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ホラー部屋

偽者がいた部屋

作者: 石川織羽

 選んだ缶コーヒーが、取り出し口へ転げ落ちてくる。自販機からコーヒーを取り、スチール製のキャップを外した。会社の廊下の狭い窓には、隣の雑居ビルの壁しか見えない。薄汚れた青灰色の壁を眺めて、俺は考え事をしていた。


 そこへ、ハイヒールの音が近付いてくる。


「あ、小泉君、小泉君! 聞いた? 山中君が事故だって!」

 うちの女子社員が、ブランドロゴの乗っかった白い財布を抱え駆け寄ってきた。同期の女だった。

 パーマの取れかかった明るい茶色の髪に細面で、割とカワイイと俺の周囲では評判だ。でも俺の個人的な好みとしては、ちょっと痩せ過ぎの感がある。何よりこの女は目が気持ち悪い。


「知ってる。和田ちゃんも聞いたんだ?」

 缶コーヒーを手に俺が答えると

「聞いたよぉ。昨日の夜でしょお? 踏み切りで電車に撥ねられたって」

 和田は早送りに近い速度で話しながら、自販機に電子マネーのカードを当てた。


「でもギリギリで一命は取り留めたわけだし。不幸中の幸いっつーか」

 今朝、出社するなり部長から伝えられた事を呟く。和田はカフェオレのボタンを押し、茶色の眉尻を下げて俺を見上げた。


「意識不明の重体で、全然幸いじゃないよお。酔っ払ってたんだってね? 電車の運転手は、自分で踏み切りに飛び込んできたとか話してるんでしょ? ……自殺じゃないよね? ね?」

 後半部分の声を潜めた和田の質問の後ろで、先ほど同様ゴコンと音がし、300mlのカフェオレペットボトルが落ちてくる。


「それはないっしょ。仕事で悩んでた様子もなかったし、彼女とも結婚の方向で進んでて、幸せ満喫してたじゃん」

「だよね? あーん、もおやだぁ~。幸せから一気にどん底なんてぇ……山中君めっちゃいい人なのに、どうしてこんなことになっちゃうんだろ」

 長財布を脇に挟んでペットボトルの蓋を開け、和田が溜息を吐いて俯いた。仕草もオモチャみたいだ。


「……和田ちゃんさ、山中から『引越し』の話しって聞いた?」

 俺は尋ねてみる。

 和田はカフェオレを飲み込み、重そうな睫毛を何度も上下に動かして頷いた。


「聞いてるよー。彼女と同棲始めてたんでしょ? 引っ越したの、先週だっけ」

「いや、その前の話し」

「前?」

 和田がペットボトルを両手で握り締め、再び声のボリュームを絞る。この女は一見表情豊かだ。だが、俺にはどうしても無表情に見える。黒目が大きく見えるとかいう、コンタクトレンズのせいかもしれない。ともかく、目を見ないふりして答えた。


「あいつ、それまで住んでたアパートが遠くて、通勤に一時間近くかかってただろ? ずっと引越し先探してたんだよ。その探してる時に見つけたっていう、アパートの話し」

「何それ何それ?!」

 右手を口元に当て、同期は勢いよく食いついてきた。


「俺が知ってる限りの話だから、話し半分て感じで聞いてね?」

 笑って俺が言うと、和田は「うんうん」と小さく頷いた。


 一度この女に口外した以上、今日中にはうちの職場の全員が知る事になるだろう。それはわかっていた。わかってはいたけれど、今は手近な人間に吐き出してしまいたい気分だったのだ。


 缶コーヒーの蓋を閉め、スーツのポケットに左手を突っ込んだ俺は、先日山中から聞いた、とある賃貸物件について説明し始めた。


「とりあえず、最初から話すと……ネットの賃貸情報サイトで見つけたんだって。この職場まで二十分程度の距離で、家賃が五万以下って言ってたかな。ホラ、山中も結婚のこともあって、貯金しようとしてたんだよ。しかも駅やコンビニが近くて、部屋も1Kとかじゃない1LDK。良くない?」

