第三十章 闇王と冥王
黄泉の国。もっとオーソドックスに言えばあの世。闇王ベルゼブブ・神藤愛子はそこにいた。
彼女も自分がどこに迷い込んだのかは充分理解している。
よく死の境をさ迷うと、三途の川を見たと証言する人がいる。辺りは見たこともない綺麗な花が咲き乱れ、川を渡ろうとすると親類や友人、はたまた恋人辺りが行くなと声をかけて引き止めてくれるらしい。
しかし、それらの証言は脚色が強すぎる。実際の三途の川は、白いミスト状態の死魂の群れなのだ。
辺りにも綺麗な花が咲き乱れる風景はない。もちろん、一般的イメージな石を積み上げるような場所でもない。白いミストを挟んでいる風景はただの闇。
死者の世界には人間だけが来るわけではない。神も天使も不死鳥族も、そして悪魔も。思考を持ち、罪の意識という抽象的な概念を考えられる生命体は全て死ぬとここに来る。
まあ、概念というのは抽象的なものだが。
いわゆる仮死状態の者は、三途の手前に幽体(肉体はないが、自分自身の姿をとどめた状態。)で来てしまうから、記憶や思い込みによっていろんな風景に見えてしまう。比較的花が咲き乱れてるシーンが多いのは、人の歴史が始まった時代を深層意識の中に見ているからだ。
通常なら生きたままで死魂の群れを越える事は不可能だ。
死魂の群れを越えられる者は、種族の長と、その加護を直々に受けている者のみ。レリウーリアに関しては、種族の長はむろんヴァルゼ・アーク。その加護を直々に受けているのは十三人の部下達。愛子が死魂の群れに捕まらないのは、そういう理由からだ。
そして、人間が生きて三途を渡れないのは、種族の長が存在しないことにあった。他の種族から下等な扱いを受けるのも、しかたがないのかもしれない。
悪魔が本来棲息する魔界と、死者を管理する黄泉とは深い関わりを持つ。
そういった事も手伝って、愛子は黄泉の国をぐいぐい奥まで進んで行く。
目指すは黄泉の国の王であり、冥王と呼ばれる神族の者。ハーデスだ。
黄泉の国との深い関わりの一つに、ケルベロスを貸し出ししている事がある。
人材の乏しい黄泉の国の番犬として、気が遠くなるほどの昔にヴァルゼ・アークが貸したのだ。ボランティア精神という事はないだろうから、なんらかの交換条件はあったのだろうが、それは当人同士にしかわからない。とりあえずケルベロスを一旦返してもらえばいい。試練クリアのフラグを立たせる為に。
「何年ぶりかしら。ハーデスに会うのも。」
あまりいい思い出はないというのが率直な意見だ。
前に来たのは千年よりずっと昔。ケルベロスを引き渡す時に来たのが最後だ。
だいたい黄泉の国になんて、そう何度も来たいとは思わない。
ハーデスのオーラが蔓延していて息が詰まる。
ハーデスの住む城へ入る。
手下はいない。まるっきりとは言わないが、いるのは思考回路を持たない骸骨の兵士が少し。
「珍しく客が来たと思えば、お前かベルゼブブ。」
ハーデスの姿は見えない。
まだ城へ入ったばかりなのだが、それでも微細な気配でわかるらしい。
「ヴァルゼ・アークはどうした?ここへ来る時はいつも奴がいたはずだ。」
ハーデスの問いに答える事なくひたすら歩く。
たまにすれ違う骸骨兵士が愛子をにぶつからないように避ける。
思考回路が無いのに逆らえない相手はわかるのは立派なもんだ。
「闇王ともあろうお前が黄泉の国まで足を運ぶとは……緊急の用事か………?」
答えを期待しないのか、かまわず話し続けてる。
「まさかヴァルゼ・アークに何かあったわけではあるまい。そういえば………死魂の中に悪魔の魂があったな。その事と何か関係があるのか?」
ローサの魂だろう。ハーデスが気にしなかった事を考えると、もうローサの魂は消去されたかもしれない。
愛子は階段を登り、高所にある渡り廊下を進む。
吹き付ける風が周りに立てられた燭台の火が揺らす。消さない程度に。
「それにしてもその姿はどうした?気配でお前だとわかるが、見た目はまるで人間ではないか。」
その通り。今はベースが人間なのだから当たり前だ。
「クク。忘れてたよ。お前達は千年前の天使との戦いで敗れたのだったな。にも関わらず、黄泉の国へ来なかったのは魂だけ生き残ったのか。さすがヴァルゼ・アーク。力に限界が無いと見える。肉体は無くとも存在出来る方法を知っているのか。」
「お喋りは相変わらずね、ハーデス。」
辿り着いた。黄泉を支配する支配者のところに。
カーテン一枚の向こうにハーデスがいる。
「もう何千年も一人だからな。客が来れば話したくもなる。」
念力の一種だろうか。カーテンが左右にゆっくりと開く。
愛子は黙って睨み据える。黄泉の支配者を。
「人の事は言えないわね。貴方のその姿も滑稽極まりないわよ。」
ハーデス………彼の容姿は二歳か三歳くらいの少年だった。
服装は現代の人間界の服を着ている。頭にはキャップ。黒淵の眼鏡をかけて、玉座に座っている。
