4.おとうとのシスコン宣言?
全ての星を漏らさず目に入れることができれば、見落とさずに捕まえることが出来るのに、と晶は思った。
キャンプ用の断熱シートの上に寝袋を敷き、皆温かい服装で寝転がっている。夏とは言え、北海道のしかも山の上の夜は冷え込む。夜空を観察するためにじっと動かないで横たわっているのだから尚更だ。
街の光が届かない夜空はまるで暗幕だ。そこに穿たれた無数の光の穴のような星々を、なるべくひとつも漏らさないようにと、部員たちは固唾を呑んで見守っていた。
すると唐突に目の端を何かが横切り、そうかと思うとその儚い星の雨はポツポツと振り始めたのだった。
「きたっ」
「えっどこ?」
「西側…あっ南にも」
「うわ……」
「始まったね…」
興奮を抑えきれない震える声で、王子が呟いた。それを合図に皆が視覚に全てを集中させた。誰もが押し黙り、ただ夜空に走る流星群に夢中になっていた。
部長の王子、副部長の晶は3年生。
本来ならこんな処で星など眺めている場合では無いかもしれない。
けれどもやはりこればかりは譲れなかった。どうせ屋内で参考書を開いていても、ソワソワして頭に入らないに決まってる。2人を除けば地学部員は2年生の安孫子と館野だけ。顧問の暮林と3人だけで寂しく観測させるわけにはいかないと、3年生2人は率先して準備を手伝ったのだ。
単に行きたかっただけなのだから、言い訳などいらないのかもしれない。実際受験勉強の良い息抜きになるだろうと、2人は考えている。
「……綺麗」
晶が呟くと、王子は「そうだね」と頷いた。
ツインテールの安孫子が、ぐふふと笑いながら溜息を吐いた。
「儚いですねぇ~まるで断末魔の悲鳴ですな。大気に当たって、お星さま達が綺麗に消滅しちゃうんですから」
「なんか物悲しいね」
実際は大気に当たって消滅する時に光るのは、お星さまというより塵らしいが。
素直に晶が安孫子に同調を示すと、王子は少し機嫌を損ねたように文句を言った。
「安孫子の言い方って、なんかいつもグロい」
「言っても無駄ですって、王子さん」
王子より少し背が低いくらいだが、ぽっちゃりとして貫禄のある体格の館野が合いの手を入れた。
「星々の絶叫が聞こえて来ませんか?!男共にはこの浪漫が伝わらないのでしょうかね……嘆かわしい事です。ねっ森先輩!」
その言い方が可笑しくて晶は思わず吹き出してしまった。
安孫子は宇宙や天体が好きと言うより、星々に纏わる物語が好きなのだ。彼女に言わせるとギリシャ神話の容赦なく理不尽な処がイイらしい。日本の古代神話と似ていて、ある意味残虐で混沌としたところに、とても心惹かれるそうだ。
「安孫子の浪漫って―――全部BLに置き換えちゃうだけだろ」
館野がズレた眼鏡をクイッと調整しつつ、呆れたように言った。安孫子は腐女子兼コスプレイヤーだ。男同士が登場する物語は全て恋愛物語に脳内で変換されるらしい。
「プラネタリウム作りばかりに凝らないで、たまには館野も男と男の儚い浪漫について、考えてみなさいよ」
「いや、考えるなら男女の組み合わせで考えるから」
安孫子の趣味に突っ込みを入れる館野も、結構なオタクだ。工作を得意とし、家に帰れば大抵PCでプログラムを組んで遊んでいる。
王子は大いに不安になった。
この2人を残して引退すれば、程なく地学部は崩壊するだろう。純粋に天体観測や天文学に興味があるのは、王子と晶だけだった。2人は違う中学出身だったが、お互い趣味のプラネタリウム通いをしていて知合い仲良くなったのだった。
ちなみに顧問の暮林は全くそう言ったものに興味が無い。王子達の要請があれば、都合が付く範囲で協力してくれる、ある意味負担にならない親切な教師だった。
だから有望なやる気のある1年生を勧誘するか、さもなくば来年の新1年生に期待するしかない。しかし自分たちの代で流星群の観測も終わってしまうのだろうな……と王子は何となく予想しながらも、少し寂しく感じていた。
晶はというと、部の存続の事はあまり気にならなかった。地学部のこの居心地の良い空間にいられる事に、ただ満足していたから。