「この辺りででしょお? いいね、それ」

 こちらが求めた通り、和田は全面的に同意する。


「ただかなり古い物件だったんだよ。築三十年モノ。それに何か変に安いじゃん? 山中も『これ事故物件じゃね?』って感じて、最初は候補から外したんだって。でも他に条件合うのは中々見つからないし……それでそのアパート、一回見学だけでもするか! と思って、見に行ったんだってさ。『裏野ハイツ』っていう、二階建ての木造住宅で……ニュースにも出てたの、知らない?」


 さりげなく告げる。カフェオレを口に含んでいた和田は、むせるのを寸前で堪えていた。一呼吸置いた後、不自然に大きな黒目の目を丸くする。


「は? 私ニュースほとんど見ないから知らない……てゆーか、ニュースになるような事件があったの?」

「まぁね」

 頷くだけで、俺は和田の驚きを一先ずスルーした。


「それで山中は仲介業者に連絡して、日曜日に見学行ったの。2週間前になるか? まず業者に説明聞いたわけ。そしたら業者の話しだと、昔は大家もそこで住んでたのが、今は年取って、大家自身は遠隔地にいるんだってさ」

「ああ、大家さんの代わりに不動産やってる会社が入居の案内とか管理とか、色々やるタイプの賃貸なんだ?」

「それそれ」


 笑って俺が言うと、和田も笑ってない目で笑い返してきた。

 山中が見つけた『裏野ハイツ』という物件の初期情報は、普通の、どこにでも転がってそうな話しだった。


「そんで、業者と物件見に行ったんだよ。そしたら想像していたより、全然キレイだったんだって。外観も内装も。部屋は二階の角で、場所も静かで」


 洒落た中古リノベーションとは異なるとはいえ、古い木造二階建てという初期情報や築年数からは考えられないほど、その物件はキレイだったらしい。丁寧に使われてきたようで、目立った汚れや傷も無かった。案内されたのは二階の角部屋の203号室。室内は清掃消毒され、浴室のシャワーやトイレも新品に交換済み。


 ネットの賃貸情報と実際の物件が全く違うなんてのは珍しくないが、その建物は逆パターンだった。悪い印象は受けなかったと、山中は言っていた。敷金や礼金が幾らだったのかまでは、俺も聞かなかった。


 ここだけ観れば、物件にかなり好感触を持つ。山中もそうだった。

 穴場物件を見つけたかと、喜びかけた。


「ただ……住んでる人が、微妙っつーの?」

「微妙って?」

 質問してくる同僚女に、俺は苦笑いを返す。笑う話題じゃないのは理解しているが、まぁ癖みたいなものだ。


「大家がまともに管理してない期間があったせいで、住んでる人たちがよくわかんなくなってる状態」

「えー……不法っぽい外国人が大量に住んでる系?」

「いやー、そういう系じゃなく」

 ニュースは観ないと言った割に、時事的な情報を意外と知っている様子の和田へ、首を横に振った。


「まず初っ端に、建物の前でおばあちゃんと会ったんだってさ。裏野ハイツの二階で、一人暮らししてる人なんだって。向こうから話しかけてきて、雰囲気は明るくて気さくな人なんだけど……ボロボロの古い家族写真握り締めて、いつも近所徘徊してるらしいぞ、と。しかも業者の人捕まえて、『101号の男の人の顔が変わっちゃったのよ!』とか言い始めて、どうもボケちゃってるぽいぞと」

「あー……」

 黒々とした目を伏せて痛々しげに笑い、和田も何度か頷いた。


 おおよそ70代と見受けられた、その女性。家族写真を大切に持ち歩いている彼女の部屋を、家族が訪ねてきている様子は見られないようだと、後で業者が独り言みたいに漏らしていたという。


「その時点で山中も不穏な気配を感じてさ。業者に『ここ、どういう人が住んでるんですか?』って、それとなく聞いたんだよ。だけど『すみません個人情報なので……』と濁されるっていうね」

「今そういう情報管理、厳しいもんね……」

 和田は同情気味に呟き、またカフェオレを口へ運んでいた。


 若い男の一人暮らしだ。同じく若い男性だったという担当社員も、下手に情報は流せなかったのだろう。小さい子供のいる家庭や、女子大生の一人暮らしだったら、もう少し態度も違ったかもしれない。でも世間の男の扱いなんて、基本こんなもんだ。


