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1.おとうとはシスコン?



午後の柔らかい日差しが、ぶれたモザイクを廊下に落とす。部室棟に充てられている古い校舎に続く年季の入った廊下の窓は、厳しい冬の寒さを緩和する為の二重窓で、サッシの枠が重なり合うように少し傾斜した四辺形の影を織り上げていた。


晶は小柄な体にその頭を越える望遠鏡を抱えて、少し汗ばみながら備品庫から地学部の部室の入口を目指していた。

なんとか入口に辿り着くと、望遠鏡の重みを左肩に預け右手をノブに掛ける。


几帳面な弟に、よく粗忽さを指摘され呆れられる。


『一旦、床に置いてから扉を開ければ良いのに』


こんな処を見られたらまずそう小言を言うだろうな、と晶は想像する。

そして(一遍に済ます事ができれば、それに越したことは無いのに)と、晶は勝手に想像した弟の小言に勝手に反論して溜飲を下げた。

例え正論でも、ああチクチク続けられると逆らいたくなる。弟は最近自分に干渉し過ぎなのだ。反抗期を過ぎてからの彼の態度に晶は、辟易する事が多くなった。


ノブをなんとか回し左肘で押すと、僅かに隙間が拡がった。そのまま体を割り入れようと格闘するが、重い望遠鏡を抱えた小柄で非力な彼女の手には負えないようだ。


すると不意に扉の反発力が消え、すっと大きく奥へ動いた。


誰かが晶の頭の遙か上方で扉を押してくれたのだった。


「ありが……」


振り向くと体温を感じる程の近さにシャツとネクタイが目に入り、晶はドキリとした。

(おっきい男の人だな)と改めて見上げると、そこに見慣れた顔があった。思わず肩の力が抜ける。道理で嗅ぎ慣れた柔軟剤の香りがする筈だ。


「清美かぁ」


そこにいたのは弟の清美だった。まだ真新しいピシリと折り目の付いた制服のズボンに、晶と同じ柔軟剤の香りがするシャツを着ている。180センチを超える長身はしなやかな筋肉で覆われていて、毎日鍛錬を重ねて積み上げて来たものだと、背中側から一見しただけで見て取れるだろう。


清美は晶を見下ろして、彼女の予想通り小言を言った。


「床に降ろしたほうが、早いのに」


発しようとした『ありがとう』を晶が呑み込んだ時、中背の男子がそこへ慌てて駆け寄って来た。


「遅くなって、ごめん。」

「おーじ」


晶と同じ地学部の部員の王子だった。


「大丈夫?重かったっしょ」


彼は望遠鏡を晶から優しく奪い取り、素早く部室の中へ運び込むとすぐに戸口に戻って来た。そしてどことなく晶を背に庇うように、清美と晶の間に身を置いたのだ。


「誰?」

「弟」

「えっ?―――弟?!」


王子の気持ちが手に取るように分かる。晶は驚きを隠せない友人の表情をチラリと見てそう思った。

彼は足元から頭の上まで、晶の弟と呼ばれた男をあらためてじっくり確認した。微妙に納得が行かないようだが、大抵誰にでも愛想良く振る舞う王子は相好を崩しニッコリと友人の弟に笑いかけた。


「そっか。君が森の弟なんだ―――よろしく!デカいねー……確か1年生だっけ?」


約束の時間に遅れ慌てて走って来た王子には、部室の戸口で大きな男子生徒が小柄な晶を囲い込んでいるように見えたのだ。少し納得が行かない部分はあるが、人見知りの晶がリラックスしている様子を見れば、警戒心を持つ必要は無いのだと理解した。


友好的な態度の王子に対して、何故か清美は無表情だった。美術室のクロッキー用の白い彫像のように見える顔の、目だけを動かして答えた。


「はい」


にこにこ顔の王子と、仏頂面の清美。

満は(またか)と思ったが、次の作業に早く移りたいのでこの場をそうそうに切り上げる事にした。


「清美、ありがと。じゃね」

「ねーちゃん」


サラリと言って部室に入ろうとすると、その背を弟が呼び止めた。


「今日、部活早上がりなんだ。用事あるから、一緒に帰ろうよ。終わるの、待っててくれない?」


くるりと首だけ振り向いた晶は、眉を顰めて即座に応えた。


「えー、やだ。めんどい」


晶は無駄な時間を過ごすのは嫌だった。仮にも受験生なのだ。作業が終わり次第、家に帰りたかった。それにいつも部活で多忙を極める弟を、逆に待たせる事になってしまったらと考えると気が重い。


