけた。

そこに、我に返った真莢が口をはさんだ。

「あーそうだ。陽一、お前明日から南郷高校に転入だから」

「お前……また、ただ働きさせる気か」

「いいじゃん。どうせ暇なんだし」

「いい性格してるよ。あーもしかして昨日のか?」

 軽く頷く真莢をみて、じゃぁ仕方がないかぁ。と、陽一は軽く肩を竦めた。


 ※ ※ ※


 深夜。真莢は白衣を身に付けた格好で柏太総合病院の集中治療室の前にいた。 救急指定になっている大きな病院は深夜だからといって、すべての出入り口に鍵がかかっているわけではない。 現に、夜間外来は開いていて、誰かがうろうろしていても不自然に思われないくらいの患者が訪れてきているのが常だ。

そのため、侵入するのは難しいことではないが、それでも簡単には中まで入ることは出来ない。そのため真莢は別のルートで忍び込むつもりだったのだが、用意周到がモットーの海音が、何も告げずに出かけようとしていた真莢をつかまえて白衣と一緒に合鍵を渡してくれたため、この方法での侵入に切り替えた。

真莢は息を潜めるように病室の中へと入る。

酸素マスクや点滴のチューブ。

名前も目的も素人には分からない機械につながったコードが、患者の身体には付けられていた。そして、そんなものを無視するように患者の身体に絡まっている黒い包帯……いや、梵字に似た様な記号的な字が帯状に連なっているものが身体に巻き付いているのが真莢には見えた。 

普通の人間には見えることのない代物だ。

意識不明の重体。しかも原因は不明。それが患者を襲った突然の病だが、そのすべての原因は、この身体に絡まっているもののせいだ。

真莢は念の為、患者の顔を確認する。精気というものが失われた顔だが、資料で見た写真の人物。ベッドに横たわっているのは間違いなく若森昌己わかもりまさき。南郷高校に在席している生徒だ。 

真莢はポケットからカッターを取り出すと、刃を自分の指先にあて、傷を付ける。

酸素マスクを外すと、流れでた血を若森の口の中へ数滴ほど落とした。

「我の意思によって汝に与えん」

そのまま手をかざして祈るように真莢が呟くと若森の身体が淡い光に包まれる。

光が消えると、若森の頬はピンクに色付き生気が満ちていた。意識はないものの健康体を取り戻したようにみえる。

「ごめんな。今はこれくらいしかできない。恋呪れんじゅだけは解くことは出来ないんだ。でも、原因の人魚を見つけて必ず助けるから……」

真莢は外していた酸素マスクを若森に付け直すと、病室を後にした。


 ※ ※ ※


 同時刻。灯かりの消えた部屋で、夕菜の親友である、美由はぼんやりとしていた。

「美由?」

名前を呼ばれて、美由はビクリと身体を揺らした。 

その驚きは、もう寝ているとばかり思っていた姉に声を掛けられたためか…… 

それとも―――

「どうかしたの? 泣いていたみたいだけど」

「大丈夫。先輩のことが心配でちょっと寝付けなかっただけ。もう寝るわ」

美由は、見えるはずもないのに作り笑いを浮かべた。

「おやすみなさい。お姉ちゃん」 

始業のチャイムが鳴る二十分前に夕菜は教室に駆け込んだ。 

クラスメイトたちと気軽に挨拶を交わしながら自分の席につく。

(美由はまだ来てないか……。もしかすると休みかな? 昨日、具合悪そうだったし)

美由のことを学校で一人にはしておきたくなくて急いできたので、美由がまだ学校にきていないことに夕菜は安堵する。 

昨日は、美由が早退してしまったことが噂の進む速度に火をつけてしまった。

美由がいないことで遠慮なく教室に噂がばらまかれたからだ。

夕菜は、朝の教室で囁かれる噂。美由への中傷に溜め息をつく。 

周囲のネガティブな感情が、幼い過去に浴びせられた言葉の数々を夕菜に思い出させた。

『いやよね。不吉だわ。沖家の直系に女の子だなんて』

『やっぱりあれだな。千花の家から嫁取りしなかったから』

『沖家はこれからどうなるのかしら』

『沖家に女だなんて本当に気持ち悪い子』

『そういうな。女だが一応、あれも直系で跡取りだ。そう、邪険にすることもないさ』

『ねぇ。あの子、このまま死んでくれないかしら』

 幼いから意味が分からないとでも思ったのだろう。

目の前で、影でささやかれる言葉。

彼等のことを憎むよりも先に、母も同じように傷つけられているのでは……と心配になった幼い時。今は昔ほど身内からの風当たりも強くはなくなったと夕菜はぼんやりと思う。

(違うか…あたしが逃げてるから…聞こえてこないだけか…)