「だけど一応、『単身者の方が多いです』ってのは、教えてくれたんだよ」

「あ、そうなの」

「うん。おばあちゃんの謎の話についても、『101号室は男二人が同居してる』って大家から事情は聞いて了承してるんだってさ。だから『おばあちゃん、見分けがつけられなくなってるんじゃないですかね?』って言われて」


 半分笑い話として、山中はそんな説明を受けたそうだ。


「他にも、『僕は担当になった半年前、101号室の方から駐輪場の件でご相談頂いたので、ご挨拶もさせて頂いたんですよ。同居人さんにはお会いしていませんけど、入居者さんご自身は、すごく明るくて良い方でしたよー』とは話してくれたから、ハアそうなんですか~ってコトで終わりになりまして」


 誰がどこで誰と住んでいようが自由だ。顧客のプライバシーにも配慮しなければならない。業者は当たり障りの無いギリギリの範囲まで、入居者情報を開示してくれたとのことだった。向こうも仕事だ。あまりこちらを粗雑に扱うと、客が逃げると思ったのだろう。


「そうは言っても、ちょっと不安になるじゃん? 山中も、そこやめようと思ったんだよ。けど、住人に多少難があるトコさえ目をつぶれば、割と優良物件でしょ? どうせ朝から晩まで仕事でいない上に、夜帰って寝るだけだし」

「んー、そういう考え方も出来るかぁ」

 俺の話しに、同期は一応納得してみせる。しかし和田には、同意しきれない面もあるようだった。


 外で働いていれば、生活サイクルなんて大体こんな感じになる。俺だってそうだ。俺の住んでいるワンルームなんか、ガスコンロすらない。山中も入居者の人間性より、職場との距離や家賃の安さに重点を置いた。予想していたより建物自体が良かったのも、候補から外すのを躊躇わせたんだと思う。


「それで翌日もう一回、一人で裏野ハイツ見に行ったんだよ。月曜日の出勤前だから、すげー早朝。外観を確認するだけのつもりで。そしたらバッタリ人に会ったんだって」


 山中は、わざわざ早起きして裏野ハイツへ行った。普段の通勤ルートから外れた、かなりの迂回ルートになったはずだ。あいつはこれで、選ぶかやめるかの踏ん切りをつける気だった。すると


「一階の101号室の玄関先で、おっさんがシーツ洗ってたんだと。盥で」

「タライ? タライで手洗い? ……へーえ? めっちゃ上等なシーツ?」

 眉を顰める和田は、何か勘違いしているようだった。社会人になってもずっと実家通いというこの女は、たぶん『洗濯機は家の中にあるもの』と思い込んでいる。


 裏野ハイツは室内に洗濯機を置くスペースが無く、排水口も玄関前だったのだ。近所にコインランドリーがあったそうなので、入居者の殆どはそちらを利用していたのだろう。101号室前にも洗濯機は無かった。安物件にはよくある話しだ。しかし面倒なので、そこは聞き流した。


「さぁ? わかんない。シーツに見えたって山中は言ってた。そいで、まぁ『おはようございます』って挨拶したら、五十代くらいのおっさん。『あれ~? キミ、昨日も来てなかった? 見学?』って、明るい感じで話しかけてきてくれたんだよ。山中も『あ、この人ならここのこと教えてもらえるかもしんねぇ!』と思って、住んでる人たちの事、聞いてみたんだと。自分ここに引っ越そうかと思ってるんですけどー、つって」

「ふんふん。それで? やっぱダメな物件だったの?」

 同期女は興味津々の眼差しで、前屈みになって問いかけてくる。


「何か……おっさん曰くね? 隣の102号に住んでる四十代くらいの男が、年末の二日間以外ずーっと引き篭もってて出てこない、とかね? 103号室に住んでる三十代くらいのファミリーは、小さい子がいるっぽいけど全然声がしなくて、保育園行ってる様子もないとかね? その上、二階には例のおばあちゃんが住んでるんだよ。更に202号室に至っては、『たぶん誰か住んでると思うんだよね~、たまに物音はするから』とかっていう、そんな話しがジャンジャン……」

