後編
本編後編です。
名前を呼ばれなくなった来訪者
己の立場に押しつぶされた王子
夫に裏切られ捨てられた王子妃
初恋を胸に秘め恨み募る弟王子
幾つかの事を見る異世界研究者
罪深いのは、誰?
「ねえ、アルトレイド……」
「……何かな?」
武人と言うか軍師としての鍛え抜かれた直感とでも言えば良いのか……何故、今まで考えに至らなかったのだろうかとアルトレイドは自身に問いかける。
自分の放った影たる存在、それも兄夫婦を遠目から見張る様には命じていた。
でも、兄が抜けだす時に報告が遅れた……何故なのかと、聞いたところで報告しに来る際に族が入った為に邪魔をされて遅れたと言っていた。
テミストクレスと昔なじみだと言う、義姉。
努力の末に、令嬢たちの憧れの女性として尊敬される初恋の女性。
「情勢は、落ち着きを始めたとは言っても盤石なものではないわ。
戦争は一時期の終結を見せたけれど、それは幻と言っても良い程度のもの。いずれ、また小さな小競り合いなど飽きる程起きるでしょう、何より復興が進まなければ民の間に動揺が走り流通や経済が通らぬ地域では格差が生じ、民によっては自ら生産するより他者から奪うと言う楽な道を選ぶ者とて生じるのでしょうね……神殿でも、神からのお言葉が賜れぬ事で神官達が力を振るえずに各地で小さくない不満が生じているそうね。
ああ、だと言うのにわたくし達はこの様に守られている……」
「ピュレリティ?」
普通の貴族の令嬢ならば、その様な事は気にしないだろう。
余程、庶民に近い生活を送る下級貴族ならば気にする必要もあるかも知れない……何故なら、下級貴族で貧乏な生活を送っている者の中には貴族である事を隠して働きに出なければならない様な者とて存在する。金で買える爵位である男爵、準男爵。貴族との婚姻により子爵位より上の一族に加わった様な者も、一族に貴族ではない者が居ると言う所から情報を集める事は出来るだろう。
でも、それが上級貴族にして貴族の筆頭に限りなく近い侯爵家令嬢の口から出た言葉とは思えない。
貴族の令嬢は、上に上がれば上がるほど人形の様に男の言いなりになる事を求められる事が普通だからだ。それでも、王族である以上はある程度のかしこさも求められるのだから女性側にしてみれば理不尽この上ないだろう。
場合によっては、人ではなく財産として売り買いされる事さえ普通にあるのだから。
「アルトレイドの様な武人、お義兄様方やお義姉様方の様な役職にあるならばともかく。
リーディウスの様な者が避暑気分で、しかも異世界からの『来訪者』を連れ立って各地を回るなんて……民からしてみれば、どう見えるのかしら?」
「……そうだね、『リーディウス』は外交をしているわけでもない文官扱いだからね。
特に、ゲームや芸術に傾倒しているから世情を知る事は少ないだろう。口さがない人々の噂話も耳に入れるのは忌々しいと思っている」
「ああ、本当に心配ですわ……世の中はまだまだ不安定なであると言うのに物見遊山よろしく。お忍びで抜け出して少女に連れ出されるなんて……神のご加護があればよろしいのですけど」
「彼等の旅の道行を祈る必要はあるのかな?」
かつて、アルトレイドは恋に落ちた。
目の前に居る、義姉となった人物に。
小さな、子供ならば許される失敗をしてしまった時にも平然とした顔をしていた。常に冷静な顔をしていたピュレリティは、公務をしている家族よりも人形の様でいて苦手だった。
でも、ある日。
誰もいないと思っていた、体を動かして鍛錬をしていた場所から離れた木陰で。
特に、そこに行こうと思ったわけではなくて気まぐれで散歩気分だった時に聞こえたのは。
押し殺した声で、漏れ出る声を必死に抑えているピュレリティその人で……暫く、その声に聞き入っていたのは動けなかったからで。その時、女性の涙を抑えるハンケチなどを持っていなかったからと言うのは言い訳で、ピュレリティの侍女らしい声が僅かに聞こえた時に初めて後悔したのだ。
ああ、ハンケチを持っていたら拭いてあげられたのにと。
それ以後、アルトレイドは訓練中であってもハンケチを忘れた事はない。
「ええ、ええ……是非お祈り申し上げて下さる?
