番外・名前を失った女の子 中編
貴方は子供の頃にあっただろうか? それとも、無かっただろうか?
大なり小なり学校で、最近では職場でもあるらしい。
いじめ
人の悪口を言ったり必要な知らせをしなかったり間違いを教える=貶める、小突く=いじめて苦しめる。
生きている以上、感情がある以上、本能がある以上、気に食わない事や気に入らない人はあるだろう。我慢が出来ない事もあるだろう、時として「理由なんてない」場合もあるだろう。妬みもあるだろう、嫉みもあるだろう、僻みもあるだろう、羨む事もあるだろう。
人は簡単には変わらないだろう。
それは、突然起きた。
前夜明け方近くに屋敷に慌てて訪れた者の知らせにより、屋敷は厳戒態勢が敷かれていた。
今もって、それがどんな事が起きたのかは判らない。判るのは、目が覚めて普段ならば朝食は一緒に取ろうと努力する王子が現れなかったと言う事と、外に出ない様に言われた事。
かと言って、家の中で閉じこもってばかりいるのは流石に飽きて来た感じがしたので庭に出た……側仕えは良い顔をしなかったが、かと言って止めなかった。ここで止めたとしても後で王子の不況を買うよりは良いだろうと思ったのと、諦めが入っていたのだろう。
手記を持って庭でお茶を楽しんでいる所に、物音がした。物音と言っても小さいものではなく、金属の触れ合う音や者が壊れる音で、何事かと顔を上げればすでに遅かった。
屋敷に閉じこもっていればまだマシだったのかも知れないが、顔を上げた時には目の前に人が立っていた。
こちらに背を向けている人物と、こちらを向いている人物。
横では女性の甲高い声がして、それが侍女のものだと気が付いたのは背中を向けている人物が薙ぎ払われ剣を取り落とし。その流れで侍女も振り払われ、気が付けば荷物を運ぶように腹部に圧迫感を感じていた。
自分が攫われたのだと気が付いたのは、どこぞに落とされた後で随分と手慣れた調子で手足を縛られ。袋に詰められてから木の箱に放り込まれると言う判断をした所まで記憶がある。
恐らく、気絶したのか薬を盛られたのだろう。もしかしたら、魔法で眠らされたのかも知れない。
目が覚めた時、そこはかび臭い場所だった。
手足は解かれ、ドレスは脱がされて下着状態だった。下着とは言っても、半そでブラウスにドロワーズと言った姿なので身軽と言えば身軽だ。それでも、コルセットはつけたままなので体が痛いと言う感触は……すでに感じないけれど。
誰も来なかったし、光源は遠いのか暗かった。時折、上の隅の方から一瞬だけ光が入る事があって人が見ているのだと言う事が判った。
物音がして暗い中で目が慣れると、光源の下の方に食べ物がある事が判った……城や貴族の食事に慣れた身の上からすれば、食べられたものではないと言いたくなるほどに硬いパン。具の見つからなかった、お湯との違いが判らないスープ。一杯の水。
目が覚めた直後でコルセットをしたままでは、それでも十分なほどの分量だった。とは言っても、食欲など無かったけれど、他にやる事もなかったし時間の流れが掴めなかった事もある。手でちぎれないので、歯でがりがりと齧らなければならないパンはお菓子だと思ってやり過ごした。
どれだけの時間が過ぎたのか判らない中で、突然扉が開いた。
暗闇に慣れた視界には眼球を刺す光は苦痛で、手をかざしてもまぶしかった。
そうこうしている間に、腕を掴まれて連れ出された……一瞬だけ、助けが来たのかと思った自分は甘いのだと思い知らされる。
廊下は部屋に比べれば比較的明るいと言うだけであって、そこも何年も掃除をしていないかの様な汚らしさを隠そうともしない粗末な壁や床をした廊下で、そこには他に薄汚れた格好をした男たちが何人も居た。こちらをじろりと見た人達の何人かの視線を本能的に恐怖した。
連れて来た人物は、何かを言っていた……基本的な言語は変わらないと思いたいので、もしかしたら方言の様なものなのかも知れない。その男達に混じって、歩き出した人の波に押されながらどこぞへ連れ出された。
王子と乗ったのが四角い箱馬車と言うのであれば、Uの字を逆さにした布で屋根の着けられた幌馬車とでも呼ぶようなものに乗せられた。タラップがあったから良かったが、無かったらどうなっていたのかは少し判らない。
布を降ろされると、その中は随分と暗くなった。でも、男たちは話もしないし話しかけても来ない。馬車が動き出したからだ。
王子と乗った馬車もそうだが、基本的に造りが同じなのか揺れの激しい馬車は座っているだけで重労働だ。馬車の両端に長椅子が置いてある状態で、そこから落ちない様にするだけでせいぜいだ。それでも、何度も落ちては頭を打ったりしたけれど、自分達も二の舞を踏みたくないのか誰も何も言わなかった……何というか不気味である。
そうこうしている間に目的地についたのだろう、幌を外された先は明るいし目を刺すけれど、先ほどに比べればまだダメージは少なかった。
男達の列に加わって馬車を降りて、もしかしたら解放されるのだろうかと言う気がしないでも無かった。同時に、十数人の男達と一緒にいる事で身の危険を感じなかったら嘘になる。特に、今はこの世界では下着姿で薄汚れた男達の中に居るのだ。誘っているのだと言われても、元の世界と違って反論のしようがない。
