第八十一章 運命を知った男(前編)
レースのカーテンがひらひらと舞っていた。体感温度は絶妙に心地よく感じるはずなのに、男の肌には汗がひしめいている。寝苦しい睡眠を終え、むくっと裸の上半身を起こす。
「またあの夢か…………」
何度同じ朝を迎えただろう。忘れたはずなのに。
悲劇があった。もう五年くらい経つ。妻と息子が自動車事故に遭い命を落とした悲劇。
あの日を夢で見てしまう。
(いつになったら解放されるんだ………)
悪夢にうなされる日々は男を憔悴させていた。
ふと時計を見ると、出社までまだ事故があった。
男は夕べの酒が残る身体に鞭を打ちシャワーを浴びに行く。
熱い刺激に身を委ねた後は、慣れない手つきで朝食を作り一人テレビと向き合い食す。
うんざりするほど毎日誰かが望まれない死を遂げる。エンターテイメントを届けるはずの文明の品も、そんな情報しか流してくれない。
インスタントのコーヒーを入れ、出社までの時間を過ごす。
時間になり、スーツを纏って一端のサラリーマンを演じに出社する。
「おはよう。」
会社に入ると、広いロビーの真ん中を陣取るエレベーターの前にいた女性が挨拶をして来た。
「九藤…………」
「もう!おはようくらい言ったら?」
九藤美咲は男の同級生で、小学校から高校まて一緒だった。美咲は大学へ進学したが、男は高校を卒業後、今の会社に入社した。一流企業に高卒で入れたのは、死んだ妻のコネクションだった。
「そんな気分じゃないんだよ。」
美咲は社内切ってのキャリアウーマン。才色兼備で周囲の男からは高嶺の花に思われている。そんな美咲が男には普通に声を掛ける。エリートではない彼がなぜ美咲から毎朝声を掛けられるのか、誰も納得は出来なかった。
しかしながら、男も社内切っての美男子には違いなく、会社での立場を抜けば似合いのカップルに見えた。
「今朝もうなされた?」
事情は美咲も知っている。
「……………………。」
無言で返す。
いつもより早く起きたからか、少し眠い。
エレベーターは男の職場の階で止まり、男は降りる。
「今日も頑張ってね。」
美咲を振り返る事なく職場へ向かった。
17時のベルが鳴っても帰路に着くものは少ない。
男もその一人で、帰りはいつも遅かった。
一日の仕事を終え、会社を出たところに美咲がいた。
「お疲れ様。いつも残業大変ね。」
高嶺の花にこんな健気な一面があるとは誰も思わないだろう。
「なんか用か?」
「ご挨拶だなあ。ま、その素っ気ない態度が昔っからモテる理由なんだけどさ。」
「いつの話だよ。」
「昔。」
「……………………。」
「ウフッ。困った顔もかわいいんだよね。」
「からかってんのか?」
美咲は男を気遣かってるだけだ。
「ねえ、一杯飲んでかない?」
「遠慮する。」
素っ気ない態度を続けたまま美咲の前から姿を消した。
「う〜ん…………攻略の難しい人ね。」
長年の好意が報われる事を祈るしかなかった。
(毎日よく飽きずに声をかけて来るもんだ。)
真っ直ぐは帰宅しなかった。
男は公園で一人星を眺め、昔から変わらない美咲に感心していた。
もし過去に戻れたら…………あの悲劇を止められるだろうか?
突然頭をよぎる。いつもだ。
こんなんだから悪夢から解放されないんだ。と自分を責める。
「もう終わった事だ…………悲しんでばかりいても戻っては来ない…………わかってるのに………くそっ!」
悪夢を見た日はいつも情緒不安定になる。
池を囲う柵を蹴る。鈍い音が自分を笑っているように聞こえる。
静かに波打つ小さな池。月が水面に映る。
「……………!!!!」
月が………池から飛び出した。
違う………月じゃない。光る丸い何か。
男は見入ってしまう。
光はゆっくり上昇を続ける。
「な……………なんなんだ…………」
幽霊の類かとも思ったが、それにしては神秘的過ぎた。
後ずさろうと石につまづき尻餅をついた。転んでしまうような石ではないのだが、怪奇現象のせいで足腰に力が入ってなかった。
光は男の前まで滑空し、品定めでもしてるかのように佇む。
そして、強い輝きを放ち男を誘った。
「…………ここは………?」
青い空間にいた。尻餅をついたままなのだが、地面があるのかどうかわからない。視覚を頼る限り宙に浮いてるようにしか見えない。でなければガラスの床が高密度で敷かれているか。
「……………………………。」
異変が起きたのは間違いない。
周りにはモニターらしきものが無数無限にある。そこには今時の映像技術でも叶わないくらい細かい映像が流れている。
驚きは止まらず、モニターを触ろうとすると、手が擦り抜けた。
「馬鹿な……………」
何度やっても結果は同じ。
触れる事は諦め、仕方がなく映像を眺める。今日一番の驚きがあった。
「美智子……………………」
映像のひとつに、死んだ妻と息子が映っている。それは………男が目にする事はなかった悲劇の瞬間。
「美智子っ!!!!」
無惨に横たわる妻とまだ幼い息子。人だかりが出来、懸命に介抱してくれてる。知らない顔の人達が、必死に自分の妻と息子を助けようとしている。
悲しみと、人の優しさが胸を打ち、涙と共に崩れ落ちる。
「愛を思い出したか…………」
後ろに気配もなく近づいた男がいた。
「悲しみは人を強くする。だが人を弱くするのもまた悲しみだ。」
「………誰だ?」
真っ赤な髪に真っ赤な瞳。真っ黒な鎧と角。まるで悪魔だ。
「余が誰であるかの前に、お前は自分が誰か知っているのか?」
「俺が………誰かだと?」
「そうだ。悲しみに囚われ、その背なに背負った運命を見失うな。」
「何者だ………お前……」
赤い髪の男は言った……
「魔帝ヴァルゼ・アーク。魔界の神だ。」