殿下達の道行よりいらした騎士も、きっとお一人くらいはいらっしゃるわよね?」
「そうだな、彼等にどんな所なのか聞いておこう」
「もし、そこが平穏な土地であれば心穏やかでいられるのだけれど……ええ、殿下はお優しいから『来訪者の我儘』で『各地の視察』に出る事など普通はなさらないものね?」
「だとしても、王族としては問題なのだけれどね」
言葉の裏を見れば、これはとても恐ろしい会話だったのだろう。
ピュレリティは、すでに王家に報告した上で決めていたのだろう。アルトレイドが父である王に報告し、家族会議で決意表明したのと同じ内容を。
王子リーディウスを切る。
だが、ただ王子の身分で立場に押しつぶされたので逃亡しますでは格好が悪い。
なので、表向きは「異世界からの来訪者による我儘で各地に視察」に出たと言う事にする。これは、騎士団に居るリーディウスが出奔すると思われる各所のルート出身者からそれとなく「王家の言う真実」を流して貰えば良い。人の噂は千里を駈けるから、上手くすればリーディウス達が旅の終着と決めている領地に着く前後くらいに噂は届くだろう。
もし、そうなれば。
リーディウスと「来訪者」がどんな態度を取っているかは知らないが、前から押しの強い所がある「彼女」と弱い所のあるリーディウスが相手では噂はすんなりと真実として受け入れられるだろう。出来れば、その時は「女性が王子を振り回している」と言う事実があれば行幸だ。
押しが強いと言うのもそうだが、どうやら我儘なのだ。根本的に。
本人にとっては取るに足らない大した事ではないと思っている事が、他人の力で叶えられないと思うと大声で甘えて強請って来る。自分の常識がすべてで、どうして出来ないのかと、それはおかしいとこちら側を非常識だと決めつける。
いい加減にうんざりした所で、権力者であるリーディウスが願いを叶える様に命じてしまえば怒りの矛先がどこへ向くかは判るだろう。
そう言う意味からすれば、周囲の人達は良いとばっちりだ。
だけど、王家は妻はリーディウスと見捨てる事にした。家族を捨てて若い女に走ったと言えば、貴族では珍しい事ではないだろう、それでも果たすべき役割を放棄した時点で王子として王家の人間として失格の烙印を押される。
「いずれ、花が咲くでしょうね」
「そうだね……大輪の花が咲くだろう」
「どうせなら、果実もあれば良いのではないかしら?」
「……果実?」
「ええ、一つや二つではなく沢山……花は咲き誇れば良いわ。でも果実を得られればもっと素敵だと思わない?」
リーディウスが王子としての立場を捨てたと言うなら、それでも良いだろう。
ただし、そこには支払うべき対価が必要だ。
買い物などろくにした事がない王太子ですらない、苦労も知らない王子には想像もつかないだろう。
人ひとりを育て上げる為に、どれだけの労力と対価が必要とされるかなど。
そこに、どれだけの時間がかかるかを。
どれだけの人々の力が必要になったかなど、知りもしないだろう。
もしかしたら、今頃は少ない側仕えと荷物……それでも10人程度は連れて行っただろうし、「彼女」の荷物もあって馬車は三つくらい連れ立って行っただろう。中には地方の宿泊場所や見知らぬ土地ではしゃいでいるかも知れない、旅の道行だからこそ興奮状態かも知れない
ならば、それら全てをくれてやろう。
対価と引き換えに。
「お義父様からも、お父様からも楽しみだと言われましたの……」
「……そうか」
「わたくしの為に、箱庭も用意して下さるそうよ。
そう、箱庭の管理者にはテミストクレスに決めて貰おうと言う話になっているのですって。なら、いっそ本人にして貰うのはどうかしらと申し上げたら良い事だと……どうなさったの、アルトレイド?」
「ああ、ああ……そうか……楽しみだな……」
目覚めてから眠るまで、その一挙一動を監視されていたリーディウス。
彼が何を感じて、何を考えていたのか聡いピュレリティが知らない筈はない。押し付けられた言葉も通じない少女を甲斐甲斐しく面倒を見て、ようやく片言を口にする様になった「彼女」を貴婦人の様に仕立てあげ……本人のやる気の無さで台無しにされた事も一度や二度ではなかったが。それでも、「彼女」のいた世界の夢の様な生活や制度の話を聞いて顔を綻ばせた「夫」を見て、口づけあう二人を見て。
決めたのだろう、逃げ出す事をリーディウスが決めたその瞬間から。
そうして決めたのだ、アルトレイドも。