ため息一つとともに、鞄を机の上に夕菜は置いた。


 始業のチャイムが鳴るぎりぎりに美由は登校してきた。

美由が教室のドアを開けると同時にざわめきに満ちていた教室が静まり返る。 

美由の不安そうな顔。夕菜はわざと大きな音を立てて椅子から立ち上がると、その場から美由に声をかける。

「美由。今日遅かったじゃない」

いつもと変わらない夕菜の笑顔に美由は胸をなでおろし、少し元気がないが安心した笑顔を夕菜に返した。

美由が席につくと見計らったように担任が教室に入ってくる。 

担任の後からは転校生らしき男子生徒がついて来た。 

どこか中性的な雰囲気を持った青年。 

夕菜は転校生が教室に入ってきたとき、教室を見回し、ある一点で視線を止めたのに気が付いた。

しかし、ふいっ。とすぐに何事もなかったかのように視線は逸らされた。

転校生は、じっと視線を据えて美由を見ているわけではないのだが、美由に全神経を向けているように見えた。

(なぜ美由を見ているのだろう?) 

沸起った疑問の波を擦り抜けるように、夕菜の琴線に何かが触れた。

美由に注意を払っていることとは別のことで夕菜は転校生から視線をそらせなくなる。

記憶の隅にある、忘れてはならない何かが、大切な何かが、青年を見ていると刺激されるのを感じたのだ。

(誰? 違う。あたしは知ってる? この人と会ったことがある?)

夕菜の視線を感じたのか、美由に神経を向けたまま、青年はさりげなく夕菜の顔を見た。

瞬間。彼はハッとした顔をする。

夕菜はその一瞬を見逃さなかった。

(あの人は、あたしのこと知ってる……)

信じていい直感だった。

しかし、突然の転校生という嬉しいニュースにざわめく生徒を先生が落ちつかせた後に、紹介された転校生の名は、夕菜には聞き覚えのないものだった。

安岡陽一やすおかよういち

黒板に白チョークで書かれた字を夕菜は難しい顔で、授業が始まり名前が消されるまで見つめ続けた。

美由を一人にするのは気が進まなかったが、昼休みを利用して訪れた二年の教室に夕菜は知っている先輩がいるのを確かめると、ドアの側にいる人に呼んでくれるように頼む。

美由のためにも、どうしても確かめたいことがあるのだ。

しかし、僅かな期待は簡単に裏切られた。

「原因不明……ですか?」

同じ部活の先輩から聞き出した情報に、夕菜は色を失った。

三人目だ。 頭の中を過ぎっていく考えを『まだ若森先輩が死んだわけじゃない』と即座に否定してみるものの、彼がこれから死なないという保証にはならないのを知っていた。

「夕菜ちゃん。あのさ、美由ちゃんの変な噂聞いたんだけど……あれって本当なの?」

問い掛けは控え目だけれども、好奇心丸出しの部活の先輩の表情に夕菜は嫌悪感を覚える。

「嘘ですよ。美由とモメてる子が嫌がらせに流してる噂です」

きっぱりと言い切った夕菜に『そうだよね。そんなことあるわけないよね』と残念そうに笑う。夕菜はお礼を述べて二年の教室を後にした。

最後まで自分は美由の味方であるつもりだった。彼女は夕菜にとって大切な友達だし、いつか今のことも時間が経てば思い出に変わってしまうようなことであればと思っている。

(美由を疑ったことは一度もないけれど)

信じているけど、それでも考えてしまうのだ。

(呪いなんてばかばかしい。ふざけてる。そんな事あるわけないのに)

そうは思っても、何かが考えさせるのだ。

(若森先輩。このままじゃ三人目になる)


 血が騒ぐ。

 頭のどこかで、身体のどこかで鳴り響く。

『美由の側にいてはいけない』という第六感の警告を夕菜は無視し続ける。

突然、夕菜は厳しい視線を感じて、いま来たほうを振り返った。

自分がさっきまで居たところ。二年の教室のドアの前に安岡陽一が立ち、こちらを見ていた。 値踏みするような視線。

(な……に?)