周囲の空気に合わせて発言を選ぶという芸当が苦手な晶は、なかなか女子グループの中で上手く立ち回れない。かといって男子と話した方が楽しいと言うワケでは無い。顔なじみでは無い男子から話し掛けられると、つい体が固まってしまう。
小さい頃から読書が好きで、独りでいる事に不安は特に感じない。表情に乏しく、言葉のキャッチボールが苦手な晶は、出会ったばかりの人間とすぐに打ち解ける事が苦手だった。
けれども高校の地学部に集まったメンバーは、趣味嗜好は違えど全員漏れなく『オタク』で、自分の好きな事を躊躇いも無く追及している人間ばかりだった。それこそ周囲の目など気にせず一直線に。
自分の事に一所懸命で、相手の動向や態度に過剰に注目したり、殊更それを非難したり揶揄したりしない―――つまり人見知りの晶が気を許せる相手ばかりだった。
学校にも晶の居場所ができた。
仕事人間の父母は不在がちだったが、新しくできた弟とは最初からどこか馬が合った。
晶は読書好きでインドア、清美は活発で体を動かすのが好きで、性格も趣味も正反対な2人だったが、不思議と居心地がいい。
家での居場所は弟が作ってくれた。清美が現れてから、晶は寂しさとは無縁となった。
夜明けが近づいて来たため、興奮が覚めやらないままの地学部の面々も山を降りた。暮林所有の黒いMBVが校門前に到着した時には、既にうっすらと空が明るくなっていた。欠伸を噛み殺しながら暮林が「寄り道すんなよ~」と部員達に声を掛ける。その時晶は、正面玄関の円柱に凭れ掛かっている大きな人影がに気が付いた。
ジャージの上着を脱いで腰に無造作に巻き付けている。
(走っていたのかな)と晶は思った。清美は毎日欠かさずランニングをしているが、いつもより相当早い時間だ。
「弟君、わざわざ迎えに来たんだ」
驚いたように王子が言った。
「俺が送ったのに」
残念そうな素振りをしてくれる王子にちょっと笑いかけてから、晶は暮林に頭を下げ、安孫子と館野に「ゆっくり休んでね」と声を掛けて清美の元に駆け寄った。
小柄な晶がを見上げて何事か告げると、仏頂面をした長身の美丈夫が、彼等を注視していた王子達に向かってペコリと頭を下げた。部員達もペコリと応じる。晶が彼の隣で彼女の常である無表情のまま手を振って、2人は連れ立って裏門のほうへ歩いて行った。
その後ろ姿を眺めながら、安孫子が興味津々と言った顔で掌で眉の上に庇を作って彼等を眺める仕草をした。
「あれって、もしかしてバスケ部の1年生じゃないですか?確か今年『外人が入部して来た』って噂になってたと思いマス!すっごい爽やかでキラッキラしてますねえ。モテそう。『リア充』そのものって感じ」
王子は(コイツいちいち仕草が演技がかってるよな)と心の中で思ったが、いつもの事なので、わざわざ言葉にはしなかった。
「……もしかして森先輩の彼氏ですか?」
ふくよかな館野が、メガネをクイっと持ち上げながらニヤリと首を突っ込むと、王子は焦ったように否定した。
「違う、違う。森の弟だよ」
「「おとうと……!?」」
安孫子と館野は、驚愕していた。
「全然、似てない…!!」
「サイズ、違い過ぎだろ?!」
「いや、その前に国籍違うんでない?!」
そんな風に話題にされているとは気づかず、隣を歩く背の高い男を見上げ、晶はお礼を言った。
「迎えに来てくれて、ありがとう」
「……楽しかった?」
上から降って来る優しい声音にホッとして、晶は「うん」と頷いた。
「走ってたの?」
「ちょっと早く着いちゃったから、月寒公園を少し」
出会った頃は晶より小さかった。
清美の骨ばった大きな手と逞しい腕の筋が目に入り、晶は不思議な気持ちになった。
(いつの間に清美はこんなに大きくなったのだろう)
そして先日練習試合を観戦した時の事を、不意に思い出した。
『腕の筋肉が良いねえ』『そのエロい表現、止めて。オバサンみたいだから!』と、ふざけ合っていた女の子達の台詞。
(声も……いつの間に低くなったんだっけ)