「それ無いね! そこ住むのは無いわぁ!」


 廊下の天井を仰ぎ、和田が大声を上げた。


 101号室の前で聞き出した入居者情報は、まともなものが一件もなかった。住人同士の接触や挨拶さえ殆ど無いなんてのは、普通の範囲だ。それにしてもこれは割とひどい。不気味さすら漂ってくる。類は友を呼ぶとは言うものの。


「まぁまぁ、そうなるよね。おっさんは『僕はご近所付き合い大事にしたいんだけど、近頃はそういうのも難しいのかねぇ』って笑ってたらしいが……さすがに山中も、これで諦めがついたんですよ。おっさんに『ありがとうございました』とお礼言って。帰りかけたところで、101号室の窓から、もう一人別の人がこっち見てたんだって。よく見えなかったけど『あの人が同居人かなー』と思って、そっちにも会釈だけして帰ったんですよ」


 男か女かもわからなかったと言っていた。けれど既に山中にはどうでも良い事だったため、気にもしなかった。


「うん……何? まだ続きがあるの?」

 半端に途切れた俺の語りで、同期は細い顔の表情を曇らせる。俺は再び微笑んでいた。


「アパート出たところの道端で、例のおばあちゃんがまた散歩してたんだって。早朝だよ? そのおばあちゃんが山中引き止めて、『あの人は偽者だからね、信じちゃだめよ!』っていう怖い忠告を」

「怖い怖い怖い! 何それ?! 完全に人の顔がわかんなくなっちゃってるってコト? うわーめんどくさい……あ! もしかして山中君、それで彼女と同棲する流れになったの?」


 ひらめいた様子で、和田は言ってきた。俺の話しの不気味さを嫌い、半ば強制的に話題をずらした風にも感じられた。


「そーそー。彼女に引越し先探してるって打ち明けたら、『だったら一緒に住めば良いじゃん!』て彼女が男気発揮して、一気にオラァ! ってな勢いで先週引越したの」

「良かったねー、変なハイツに住まなくて……山中君も、先に彼女に相談すれば良かったのに」

「アイツちょっと馬鹿だから」

 言い合って、いつもの軽いノリで笑い合った後


「それで。話し変わるんだけどさ」

 俺は話題を戻した。


「さっき裏野ハイツが、ニュースに出てたっつったじゃん?」

「あ、うんうん」

「ニュースに出たのが一昨日だよ。このニュースで山中が『実は……』って話してきて、俺も知る事になったんだよね。ニュースって言っても一瞬流れただけで、新聞も小さい記事が端っこに出てただけ」

 それは地域の小さなニュースの一つとして扱われていた、些細な『事件』だった。


「裏野ハイツで、五十代男性が死んでるのが発見されたんだよ」

「うそ!」

 両手で口元を覆い和田が叫んだ弾みで、抱えていたペットボトルが腕から落ちかける。


「ニュース映像で出た建物見て、あそこだ! ってわかったんだって。山中ビックリして、賃貸業者に思わず電話しちゃった」

「はあ?! 馬鹿なの?! まぁ、らしいと言えば、らしいね……そういう人だもん」

 女は呆れるのを越えて、疲れた笑顔をコメントに添え頷いた。和田にも納得されるレベルで、山中はパッションで動く男なのだ。感情に素直と言えば、聞こえは良い。


「で、業者が『まだ捜査段階なので……』って言いつつも、いくつか話してくれたところによるとだな。101号室のおっさんの妹が、本人とどうしても連絡が取れない、おかしいって言って来たんだよ。会社もやめてるみたいだって言って。それで、その妹さんと一緒に鍵開けて部屋の中に入りました。そしたら奥の部屋の座卓で、突っ伏して死んでるおっさんがいました。ハイ、警察に通報ー」

「ヒイー」


 和田が自分で自分の腕を抱きしめ、弱々しい悲鳴を上げた。

 事態を説明してくれたのは、裏野ハイツへ山中を案内した若い担当だったという。この男も事件現場を目撃したりして、妙なテンションになっていたのだろう。通りすがりにも等しい山中へ、親切にも不用意に、かなり細かく事態を説明してくれたのだ。


