3.おとうとは過保護?
ここへ来ると約束した頃には、心はもう飛び立っていて、その場所に体がやっと辿り着いた。晶はウキウキと沸き立つ心を抱えながら、スタバの自動扉を潜ってショウケースに小走りで近づいた。
「シナモンロールも捨てがたいけど……チョコレートチャンクスコーンも捨てがたい……」
ガラスケースと睨めっこしている晶に清美が「2つ頼めばいーじゃん」と、大らかな言葉を掛ける。高い位置から降り注ぐその言葉は、天啓のように晶に降り注いだ。
目を輝かせながら晶は素晴らしい弟を振り仰いだ。
「でも……いいの?」
「俺部活ばっかでお小遣い使わないから、無くならないんだよね」
「!……そう?じゃあ、お言葉に甘えて……」
晶は感激して提案された通り、チャイティーラテと一緒に2つとも注文する事にした。普段大抵の事に遠慮深い晶だが、甘い物に関しては別だ。清美の好意に感謝しつつ(今度夕飯に清美の好きなハンバーグ、作ってあげよう)そう心に決めたのだった。
受け取り口でトレーを受け取ろうとすると、頭の上からひょいと長い腕が伸びて来てそれを奪った。清美はトレーを2つ持って、そのまま空いている席へ歩いて行く。晶は大きなスライドのその背中を小走りに追った。
運良くソファ席が空いている。
テーブルにトレーを置いた清美に「ありがと」と言うと「ん」と返事をする。それから2人で向かい合ったソファに深く腰掛けると、同時にほうっと息を吐いたのだ。
思わず笑いが込み上げて来てクスクス笑ってしまう晶を、清美が怪訝な顔で見つめた。
「何?」
「いや、リアクションがハモってて……可笑しくなっちゃった」
「確かに。温泉に同時に入ったみたいに、息ついてたもんね」
清美もぷっと噴き出して、2人で一頻り笑い合った。
その波が落ち着いた頃、真顔に戻った清美がポツリと呟くように言った。
「そういえば……今日の『おーじ』って奴、何?あれ、渾名?」
「苗字だよ。王子基っていうの。私と同じ3年生だから、先輩だよ?呼び捨てにしないでね」
清美がいつもの『過保護』機能を発動させたと気付いたが、敢えて晶は年長者らしく真面目な表情を作って応えた。しかしすぐに、華奢な王子の気障なくらいスマートな物腰が思い浮かび、顔が綻ぶ。
「確かに―――王子様みたいな外見だけれどもね。清美よりは小柄だし女の子みたいに綺麗な顔をしているから、知らない人が見たら、清美の方が年上に見えちゃうかもね」
「……」
清美が不機嫌に黙り込んだ。いつもの事なので、晶はそれほど気にしない。表情に乏しい晶と違って、清美は感情がすぐ顔に出るからだ。割と短気でカッとなりやすいが、暫く経つとケロリとしている事が多い。だから彼女は弟の不機嫌は受け流す事にしている。
「今日は夏休み合宿の準備をしてたの。ホラ、ウチ部員少ないから3年生が率先しないと」
「えっ合宿?……それって、泊まり?」
何故か慌てた様子で、清美が身を乗り出した。
「あいつも一緒?王子のヤツ」
「王子先輩」
清美の言葉尻を訂正して晶は答えた。
「部員だもん、当たり前でしょ。泊まり―――にあたるのかな?夜11時集合、朝4時解散なんだ。ペルセウス流星群、楽しみだなあ……、あー絶対、晴れて欲しいっ」
空いっぱいに雨のように降る流れ星を脳裏に描いて、晶がちょっとうっとりしていると、その書割をバリバリ破って、腰を上げた清美がテーブルに手を付き更に身を乗り出した。
「泊りなんて反対!行くの、止めなよ」
「部員4人しかいないのに、副部長の私が行かないなんてあり得ないよ。だいたい、家って集合場所の学校まで歩いて10分ちょっとでしょ?危ない事なんてある訳無い」
通常営業の冷静な表情で、小姑を諭す晶。
小姑清美はテーブルに手を付いて身を乗り出したまま、じぃっと探るような視線を貼りつけている。
「学校からは観測場所の藻岩山まで先生の車で移動するし。もし、どうしても帰り危なそうだったら、近い人に送ってもらうから大丈夫だよ」
「それって、『おーじ』?」
「まあ……王子になる、かな?」
清美の目が剣呑に細められた。
そんな目で見られると、後ろ暗い処は何もない筈なのに、晶はちょっと怯んでしまう。
「反対!アイツは、危ないって」
「え……はぁ?」
晶はあんぐりと口を開けた。
ここまで来ると妄想が酷すぎる。
王子は気の置けない同好の士で、仕草は(ちょっと)気障かもしれないが、基本素直な好青年だ。彼とは中学校の頃から付き合いがある。高校では地学部でずっと協力し合ってきた、人見知りの晶の数少ない友人だ。彼の事は昨日一瞬会話を交わしただけの清美よりずっと判っている。彼は決して『危ない』という謂れのない非難を受けるべき人物では無い。
晶は腹に据え兼ねて、低い声を放った。
通常運転の無表情に重ねた黒縁眼鏡が、冷たくキラリと光る。
「清美だって、バスケ部の合宿行くでしょう?当然女子もいるよね、どこが違うのよ」
「だってアイツと親しそうだから……」
「王子は大事な友達なの。親しいのは当り前なの。長い付き合いで合宿だって観測だって何度も行ってる。今までだって王子は親切だった。酷い事なんかされた事ないよ」
「いや、その親切が問題……」
晶が目を細めると、清美は口籠った。
晶はいつも清美に甘い。小姑のようにケンケン干渉されても、マイペースにのほほんとスルーするだけだった。けれども数少ない友人を貶されて、黙っている訳には行かなかった。
「ただの友達同士で危ないって言うなら、清美を気に入ってる女子マネが一緒だったら、もっと危ないよね?つまり清美の論理では、一晩同じ宿舎に泊まったら、清美が彼女に何するか判らないって言っているのと同じだよ」
清美は一瞬、うっと詰まってから若干力を弱めて反駁した。
普段おっとりとしている晶を怒ることは滅多に無い。清美にはもう白旗を上げるしか道は無かった。
「俺はマネの事何とも思ってないし……」
「私だって、王子だって、何とも思ってないよ。第一私の友達をそんな風に言うなんて、失礼だよ」
清美は乗り出していた長身を折り曲げるようにソファに押し込んで、溜息をついた。そうして暫しの沈黙の後、一度ゆっくり細く息を吐いてから体勢を立て直し、口を開いた。
「じゃあ、迎えに行くよ」
「1人で帰れる。駄目なら送ってもらう」
清美は、ぐっと眉を寄せて晶を睨んだ。
「早朝に遠回りしてもらうのって、結構大変でしょ。ウチは近いんだから、絶対迎えに行く。これは譲れないよ」
「うっ…」
王子を慮る事を理由されると、反論はできず唸るしかなかった。
「……子供じゃないのに」
と俯いて晶が呟くと、清美は低い声で駄目押しした。
「子供じゃないから、だよ」
声音に有無を言わせぬ色を滲ませて、『これで話は終い』というように、清美はカフェラテに口を付けた。