そして気付いた。今まで自分は成長した清美に、出会った頃の小4の清美をフィルターのように被せて見ていたのだ。本人はもうすっかりこんなに立派に成長していると言うのに。
清美はもう、自分が見守っていた子供では無い。
逆に晶の事を見守れるほど、大人になってしまっているのだ。
初めて会った時小学生の清美は小柄な晶より小さかったと思う。しかし中学校に上がる頃から、その背丈は筍のようにぐんぐん伸び始めた。
バスケ部に所属するようになるとほとんど練習に掛かりきりになった。そのうち札幌地区の選抜選手に選ばれ、土日は強化事業の練習に出かけてしまい、受験勉強で塾に通う晶とは擦れ違う生活が始まった。
家にいる時はだいたい食べているか爆睡しているかの清美と、会話を交わす事も殆ど無く、じっくり顔を合わせる事も殆ど無くなった時期があった。
今日のように再び2人が一緒に過ごすようになったのは、清美が部活を引退する中3の夏頃からだ。
晶は清美に受験の相談を受けるようになり、そのうち参考書を一緒に買いに行ったり、ついでに寄り道して晶の大好きな甘い物を食べに行ったりするようになった。しかし既にその時には、第二次性徴を終えた清美がすっかり元の清美と入れ替わってしまっていた。まるでタイムマシンに乗って、一足飛びに大きくなった清美に会いに来たみたいだ、と晶は思っていた。
けれども、話し始めると中身は幼い頃とそう変わらない。清美とは結局ほぼ1年間、口も滅多にきいていなかった。しかしその期間がまるで存在し無かったかのように、彼がすんなり晶に再び懐いてくれたので『ブラコン』の彼女は大層嬉しく思ったものだ。
―――懐くのを通りすぎて、少々小姑みたいに過干渉になってしまったが。
(そういえば)
晶はハタと立ち止まった。
2人の通う高校は、公立とはいえインターハイにも常連で出場するバスケの強豪校である。朝練に放課後練とどれだけ体を酷使しているのだろう。なのに夏休みとは言え、こんな時間に迎えに来るなんて大丈夫なのだろうか。
晶はふと、不安になった。
立ち止まった晶に気付き、清美も足を止めて振り向いた。
「今日もバスケの練習、あるんだよね」
「うん」
「こんな時間に起きて大丈夫?」
「……どうせ、眠れないし」
ソッポを向いてポツリと清美が呟くので、晶は目を見開いた。
「え?……そうなの?何で眠れ―――」
『何で眠れないの?』
晶が尋ねよう時、すぐそこにある横断歩道の信号がチカチカと瞬いた。
「走ろ」
彼女が発しようとした問い掛けを遮って、清美は彼女の左手を捕まえると走り出した。
ぐんっと勢いよく腕を引かれ、運動音痴の晶の体が加速する。
晶の右足が最後の白線を蹴ったとき、赤信号に切り替わった。ギリギリ間に合ったようだ。
「せーふっ!」
振り返る清美の無邪気なドヤ顔に、晶の口元は思わず綻ぶ。
清美はそのまま繋いだ手を離さなかった。
楽し気に鼻歌を歌い出し、リズムに合わせてぶらぶらさせる。
彼の根の明るさは、ともすれば内気を拗らせて意固地の海に溺れかけてしまう性質の、晶の浮き輪の様なモノだった。
「俺さ」
繋いだ手に、微かに清美が力を込めた気がした。
「中学に入った頃、背が伸び出して声変わり始まってさ。なんかねーちゃんと話すの、恥ずかしくなっちゃった時期があったんだよね」
ははっと自嘲気味に清美は笑った。
「ねーちゃんは受験で忙しいし俺もバスケ上手くなりたくて必死だったから、実際話す機会自体減っちゃってたんだけどさ。会ってない間の事なんかも、ねーちゃんと話したかったのに、いざ顔を合わすとなんか恥ずかしくて……俺、変な声してないかな?とか、汗臭くないかな?とか―――今考えると、しょーもない事なんだけど、気になっちゃって」
晶は清美の告白に戸惑った。
「全然、そんな風に感じた事無いよ?清美がそんな風に考えているなんて全然知らなかった。母さんが『清美は思春期だ』って言うから、そうなのかと……いつも家では食べてるか、疲れて爆睡してるかのどちらかだったしね―――確かに中2くらいまでの清美って私、食べてるとこか寝顔しか見てないかも」