好意的とはいえない視線に夕菜は思わず立ちすくむ。

夕菜が動けずにいると、陽一は視線を外してドア近くにやってきた人間と向き合った。

陽一に教室の中の人間が何かを話すと、彼は軽く頭を下げてその場を去っていく。

去り際に、もう一度、夕菜のほうを見たときの陽一の視線が夕菜は怖かった。


 ※ ※ ※


「真莢」 

自分を呼ぶ声に、真莢は閉じていた目を開いた。

学園の裏庭にある噴水の縁に横になっていた身体を、腕を引っ張られるようにして起こされる。「陽一。何か判ったか?」

真莢は気怠げに陽一を見上げた。

「転校初日から授業サボって昼寝とはいい度胸じゃねえか」 

棘のある言葉に、真莢はへらっと笑う。

「疲れててね」

「ほーう。じゃぁ夕菜についての報告なんて聞ける状態じゃないかぁ」

「……冗談だって。ほら元気だろ?」 

笑顔でとぼける真莢に陽一は舌打ちをする。

「よく言うぜ……。夕菜はラルムの持ち主じゃねぇな。あれはシロだよ。視線感じて、そっち見るまで夕菜が教室に居るの気付かなかったし」 

陽一は頭をポリポリと掻く。

「海音さんの報告通り、一番怪しいのは、三人目の被害者の、彼女である美由だな。教室に入ってすぐに美由から人魚の匂いがしてるのがわかった位だ」

「……そうか」 

どこか不満げな真莢の態度に、陽一は空を仰ぎ見る。

「不満そうだな」

「そう言うわけじゃないさ。ただ、恋人同士の関係にまでなれていたのに、恋呪が発動するかなって疑問がね」

「まぁ、恋呪の基本は『報われない想い』だからな。確かにそうだよな。もう少し美由のこと探ってみる……あぁ、それと。これ今朝、事務所に寄ったときに海音さんから頼まれた」

陽一は思い出して、小脇に抱えていた紙袋を真莢に渡す。 

真莢が紙袋の中を見ると、青い布に包まれた弁当箱が入っている。

「もう昼か?」

「時間の感覚がないくらいに熟睡してらしたワケネ」 

陽一の呆れた声に、真莢は微苦笑を浮かべた。

「昨日、徹夜で動きまわってたから。昼飯、一緒に食うんだろ。お前の分も入ってる」 

紙袋の中に入っている二つの弁当箱を取り出しながら同じ青い布で包まれている片方の弁当箱を陽一に渡す。

「知ってる。もちろん僕の分は貰ってく。海音さんの料理旨いし」

「一緒には食わないのか?」

「そっ。ちょっと、一緒に食いたい奴がいてね」 

意味ありげに笑う陽一に、真莢は肩を竦めた。

「まぁ、がんばってらっしゃい」 

陽一を見送って、真莢は寂しげに溜め息を付く。

「一人で御飯っていうのは……寂しいかも」 

そう一人ごちると、いきなり背後から首になにかが巻き付いた。

「うわっ!」 

真莢はバランスを崩して背後から噴水の中に落ちそうになるが、水の中へ落ちるはずの背中は柔らかいものに寄り掛かるようにして支えられた。

「真莢様」 

耳元で聞こえた、はつらつとした少女の声に、真莢は疲れたような溜め息をついた。

雪音ゆきね……」 

首に巻き付いている、冷たく冷えた雪音の腕を外すと、真莢は噴水の中の雪音の姿に、額を押さえた。

「海からここまで空間を渡ってきたな?」 

噴水の中。緩やかなウェーブのかかった長い髪。勝ち気な瞳の少女の下半身は、魚の半身のように鱗に覆われ尾ひれもついていた。 

それは昔話の人魚の姿。

「誰かに見られたらどうする気だよ」

「大丈夫ですって。見られても、真莢様がなんとかしてくれるんでしょ?」

「まぁ……そうなんだけどさ……」 

真莢の言葉に満足げに微笑みながら、そんなことはどうでもいいというように、雪音は言葉を紡ぐ。

「それより。あたしが一緒にお昼します」

「は?」

「さっき、一人でお昼たべるのは寂しいっていってたじゃないですか」

「あぁ……でも、その前にお前を人間の姿にしなきゃな」 

真莢は、困ったような表情で首に掛けているペンダントを取り出した。


 ※ ※ ※


陽一は、海音の特製弁当を手に、校舎の中をさまよっていた。

「教室で食うわけねぇし……やっぱ、人気のないとこだよなぁ」 

ぶつぶつと独り言をいいながら、陽一は目当ての人物を捜す。 

美由と当然一緒に弁当を食べるはずであろう夕菜は、四時間目が終わると同時に教室を出た後、二年の教室の前で夕菜だけを見掛けた。

「ぜったい、どこかで美由一人で飯食ってるはずなんだけどな……」 

もっとも、教室を出る前に夕菜が美由に何か話しかけていたから、あの後、二人がどこかで待ち合わせをして一緒にお弁当を仲良く食べているということも考えられるのだが、その時はその時だろう。と陽一はできるだけ前向きに考える。

