電想蝶
何処までも透き通った冬の夜空。
星々のささやかな光を塗り潰すように、綺麗な満月が輝いていた。
手を伸ばせば月に届いてしまいそうな、心を遠くへと誘う夜。
病室からそれを見上げる私は、その美しさに一人心奪われた。
完成間近のホログラフィックアート(立体映像)から目を逸らしながら。
「ちょっとだけ、休憩」
私はそう呟いて、パジャマの上からケープを纏いながらゆっくりと病室の窓を開ける。
すると外から吹き込むほんのりと冷たい微風。
それは私の焦りを優しく溶かすようで、とても心地良い。
風には仄かに花の香りが含まれていて、どことなく春の訪れを予感させた。
金色の長い髪が視界に入るのも構わず、ただ景色を見つめる。
揺らぐ風は病院敷地に植えられた無数の植物を撫で、生じたざわめきは漣のように耳朶を打つ。
強い月光は花々の輪郭を幻想的に照らし、見惚れる程に美しい。
月明かりだけで歩けるこんな素敵な夜を、あと何度眺める事が出来るだろう。
見事な絶景を前にしても、後ろ向きな考えに至ってしまうのは……きっと残り僅かな命のせい。
私が学校で倒れ緊急搬送され、精密検査を受けてから全てが一変した。
告げられた結果は不治の病、現代医学でも延命で手一杯という重篤な病気らしい。
余命宣告を聞き崩れ落ちた両親の後ろ姿は、今でも鮮明に覚えている。
けれどそんな数字以上に、日々衰弱していく体が無言で示す。
死が確かに迫っているという事を。
命を蝕む病魔の手は早く、まるで身体に決して塞げぬ穴が空いたかのよう。
余命がもうあと幾許も残されていないのは確か。
野原を駆け回れたのももう遠い過去の事。
今や歩くのでさえ精一杯で、心身共に鉛のように重く感じる。
「はぁ……」
美しい月を見上げながら、私は万感の思いと共に溜息を漏らした。
そして入院したばかりの頃に思いを馳せる。
環境の激変で、とても辛かった日々の事を。
不慣れな病院生活が徐々に日常となり、弱りゆく身体は動く自由と気力を容赦なく奪う。
余りに窮屈で失うばかりの日々は、自ずと死生観を考える時間を作ってしまった。
私は一体何の為にこの世界に生まれ、どうしてその理由を知る前に死ぬのだろう。
どうして何も出来ないまま、何の手応えもないままにこの世を去るのだろう。
こんな思考が際限無く渦巻き、私を果てなき苦悩へと駆り立てた。
考える度に言い知れぬ寂しさと死への恐怖が溢れ、理不尽な病をどうにも出来ない無力感が募る。
やがてそれらは心に大きな孔を穿ち、楽しさを感じる情緒が欠け落ちてしまった。
何をしてもその隙間を埋められない絶対的な空虚さは、より一層心を苛む。
終わらぬ葛藤と退廃する心は感情を掻き乱し、かつて兄に辛く当たってしまった事があった。
枕を投げつけてある事ない事喚き立てた私を、それでも受け止めて抱きしめてくれた兄の暖かさは決して忘れない。
確かなその優しさに、私はきっと救われたのだと思う。
「兄さん……」
今まで私を大切にしてくれた優しい兄を思い、一人涙する。
辛く悲しいのは決して私だけじゃないと知っているから。
家族もそう……だけど今深く傷ついているのは、間違いなく兄だと思う。
何故なら兄のクラスメイトで無二の親友が、先月レジャー中に事故に巻き込まれて亡くなった。
酷く落ち込んだ傷心の兄に、私は近い将来自身の死を以って追い打ちをかける形になる。
死が迫り未来に怯える私を、真っ向から受け止めてくれた優しい兄。
楽しさを忘れ擦り切れた心を救い、蘇らせてくれた大切な人。
私はそんな兄の為に、残された僅かな時間と力の全てを掛けるある決断をした。
この世界に私が唯一遺す事が出来る、最後の希望。
私の声や映像を残す事も考えたけれど、それだけじゃ全然物足りない。
せめて私の残した何かが、兄のこれからの人生に寄り添えるようにと切に願って創り上げるもの。
それがホログラフィックアートだった。
ホログラフィックアートは立体ビジョン対応のタブレット上に、3Dペンで空間上に描いて動く立体映像。
描いた物にAIを付ければ、立体ビジョン対応スマートフォン上でも自在に動き回りナビのサポートも出来る。
これなら兄の役に立てるし、きっと喜んでくれる筈。