「でもね、おっさんに外傷は無かったんだよ。部屋が荒らされた形跡も無くて、金や通帳もある。金目当てじゃない。だからいわゆる中高年の突然死ってことで片付いたんです……が。衝撃の新事実が二つ」

 俺は右手の指を二本立て、和田の前に突き出した。


「一つ目。同居人は2年前に部屋を出ていって、しかも去年病気で死んでいました」

「え? ええー……私今、同居人が怪しくない? って思ってた」

「いや、亡くなってるんだって。大家の情報の引継ぎが抜けてて、業者も知らなかったんだよ。だけどおっさんの妹が元同居人のこと詳しく知ってたんで、もうここは確定」

「そうなんだ……」

 話しを聞き呟いた和田の表情が、重く暗くなっていく。


「二つ目。おっさんは死後、約一ヶ月経過していました」

 当然、まだ正式な検死結果は出ていない。大体の目安だという。


「は……? おかしくない? 山中君が裏野ハイツでおじさんに会ったのが……?」

「ほぼ二週間前だね」

 俺の言葉に、変に縁取りのくっきりし過ぎている和田の黒目が、目一杯大きく見開かれた。細い体を竦ませ小さくなっていく和田の声に合わせて、俺も声が小さくなる。


「おっさん、普通に会社員だったんだよ。それが体調不良を理由に、二十年以上勤めた会社を急に退職したのが、ちょうど一ヶ月くらい前。『きっと病院に行く直前に、突然具合が悪くなったんでしょうねー』って業者に言われたら、そうですね……としか言えず。山中も途中で怖くなってきて、自分が一人で見学行ったこととかも言えなかったらしい」


 俺に話したところで無意味だ。せめて賃貸の仲介業者に言えと思う。

 なのに山中は、同僚の俺に打ち明けたのだった。たぶんアイツも相当混乱していたのだろう。


「そしてそんな話しがあって三日後に、コレですよ」

 山中は突然事故に遭い、重体となっている。

 俺はコーヒーの蓋を開け、話しを終えた。だんだん青褪めてきた同期女は、さっき以上に強く両手で口元を押さえ、周囲を見回し人がいないのを確認する。やがて


「誰……?! 誰だったの?! 山中君、誰に会ったの?! アパートのおばあちゃんも、101号の人の顔が違うとか言ってたんでしょお?! ……幽霊?! 怨念?! 地縛霊?! きゃー! イヤー! 私そういうのダメ~ッ!!」

 和田は感情の無い目で、それでも表情自体は恐怖に歪め、細い体をもっと縮み上がらせた。自らを落ち着かせようとするみたいに、茶色い髪を撫でつけ


「もういい! わかった! 聞かなかったことにする! 私まで呪われたらヤだー!」

 何度も頭を横に振るとハイヒールの踵を返し、ミニスカートが足早にオフィスへ駆け戻っていく。


「地縛霊ね……」

 オフィスのガラス扉が閉まる音を聞いた後、缶コーヒーを二口飲んで俺は呟いた。『地縛霊』なんて、俺には無かった発想だ。


 死んだ住人が、自分が死んだことを理解しないまま生活を続けている。

 既に世を去ったはずの同居人が、未だに部屋にいる。

 彷徨い続ける亡者が棲むアパートも、また怖い。


 だが俺は、全く違う可能性を考えていた。山中から聞いた状況、情報、そして事故のタイミング。それらを組み立て直してみると、和田とは異なる景色が想像されるのだ。


 たとえば、こんなのはどうだろう?

 101号室にいた男たちが、普通の生きた人間で。何か犯罪行為に加担していたとしたら? それだけではなく、完全犯罪を目論んでいたとしたら?