だから晶はわざと素っ気なく言い放ったのに。


「スタバでケーキ奢る」


被せるように清美が言うと「行く」と一瞬で意志を翻したのだった。


無表情だった清美が二カッと破顔した。

そして一瞬前とは打って変わってほくほくした様子で「じゃ、後で~!」と明るく手を振り、そのまま廊下を疾風のように駆け去って行ったのだった。


2人の遣り取りをポカンと眺めていた王子が、素朴な疑問を投げ掛けた。


「…似てないね」

「うん、連れ子だからね」


上の空であっさり返事をする晶。

彼女は明らかにソワソワしていた。晶は度を越えた甘い物好きだ。『ケーキ』と言われただけで、心は帰り道のスタバに飛び立ってしまった。


「えぇ!そんなアッサリ……でも、そうだよね、全く似て無いもんね」

「私が小6で清美が小4の時に私の母と清美の父親が再婚したの。背丈もそうだけど、見た目もね。血の繋がり、皆無でしょう。清美は派手だもんね。お母さんは外国の人だから。私は地味だし」

「地味って言うか……純和風……?」


確かに地味かもしれない。


流行とは無縁の黒縁眼鏡。前髪はパッツリと眉の処で揃えられ、腰まで届くまっすぐな黒髪。その髪に装飾が施されたり、パーマや染色はおろか、一般的な女子生徒のように可愛らしい編み込みや凝った結い方をしている処を、王子は滅多に目にした事は無かった。


けれどもシミ一つ無い真っ白な肌は陶器のようで、漆黒の長髪は艶々としていて小柄な彼女を見下ろすと綺麗な天使の輪が見える。それを見る度王子は何とも言えないまろやかな気持ちになるのだ。眼鏡の奥には大きな黒曜石のように輝く瞳。近くで彼女を見る機会がある者しか気づけない事だが、長い睫毛がその大きな瞳に影を落としているのを発見した時、王子の胸は震えた。


純和風と王子が言い直したように、彼女はまるで日本人形のようだった。

その言葉を揶揄いとして使用する者も確かにいる。だけど王子はその状態にいつも安堵しているのだった。彼女の本当の輝きを知られてはならない。ただでさえ、部の悪い勝負の旗色がさらに悪くなってしまう。ライバルがポコポコ発生する状況なんて御免だった。


(彼女の魅力は僕だけが知っていればいい)


超の付く人見知りの彼女に『友人』と認識されるまでどれだけ努力を重ねて来たか。同じ趣味を持つ中学校から顔見知りの王子でさえ、彼女との間にある硬いアクリル板が薄いセロファンに削られるまで、かなりの時間を費やしたのだった。




清美の外見は彼女と対極的だった。人波に混じれば埋もれる彼女に対して、旗印のように、にょっきりと目を惹くであろう背丈、色素の薄い肌と瞳。栗色の頭髪がキラキラと陽の光に輝いていた。王子はあれは染めたものでは無いのだな、と了解した。


最初に王子に向けた表情こそ冷たかったが、彼の姉に向けた笑顔には、明るい日差しのような人を惹きつける魅力が秘められていた。きっと周囲の女子生徒からいつも熱い眼差しを受けている事だろう。整った精悍な表情は男の王子でさえ一瞬見惚れてしまう程に美しかった。


晶は考え込む王子を見て、誤解したようだ。すまなそうに、こう言った。


「清美―――態度悪くてごめんね。弟なのに過保護っていうか……街で男の人に道を聞かれただけで『ナンパだ!』とか騒いで、機嫌が悪くなるの。私がよっぽど無防備に見えるみたい。こんなに地味でモテないのに、男の人と関わる事をすっごく心配するんだよね。身内の欲目ってスゴイよねー。これって―――」


彼女の認識違いは甚だしい。

でもずっと誤解したままでいて欲しいと願う、身勝手な男は否定も肯定もせず彼女の話を受け流していた。


「『シスコン』って言うのかな?」


王子は思わずゴホッと噎せた。


彼女は全然、全く判っていない。


多分、彼女の弟が抱いているのは、もっと違う感情なのだろう。

だけどこのままずっと―――弟から向けられる感情に鈍感でいて欲しい。


内心強くそう願いながら「そうだね」と可もなく不可もない返事をするしか無い、王子だった。



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