私は窓を閉めて涙を拭い再び3Dペンを握った。
そして必ず完成させるという決意と共に、電子のキャンバスへと向き合う。
タブレットの上に仄かな光と共に浮かぶのは、描きかけの蝶の身体。
私は私の『好き』を形にしていくべく、ペンを走らせる。
描く蝶はヘレナモルフォ。
私と同じ名を持つこの蝶は、世界で最も美しいと名高いモルフォチョウの一種。
極めて色彩豊かな瑠璃色の翅を持つ、とっても大きな蝶。
無数に表示した写真をお手本に、繊細な模様の翅を更に丁寧に描き込む。
やっぱり美しい翅を再現出来なくては、誰より私が納得出来ないから。
昔一度家族と共に出かけた動植物園で出逢い、ひと目で惚れ込んだ大好きな蝶。
展示される標本サンプルを、兄妹二人で食い入るように眺めていた記憶がある。
その時の記憶を反芻しながら、色を変えて特徴的な白く丸い紋様を追加。
描き終えたら更に色を変え、美しい翅の表面を描き込んだ。
「こんな感じかな、もうちょっとここを濃い目に」
ひとりそう呟きつつ、色を濃淡使い分け全体像を象っていく。
精密さとリアルさを追求して生きた蝶のように感じられる事を願いながら。
ここはヘレナモルフォが生息出来ない場所だけれど、電子の蝶ならばどこでもいつでも一緒に居られる。
完成して無事羽ばたく姿を思い描きながら無心に描いていると、不意に全身に悪寒が走った。
入院してから今まで何度も襲って来た症状。
休憩を挟んだもののこうなってしまうという事は、病状が悪化の一途を辿っている事に他ならない。
ひたすらに気分の悪さが込み上げて来て、ただ苦しさだけが五感を蝕んでいく。
それでも私はペンを手放さない、手放したくない。
「お願い、もうちょっとだけ持ち堪えて……!」
掠れる声で私は祈るようにそう叫び、震える手のままにペンを握り込む。
額に流れる冷や汗をどうにも出来ないまま、私は瞼を閉じて縮こまり両肩を抱く。
そして慎重に呼吸を整えることに努めた。
必死に耐える間にも、病室に置かれた時計の秒針の音が聞こえる。
それはまるで死が迫る音のようにも感じられて尚更辛い。
完成を逸る気持ちと生き急ごうとする心を宥め、私は心と体を鎮める。
発作をやり過ごす為に出来る抵抗を重ね、やがて酷い苦痛の嵐は去った。
私は大きく深呼吸した後に胸を撫で下ろす。
震える手のままにタオルで額の汗を拭い、ゆっくりと乱れたパジャマを正した。
そして身体の震えが収まるのを待って、私は再び絵を描き出す。
鮮やかな翅がここまで出来れば、後はもう完成までの追い込みだけ。
翅の裏側の目玉模様や、細やかなポイントを徹底して描き込んでいく。
筆が再び乗って来て、その楽しさに確かな高揚感を覚える。
絵に夢中になって描いている間は、苦しさも悲しさも何もかも忘れられる。
こんな時間がずっと続けばいいのにと、何度繰り返し願っただろう。
それが決して叶わぬ事は痛い程理解してるけれど、作った物に託す事が出来るのなら悔いはない。
穏やかな気持ちのままに一心に作業を進めて、遂に完成の時を迎えた。
実物同様の大きさをした、見事な美しさの青い蝶。
あの時私達が見た思い出の蝶そのもの。
「出来た! 後はモーションを……」
私は快哉の声を上げると共に、アプリのAIアシストモーションを起動。
描いたホログラフィックアートに動きで命を抜き込む。
無数にある動物の動きを収録したカテゴリタブの中から、大型蝶の物を選択。
その雛形をベースに、カスタマイズを開始する。
多岐多彩に渡る設定項目から、ナビゲーションアプリ提携欄をチェック。
スマートフォンのナビによる誘導時に、鱗粉が微かに舞い散るようにセット。
更に私の性格を熟知する、愛用のタブレットPCに搭載されたAIを蝶へと移植。
私の趣向や個性を滲ませつつ、ユーザーに寄り添う・同調する方向性で動きを決めていく。
完璧とは言えなくとも、微かでも私らしさが出るよう念入りに。
設定を無事終えて、いよいよ動作テスト開始。
優しく中空に浮かぶ蝶に触れると、青い翅が静かに羽ばたきだしてタブレットの上を優雅に舞う。
まるで命が吹きこまれたように。
本物同然に生き生きと舞う私の蝶を、慈愛の眼差しと共に感動しながら見守る。