「人気のないとこ……屋上かな」 

今の時期、木枯らし吹く屋上なら人気もない。 

ただ、問題は、人気がないからといって、そんなとこで弁当を食べたいかどうかだ。

「まぁ、行ってみる価値はあるでしょ」 

陽一は屋上へと続く階段を上った。 屋上へと出るドアを開けると、ドアが開いた音に気付いて、視線を向けた美由と目が合う。

「ビンゴ」 

美由には聞こえないように、呟いた。 

しかも、ラッキーなことに夕菜の姿はない。

「あれ、先客がいたか。たしか、野田…美由さんだよね?」 

だれも人がいないと思っていたような様子を装って、陽一は美由の側へと寄り、屋上で美由と会えたことを心の底から喜んでいるような笑みを浮かべる。 

「うん。すごいね、もうクラス全員の名前覚えたの?」

「女の子限定だけどね」

陽一はおどけたよう言ってニッコリ笑う。 

今日きたばかりの転校生ということで、美由の態度も他のクラスメートに接するときよりいくぶん柔らかい。 

あいかわらず好意的な口調で陽一は話しかける。

「一人?」

「ううん。……夕菜が後からくるの」 

美由の言葉通り、彼女のしゃがんでる側には二つ弁当箱が並んで置いてある。

「じゃぁ。それまで、僕ここで弁当食っていていい? 教室だと女の子がうるさくって」 

うんざりしたような陽一の声に、美由はクスリと笑う。

「たいへんだね」 

美形の転校生ということで、女子生徒が、かなり盛り上がっていたのは美由も知っている。

「たいへんすっよ。身長、体重、生年月日はいいとして、すきな女のタイプだとか食い物だとか、好きな色だとか……」 

陽一は指を折りながら、あと何を聞かれたっけと思い出すが、面倒になったのか頭を掻くと軽い笑みを浮かべて肩を竦めた。

「んなの一言じゃ言えないじゃん? 教室じゃゆっくり弁当も食えそうもないから屋上に避難ってね」

そう言って片目をつぶって陽一は愛嬌をふりまいた。


 ※ ※ ※


「はぁー」 

夕菜は重い溜め息を吐き出す。 

急がなくてはならないのはわかっていたが、自然と足取りはゆっくりになる。

(若森先輩のこと何て言えばいいんだろう)

 途中、購買部によって買ってきた二人分のジュースを手に、夕菜は再び溜め息をついた。

いくらゆっくりでも、歩いていれば目的地に着いてしまう。 

若森先輩のことをどう言えばいいか答えが出ないままに着いてしまった屋上へと続くドアの前で、気持ちを切り替えるように深呼吸をする。 

ドアを開けると、美由の楽しそうな笑顔が目に飛び込んできた。 

それと、美由の隣にもう一人。

(安岡陽一? なんであいつがここにいるワケ?) 

夕菜がドアの所に立ちつくしていると、陽一が美由より先に夕菜の存在に気が付いた。「じゃぁ、僕。弁当食い終わったし、そろそろ行くわ」

陽一はそう言って立ち上がると、美由に手を振ってドアのほうへと向かう。

そして、ドアのところに立ちつくしている夕菜の前で足を止めた。

「へーぇ。ちゃんとコレつけてんだ」 

実に楽しそうに、けれど嫌みったらしい言い方で、陽一は夕菜の胸元に光る、桜の花弁を思わせる石で飾られた銀の鎖のネックレスを見る。

「え?」

 陽一の言葉に、夕菜は訝しげに眉を寄せた。 

夕菜の胸元を飾る、このネックレスは幼いときに貰ったものだ。

それ以来、お風呂に入るときも、寝るときも肌身離さず付けている。

そういう約束なのだ。このネックレスをくれた人との約束。

「まっ。大切にされるのは悪い気はしないけどね」

いうだけいうと、陽一は夕菜の横を通り過ぎて階段を下りていった。

(どーいうこと?)

 夕菜が混乱していると、立ちつくしたまま動かない夕菜を心配して、美由が側によってきて夕菜の顔を覗き込む。

「夕菜。どうかした?」

「えっ…ううん」

 慌てたように頭を振る夕菜を、僅かに不審がりながらも、美由は笑顔を作る。 自分が夕菜にすべてを話していないように、夕菜にだって人には言えない事。簡単には言えないことがあるのだ。

「早くお弁当食べないとお昼休み終わっちゃうよ」

 美由の急かす言葉に、夕菜は自分が手にしていたジュースのことを思い出した。

「ごめん。用事すませたあと、待たせちゃったおわびにって思ってジュース買いに購買に寄っていたら混んでて……遅くなっちゃったの」

夕菜は美由の分のジュースを渡す。

「ありがとう」

「あれ? もしかして、美由、お弁当たべないで待っててくれたの」 

開けた様子のない美由の弁当箱に気付いて、夕菜は本当に待たせてゴメンっていう口調で言う。「だって、二人で食べたほうが美味しいじゃない」 

恥ずかしそうに言う美由を、夕菜はふざけ半分、嬉しさ半分で抱き締めた。

「くぅ――美由ってば可愛いヤツ」

 屋上に少女たちの笑い声が響いた。





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