「人間の世界はお気に入りでね。飽きないよ。」
「遊ぶのも結構だけど、黄泉の国の仕事は出来てるの?私には関係ないけど。
「心配しないでくれたまえ。責任は果たしているつもりだ。」
「そう。ならいいんだけど。死者さんが迷わないようにだけしてね。」
人間の世界がお気に入りとは。厳格さの欠片もない。
「………そろそろ本題に入りたいんだけど。」
ハーデスのお喋りに構ってる暇はない。
「わかっているとも。わざわざこんなところまで来た理由を聞こうじゃないか。」
にやけながら愛子を見る。
「………ケルベロスを一旦返してほしいの。」
頷いてさえくれたらそれで終わる。
ハーデスは愛子をしばらく見つめてから口を開いた。
「ダメだ。」
少年の風体とは似つかわしくない声で否定する。
「すぐに返してあげるわよ。ほんの少しでいいの。」
「あれは後三千と五百三十一年七日はワシのものだ。」
「だから、すぐに返すって言ってるじゃない。」
「一瞬でも手放す気はない。」
「融通効かせてよ。」
「無理だな。ケルベロスを借りる際、ワシはヴァルゼ・アークに解空時刻を譲ったのだ。貴重なアイテムだったのだが、ワシには無用のものだったからな。ヴァルゼ・アークと取引したのだ。諦めよ。」
ハーデスの融通の効かなさは評判だ。ま、こうでもなけりゃ死者を扱う事など出来ないのだろうが……。
「諦めるわけにはいかないわ。仲間の命が賭かっているの。お願いよ。」
「ベルゼブブ、取引を持ち掛けたのはヴァルゼ・アークだ。番犬が欲しくないかとな。この契約は期限が切れるまでワシの支配にある。いかなる理由があろうと、ケルベロスを手放す気はない。」
「私も子供の使いじゃないのよ。ダメでしたなんて言えないわ。」
「ならどうする気だ?」
「ハーデス、貴方を倒してでもケルベロスは連れて行く。」
「クク。面白い。相手にとって不足はない。どこからでもかかって来るがいい。」
言うだけ言って玉座から動こうとはしない。
愛子はというと、ロストソウル・ダモクレスの剣を片手にハーデスの様子を伺う。
少年と呼ぶには幼過ぎる容姿でも、それは半分趣味のようなもの。中途半端な攻撃は通用しない。
(仕掛けられるの?)
自分に問う。しかし、ハーデスも愛子を警戒している。互いに姿は人間でも、実力は紛れも無い闇王と冥王。舐めてはかかれない。
「どうした?来ないのならこちらから行くぞ。」
ハーデスが小さい手をかざすと、火球が現れ愛子に向かって来る。
ダモクレスの剣で火球を真っ二つにして、その隙にハーデスに襲い掛かる。
「覚悟!ハーデス!!」
身体を回転させ勢いをつける。
「こしゃくな!」
見えない壁で愛子の攻撃を防ぐ。ジリジリと音を立て火花を散らす。
「やっぱり一筋縄じゃいかないのね。」
「戯言を。そんなに簡単にいくと思ったのか。」
「思ってないわよ。だから面倒なんじゃない。………いいわ。悪いけど、ホントに時間が無いの。一発で決める!」
「本気で来る気か。そのほうがいいだろう。さあ、来い!」
愛子の挑戦を正面から受ける気らしい。
愛子のオーラが膨れ上がる。
「おお。まさしく闇王ベルゼブブの力。懐かしい。」
「余裕かましてると死ぬわよ。闇の力……ベルゼビュートキャンディ!!」
橙色の炎がハーデスの城上空に現れる。目には見えなくても、凄まじいエネルギーを肌で感じる。
ベルゼビュートキャンディは炎の球体となり、そしてまぶたが開くように上下に割れる。そこには瞳が存在していて、溜まりに溜まったエネルギーをレーザーにして…………ハーデスに仕掛ける。
睨み合う二人の沈黙を裂くように、城を突き抜けハーデスに直撃する。
城は吹き飛び、爆炎が吹き荒れる。
巻き込まれた死魂もあっただろう。成仏する事なく消え失せたのだ。
「…………………少しは効いた?」
全力とまでいかなくとも、かなり力は注いだつもりだ。
なのに、ハーデスは玉座に座り続けたままでいた。
「恐ろしい力よ。城まで守る余裕はなかった。」
「第二波もお望み?」
「クックックッ。遠慮しておこう。たかだか番犬一匹の為に、黄泉の国まで破壊されては敵わん。」
「なら………!」
「連れて行くがいい。ただし、武器を使わずに連れて行けるのならな。」
「お安い御用よ。」
「仲間を助けるとか言ってたな?」
「ええ。」
「…………何にケルベロスが必要かは知らんが、お前の力があれば他に必要なものなどないのではないか。」
「いろいろあるのよ、私達にも。」
愛子の身体が浮く。
「ヴァルゼ・アークによろしくな。生きているのなら、たまには遊びに来いと伝えてくれ。」
「伝えるには伝えるけど、忙しいからどうかしらね。」
肩を竦めると、ハーデスの元を離れケルベロスのところへ飛んで行く。
「ベルゼブブ………やる事がいつも派手だな。」
瓦礫と化した城を見渡し溜息をついた。
オーブ割れた。残るはあと一つ。