王城のある土地から遠い、辺鄙と言える土地にしか逃げられる先はないのだと暗に示して。
リーディウスは知らないだろう、自分自身で全て感じて考えて行動した結果だと思っただろう。その全てが。
妻と、弟と、愛人……「彼女」の立場を世間から見れば一般的にはそれが相応しいだろう。家族の全てに知られ、誘導され、思いこまされていた事を知らずに。
その先に、何があるかを想像もしないだろう。
「わたくしも、果実を口にする時を楽しみにしていますの」
「ああ……そうだね」
リーディウス達が逃げ込んだのは、王都から遠く離れた土地。
山に囲まれ隣国の方が近いが険しい山々に囲まれているので天然の要塞と言っても良いだろう、代わりとばかりに山に勝手に住み着いた様な人々が居るけれど気が優しく、領地の民との間もなかなかに良好「だった」そうだ。
山に住み着いた者達と言うのが、一体どこから来たのかは判らないけれど。
少なくとも、領民でない事は確かだろう。
ピュレリティが言っていた様に、戦の影響で人は流れを悪くしていた。
人が流れなければ、噂も経済も動かない。
経済が動かなければ、物も流れはしない。
自分達が作った作物が手元に残り、それ以外は手に入らない。
そこで、彼等は聞く事になるのだろう。また。
「そうだね、『異世界』からの『落し物』があるのだしね」
「ええ」
民にとって、人同士の戦いは迷惑でしかない。
動物や魔物ではなく、人同士の場合は大抵がどうでも良い詰まらない事が理由である事が多い。何より、難しい事を言われても民には判りはしない「だから何?」で終わる。
その原因の為に自分達が苦しい思いをして家族を失い働き手を失い、取り立てられる税に支払いが出来ずにひどい目に合うと言う事が判れば、それは恨みの一つも投げる対象になるかも知れないけれど。
人同士の争いの場合、大体が「異世界」が絡んでいると言う程度には……ただ、知識や情報を知らされない立場にいる民がその事実を正しく理解しているわけではないけれど。
「きっと、あの人達の旅路の果てのある方々はとてもよく理解されると思うの」
そして最も困るのは、中途半端に知識がある場合だ。
貴族の当主や家族でさえ、王子はともかく「来訪者」についてはよく知らないだろう。基本的に、扱いに困って売り飛ばされるか王都に収容されるかの二択だ。なので、稀に「来訪者」の持っていたものや服などを着て王城までわざわざ来る者も稀にあるが……その「自称来訪者」がどうなったのか、一応は公的な記録は残されていない。
そこへ、騎士達からもたらされた噂が加わればどうなるか……。
ましてや、ピュレリティは口にしなかったけれどアルトレイドや「信仰心厚い出身者」がどんな言葉を重ねるかを考えれば、その土地で「何か」は起きるだろう。山に住み着いた人達も「何か」をするかも知れない。
もしかしたら、神の怒りなのではないかと噂される様な病が流行ったり。山でがけ崩れが多発したり、盗賊なんかも現れるかも知れない。
だとすれば、人攫いも起きるかも知れない。
隣国と目と鼻の先ではあるが、険しい山脈のお蔭で騎士団が常駐する様な砦さえも築かれていない、そんな平和な土地で。
起きるとしたら「何か」が起きるだろう。
でも、何も起きないかも知れない。
ーーーーーー
「テミストクレス」
「……アルトレイド王子殿下、御機嫌よう」
ある日、テミスは王命により「与えられた」古い城で歩いていた。
城そのものは手入れをしていたし、王都のものより小ぶりではあるがちょっとした王族の避暑地としてかつては使われていた離宮だ。戦略的価値のある位置にあったわけではないし、戦争続きで行く事も出来なくなった事もあって中級貴族に管理人として与えて住まわせていたが、その貴族達が高齢により引退を表明したと言う理由で研究所としてテミスは管理者に選ばれてしまった。
テミス本人にしてみると、これはどっかの王族の横やりが入ったのではないかと言う気がしないでもないが……堅牢とまではいかないが離宮として建てられただけあってシンプルながらしっかりした作りなので気に入っていないわけではない。
ただ、元が避暑地だっただけあって招いてもいない王族や関係者が先振れも出さずに時折来たりするのは迷惑だと思っているけれど。
「いきなりどうされたのです?」
暗に「先振れも出さずに突然来るのやめてくれない? こっちにだって支度ってものがあるんですけどっ!」と言うのが一般的な意見で「この馬鹿みたいに忙しい時に来るな! 帰れ!」と言うのもある。