 山中が会った、『シーツを洗っていた男』と『部屋の中にいた人物』。そいつらが『元会社員だった住民男性』と、知り合いだったとする。三人の間に、どんな経緯や関係があったかは俺の知る由もない。ただ、裏野ハイツ101号室で、住人男性が何らかの理由により他の二人に殺されたと仮定する。すると、全体の辻褄が合わせやすくなってくるのだ。


 殺害方法が何だったかなんて、わからない。血は無かったようだから刃物じゃないだろう。とにかく男たちはうまく隠れながら、室内の物的証拠や痕跡を、キレイに片付けていた。静かに、慎重に、誰にも悟られず、男性を平和な孤独死にしか見えないよう細工を施していた。


 都合の良い事に、裏野ハイツの住人たちは多くが非社交的だ。徘徊している婆さんには姿を見られても、誰も彼女の言うことなど信じていないから放っておけばいい。家賃や水道代、光熱費さえ引き落とされていれば、苦情が来ることもない。賃貸の仲介業者が新規の客を連れて来た時だけ、接触しないよう注意していた。


 そうしたら、とある月曜日の朝、想定外のことが起きた。

 馬鹿みたいな早朝に、馬鹿ヅラ下げたガキが来て、『片付け』をしている姿を見られた。しかも、ここに住みたいとか言いやがった。


 咄嗟に、その場しのぎで対応するしかない。裏野ハイツへ近付かないよう、何食わぬ笑顔で相手へ悪い話しを吹き込んだ。他の部屋のおかしな情報は、どこまで真実だったろう?


 それでも単純なガキは来なくなり、これで時間が稼げるはずだった。『片付け』も一通り終わった。後は時間が流れてくれるのを待つだけ。けれど元住人男性の妹が異変を察してやって来て、思った以上に早く遺体が見つかってしまった。


 今のところ男達の予定通り、殺人は不幸な『突然死』として終わりそうだ。問題なく誤魔化せている。中高年の孤独死など、死体が見るからに異常な状態じゃない限り、大した調査も行われずに処理されると聞く。今回もそうだったか。


 だがもし、『目撃者』がしゃしゃり出てきて、余計なことを通報したらどうなる?

 部屋の中に居た、もう一人の姿も見られている。これは危険だ。身の安全を守るためには、目撃者の口を封じておいた方が良いのでは?

 いいや、封じなければならない。


 奴らがそう考えたとすれば。

 完全犯罪を目論むような人間なら、特定の人物の足取りを執念深く探すことくらい、実行しそうだ。


 男達が密かに山中を見つけ出し、後をつけ回していたとする。あの馬鹿は監視されているとも知らないで、酔っ払って帰る道の途中、深夜の踏み切りの前で止まった。古い踏切には防犯カメラも無く、通りかかる人もいなかった。


 ――――よし、今だ。


 後ろから、誰かが山中を突き飛ばした。夜で視界も狭い電車の運転手には、自分で踏切へ飛び込んできたように見えた。電車は急ブレーキをかけても、すぐには止まれなかった。山中を突き飛ばした人物は闇夜に紛れ、そこから立ち去った……。


「出来なくなさそうじゃん?」

 雑居ビルの壁を見上げ、俺は自分に語り掛ける。

 これは全て仮定の話し。俺の空想でしかない。素人の推理ごっこだ。我ながらガキっぽくて笑ってしまう。それでも

「……アイツ、無事に退院できれば良いけどな」

 生ぬるくなった缶コーヒーを飲んだ俺の口から、コーヒーの匂いと一緒に独り言が零れ出た。


 そして考えるうちに今更ながら。お喋りな同期女に話しを漏らしたのは、失敗だったのではと思えてきた。この際だ。何年も溜まっている有給休暇を、適当な理由を付けて一気に使っちまおうか。しばらく俺だけでも、ここを離れようか。


 おそらく今もどこかで彷徨っているだろう。

 裏野ハイツの一階で、シーツを洗っていた男が来る前に。

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― 新着の感想 ―
[一言] 完全犯罪を考えている人物が、誰かが見ているかもしれない場所でシーツを暢気に洗う意味不明な行動を起こした事になります。警察が聞き込みをすれば立地的に一桁、二桁目撃者が出て来るでしょう。目撃者を…
[良い点] お邪魔します。 大変面白く拝読させていただきました。 会話形式で進んで行くのに単調にならず、軽い口調なのに読み進むほどに不気味さが増していき……一気に読破させられました。 主人公の語り…
[一言] ご無沙汰しております。今年もまたお邪魔してしまいました。 ほぼ伝聞の会話劇で展開していくのに、ものすごい臨場感があってグイグイと惹き込まれました。会話と地の文のバランスがよく、山中の目を通…
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