清美は少し顔を赤らめて、呟いた。
「それはさ……えっと、うっすら起きてる時もあったんだけど……なんか寝たふりしちゃってて」
「そうだったの?」
それは初耳だ。晶は目を丸くした。
「……ねーちゃん、俺の寝顔、偶にスマホで撮ってたろ」
清美が視線を晶から逸らし、頭を掻きながら言った。
晶はぎくっとして笑って誤魔化した。バレていると思わなかった。
「あはは……だって清美とあんまし接点無くて、ちょっと寂しかったから。無邪気な寝姿を写真に納めて、ほこっとしたかったっていうか―――起きているなら言ってよー恥ずかしいなぁ、もう……」
『中学生になれば、男の子は姉や母と話をしなくなるものだ』
と、何かの本に書いてあった。
懐いていた清美が離れて行くのを成長の証とは知りつつも、寂しく思っていた。人付き合いが不得手な、不器用で人見知りな晶にとって、清美は貴重な話し相手でもあったから。
「私、友達少ないしね」
自嘲気味に笑うと、清美は首を傾げた。
「おーじとかと仲良いじゃん」
「それは努力したから。これでも人見知り治そうと日々頑張ってたんだよ、密かに。でも結局今親しいのって、実際、地学部員くらいなんだけど」
歩道橋を昇る階段で少し照れたように笑う晶に、清美はそっと溜息を着いた。
そして橋の真ん中辺りで立ち止まると、その手を握ったまま欄干に体を凭せ掛けて晶に向かい合った。
「俺、後悔してたんだ。もっとねーちゃんと一緒に居たいし、話したかったって。今日迎えに来たのは、俺がしたくてやってる事なんだ。だから、本当にねーちゃんは『俺の迷惑』とか気にしなくて良い。高校も俺の以前の成績だとバスケできるの、ホントは私立しか選べなかったけどねーちゃんと少しでも多く一緒に居たくて、受験、頑張ったんだ」
清美の左手から、暖かいものが流れ込んで来るようで、晶は自分の右手を強く意識してしまう。
普段纏っている明るい空気の下で、彼が口に出さなかった本心を吐露している。常に無い真剣な表情に、晶はどう応えるべきか戸惑ってしまう。
歩道橋の上の空気がとろりと自分を包み込むように錯覚する。次第に東の空から差し込んでくる光の帯に、空気の粒まで感じ取れるかのようだ。まるで現実感が無い。
びゅんっ
歩道橋の下を通り過ぎるトラックが起こした風切り音にはっとして、晶は自分の頬がほかほかと火照っているのに気が付いた。
「そ、そっか……」
清美の真剣な眼差しが、かっちりと晶を捉えた。
その思いのほか強い視線に、口籠る。
(なんという堂々としたシスコン宣言……!)
晶は呆れてそれ以上二の句を継ぐ事が出来なかった。
呆れると同時に、とんでもなく恥ずかしい。他に誰も見ていないが、恥ずかしい。
清美がこんな風にハッキリと『姉と少しでも一緒にいたい』などと宣言するのは初めての事だった。
そんな気はしてた。離れていた時間が長かった所為か、反動で妙に懐いているな……とも。ブラコンの晶にとって、それが嬉しかったのも事実だが。
しかし恥ずかしいものは恥ずかしい。
体の芯がむず痒くなる感じを覚え、大変居心地が悪い。
「き、清美ったら、体ばっかり大きくなっても、言う事がまだまだ子供ダヨネー…」
台本を読むような棒読みになってしまう。
照れ隠しにあははと茶化しながら、晶は繋がれたままの手を、ぱっと清美の大きなゴツゴツした手の中から引き抜いた。
「……」
清美は、晶がするりと逃げて行った後の己の手の平をゆっくり開き、じっと見る。
晶はそんな清美に何かジリジリとした焦りのようなモノを感じて、たまらず促した。
「ねえ、帰ろっか。眠くなりそう」
清美は無言だ。微妙な表情で晶を見つめている。
「……清美?」
不安になって、名前を呼ぶ。
先ほど彼が大人になってしまったと気付いた時よりもっと、清美が遠くに行ってしまうような不安を感じた。
自分の声が、彼の耳にもしかして届いていないかと思った。
そんな事ある筈が無いのに。
晶が覗き込むと、清美は薄く笑ってようやく欄干から腰を起こし、歩き出したのだった。