その動きは見事に意に沿うもので、思わず顔が綻んだ。
「これならきっと喜んでくれるよね、兄さん」
今までの頑張りが報われたように感じられるひと時、私はこの瞬間を噛み締めるように言葉を零した。
あの日見た思い出の蝶が、こうして自由に舞い飛ぶ姿。
もう涙なしで見つめる事は出来ない。
一通り動きを設定し終えモーションチェックも完了、動きに破綻や問題点は見当たらない。
初期設定より大分振る舞いが変わった事を確認した私は、安堵の気持ちと共に涙を拭う。
そしてテーブルから便箋を取り出して手紙に着手。
これはホログラフィックアートに添える、私の最期の手紙。
どんなにありふれてても良い、飾る事の無い有りの侭の言葉を綴る為のもの。
きっと迷っていられる時間ももう残されていないから。
手書きで文を綴りながら、切々と思いの丈を込めていく。
感謝の気持ちが無事届く事を願って。
そうして無事書き終えた手紙を、電子の蝶を宿すタブレットに添えた。
主治医の先生には、私の死後タブレットと手紙を兄に渡して貰うようお願いしてある。
だからもう憂いなんて何も無い。
未練も肩の荷も全てが雲散霧消したような清々しい気持ちと共に、深くベッドに沈みこむ。
そして大分久し振りに良い夢を見た。
まるで日曜日の昼下がり、気怠い空気の中で木漏れ日に包まれたような暖かさを感じながら。
そこは決して何にも追い立てられる事の無い、果てしない大草原。
私と兄とで燥いで駆け続けた、何処までも奔放で無邪気な夢。
世界も恐れも言葉も何も知らなかった幼い頃の、どこか切なくて懐かしい記憶の欠片。
かつて私が居た場所で、きっともう戻れない原風景。
ただ兄妹の声だけが優しく木霊していた。
−−−−−数週間後−−−−−
親友に続き妹を亡くし、悲嘆に暮れる兄の元にヘレナの主治医から遺品が届けられた。
それはかつて彼女が愛用していたタブレットと手紙、共に生前彼女が残したもの。
月明かりが飛び込む自室で、彼は意を決して手紙を開封する。
するとその目に飛び込んで来たのは、拙いながらも思いの丈を綴った感謝の言葉。
文法よりも心を伝える事にのみ主眼を置いた最期の手紙だった。
読み進めると、可憐な筆跡ながら時折震えたように文字が崩れている。
恐らくは容体の悪さを押し切って書き綴られた物なのだろう。
彼は涙と共に手紙を読み進め、彼女が残した最後のプレゼントの存在を知った。
遺言に従いタブレットの電源を入れると、弾けるような燐光と共に立派な青い蝶が飛び立つ。
それは遠いあの日、二人で仲良く見入った思い出の蝶の姿そのもの。
丹精込めて作られたモデルは精緻で、本物のように活き活きとした動きをしている。
同時に起動したアプリからスマートフォンへ蝶のインストール許可を求められ、彼はそれを即座に快諾した。
無事認証され飛び立った電子の蝶は、部屋の壁に組み込まれた立体投影システムによりタブレットの領域から離れ部屋を自由に舞う。
燥ぐように無邪気な動きで。
やがてその大きな翅を休めるようにして、ある一点に留まる。
それはコルクボードに無数に貼られた家族写真。
静かに翅を揺らし触覚を震わせるその姿は、何処か彼女の面影を感じさせた。
『私の代わりに、この思い出の蝶を傍らに置いて欲しい』
手紙にそう書かれた妹の健気な願いを、彼は受入れ貫く決意をする。
スマートフォンを手に取り、AIナビモードを起動。
すると蝶は青い鱗粉の光と共に、スマートフォンを持つ彼の指に賢く留まり大きく翅を広げた。
その仕草に思わず彼は顔を綻ばせる。
昔動植物園で見たあの蝶について、妹と語りあった時の事を思い出したからだ。
『蝶の翅の裏にある模様がちょっと怖いから、もしも生きてるモルフォ蝶を触る時にはずっと翅を広げてて欲しい』
そう言って笑っていた彼女。
他愛無い会話の中で見せた、妹のさりげない我儘。
きっとそれを覚えていた彼女は、モーションの中に仕込んだのだろう。
思い出はこうして確かに息衝いている、彼はそう確信した。
そして涙を拭い静かに微笑む、電子の蝶をその手に乗せて。
深い喪失の痛みを乗り越えた、彼が見せる久々の笑顔。
彼は電子の蝶を指に乗せたまま夜空の月を見上げる、妹が作った未来への希望と共に。