しかし、どうやらそれは杞憂だったらしい。その中で馬車を操縦していた人達……身なりからすれば監督なのか、彼等が何かを指示すると男達は馬車の中から道具を出して来る。誰も何も説明しないので判らなかったが、それはつるはしやスコップなどの工事現場や農業で使う代物だ。続々と一列に並んだ男達は道具を手に取る……しかし、とてもではないが見た事もないのだ。何をすれば良いのか、どうしたら良いのか判らない。そもそも、自分はどう言った立場になったのかも何も知らされていないのだ。
本能は止めておけと言ったけれど、それでも何をどうしたら良いのか判らないと言う事。自分は王子の客人でこんな事をされる覚えはない事、こんな所に誰がどうして連れて来たのかは知らないが、早くお城に返してほしいと告げた。すげなく断られたが。
曰く、ここは罪人を収容する施設である事。
曰く、罪人がどこの誰かなのかは一切知らない事。
曰く、連れて来たのは騎士であって正式な手順を踏まえられていた事。
ただし、罪人であっても命の保証はされる。作業をすることで食事を与えるし、特別に独房に入れる事で生命の安全を保証する。服装に関しては、連れて来られた時点でその恰好だったから詳しい事は知らないと。
一瞬、王子ではないが逃げ出す事も考えたが罪人になった時点で魔法がかけられており、収容所や監視から一定の距離を離れると死亡する呪いがかけられていると言われて断念した。
王子妃ピュレリティに手紙を出して助けて貰う事も考えたが、そもそも文字を読む事は出来る様になったが書く事はまだ勉強していなかった。何より、収容所からの手紙を王子妃が読むかと言えば読まない可能性の方が高いと言うのは判った。
自分は連れ去られたけれど、王子の所在を聞いても彼は知らなかった……質問に答えてくれただけ、彼は良い人なのだろう。少なくとも、どこからどれだけどれだけの作業をしなければ食事は出ない事まで教えてくれた。出来ないと言えば、すげなく食事が出ないだけだと言われた。
それから、どれだけの時がたったのだろう?
最初のうち、与えられた作業についていけなかった。水は最低限出して貰えたけれど一食分程度、栄養素が入っているのかは不明だが死なない程度に生きているのだから、水だけでも何とか生き延びていられる……ただし、疲れ切った為に力尽きて倒れる事も多かった。
コルセットを外したいと言ったが、流石に緩めるだけにした方が良いと言われて不満だった。ただし、その理由はすぐに知られた……男の一人に襲われかけたのだ。コルセットをしていた為に外すのに手間が掛かって監視に見つかり、以後はその男を見ていない。
風呂どころか、体を清める余分な水も貰えないのは辛かった。しかも、着替えもないのだから己の体から悪臭が漂って来た日には自殺願望さえ鎌首を持ち上げたくらいだ。何故、こんな所でこんな目に合っているのか……でも、何となく想像はついた。
自業自得。
もしくは罪悪感だろう、それがあったから今の状況を受け入れる事が出来る。正確には、流されていられる。
力がついて筋肉がついて、作業は出来たり出来なかったりだが、道具を扱うコツを掴めるようになってからは随分と楽になった気がした。
あっさり死ぬことも何度か考えたし、この状況に耐える理由も思いつかなかったけれど。
その時は、来た。
突然、気持ちの悪さに全身が拒絶している気がした。
立ち上がるのも無理な状態で、いつものように扉の向こうに引き立てる人が居たが体の中身がひっくり返るかと思う程の衝動の中にあって痙攣するくらいの状態だった。
時間の流れも何も感じない、目が覚めると虚ろで、それ以外はほぼ眠っている状態だったのだろう。
しばらくすると状態はよくなったけれど、そうこうしている間に作業がたまっている事を考えると気分が沈む。病欠したらどうなるかを聞いた事が無かったから知らないが、その分の罰則はどうなっているのだろうかと思えば憂鬱だった。
だが、それも別の意味で裏切られる事になる。
一度、ある程度は身を清められた状態で連れていかれた場所があった。
そこは、自分が寝起きした場所に似ていた気がした。そこよりは明るいけれど。
鉄格子が全面に張り巡らされた場所には、恐らく椅子に座っているのだろうと思える人が居た……何故はっきりしないかと言えば、鉄格子の向こう数メートルは距離があったし、その人物は白い布らしきものでぐるぐる巻きにされている。口と思われる場所と、最初見た時は気が付かなかったが下の方に管が差し入れてあり、生きているのか人形なのかも正直判断が付かない。
ただ。
その髪の色に、見覚えがあった。
その片目しか開かぬ目に、見覚えがあった。
確証があったわけではない、誰も何も教えてはくれないから。
当然、ここに連れて来た人に尋ねたのだ。ここは一体どこなのか、これからどこへ連れていくのかと。
やはり答えは無かったけれど。
愛情の裏返しは憎しみと言われるが、そこには実を言えばもう一つ入る事がある。
無関心=存在の抹消。
重たい愛情、望まぬ憎悪、どちらも片方だけのものならば悲しい結末を産む事もあるだろう。
相手を自身から削除する事も、あるだろう。
でも、それを誰が望のだろう?