テミスにしては、それなりに険しい顔つきだ。
「忙しい所を済まない、産み月だと思うと不安になって……」
「それでしたら、案内させるので適当な部屋で毛布でも被って二日くらい引きこもって下さい」
ちらりとアルトレイドを見てから、常より緊張を含ませた顔つきをしてたテミスは常にない速度で歩く。
「……テミストクレス?」
とは言っても、女性であるテミスよりも武人たるアルトレイドの方が歩く速度は基本的に早い。
内心で舌打ちしながら、ちらりと視線を向けてからテミスは口を開く。
「ただいま出産中です」
「……えっ!?」
「殿方に出来る事はありません、私の研究を中断して作業に入っているのですから……殿下をそこらへんの部屋に放り込んで置いて!」
頭の中が真っ白になりながらも、かちこちんに固まったアルトレイドが正気を取り戻したのはここまでアルトレイドを案内してくれた者が近くの部屋に文字通り「放り込んだ」あげく「毛布でも被って引きこもっててください」と言って扉を閉めた直後だった。
そう、この城跡では現在進行形で出産真っただ中であった。
事の起こりは、テミスが王城でピュレリティに報告して王に報告書を提出してから帰宅し。数日も立たないうちに辞令が届いたその後になる……その間、表向きは「リーディウス王子が『来訪者』の我儘で各地に視察に出掛けられた」と言う噂が飛び交ったくらいだ。至って平和だったと言えるだろう……まだ、物理的には何も起きていなかったのだから。
だから、その直後にもたらされたピュレリティ王子妃妊娠と言う話は大した威力を持たなかった。元々、王太子妃と言うわけではないのだから当然と言えば当然だろう。それでも、妊娠が発覚する直前に夫が若い女に誑かされて旅に出た王子妃と言う事で女性からはとてつもない同情を集めた。
テミスに個人的な研究所として使って良いと言う辞令が出たのはその後で、少しばかり不便と言えば不便だが直線距離からすればそこまで王都まで遠くない所にある、かつて避暑地だった所に引越しをして。やれやれ本腰を入れて研究に打ち込めると思ったら、突然ピュレリティ王子妃が訪ねて来たのだからテミスは開いた口が塞がらない状態だった……しかも、ピュレリティの実家と王からの「くれぐれも出産までよろしくネ(意訳)」と言う手紙を携えて来た日には国外逃亡を本気で考えたくらいだ。
テミスにしてみれば、王城の方が最先端の医学や最強の警備などで安全に産めるのではないかと思ったのだが。どうやら王城は物騒らしい……一番物騒なのが「自称悪意亡き善人」だと言うのだから恐れ入る。ちなみに、誤字ではない。無いのではなく亡いのだ。死滅しているのだ。無邪気なフリしているわけではなく、本人は至って善意と言う名前の無神経なのだ。
しかも、生来のものか努力の結果かは不明だがピュレリティは王城に居ると心が休まらずに仕事漬けになってしまう……元から夫たるリーディウスは仕事から逃げる性質だった事もあったので基本やる事は変わらない筈だが、悪意なく仕事がどんどん積み重ねられて行く。話題の王子妃を見たい人が無駄に仕事を積み重ねた結果、流産しかけたと言うのだから聞いているだけでテミスは頭痛がする。
頭痛の原因は、まだある。
リーディウス王子が逃亡した……対外的には攫われた事になっている領地では神の呪いではないかと言われる病が発生したと言う。症状だけ聞けば死ぬか死なないかと言えば、体が弱っていたり老人子供なら駄目な可能性があるが普通の人ならばぎりぎり……死……な、ない? と言う程度の毒の症状だ。がけ崩れとて一度くらいならば可能性はあるが、連発して起こるのならば人為的なものを考えた方が可能性は高いだろう。盗賊がいきなり現れて住民を襲ったり、攫った人の中に王子の連れていた女性がいたとか、盗賊が現れた割に殺された人の数がほとんどいないと言うのも、余程の手練れが殺さない様に襲った可能性もある。
可能性。
テミスは確かめない、引越しが重なっていたからと言うのもある。面倒だと言う方が強い。
誰がやったか、下手をすれば王族全部が手を出していた可能性がある、だから面倒。
何より、恐らくは避暑地の離宮を与えられたのは口止めを兼ねているのだろう。ピュレリティを出産まで強制的に預かる事になったのは偶然だとしても、何しろ実家に帰ると言う手もある……それが叶わなかったのは、恐らく実家では外部からの殺人を懸念したのだろう。
ピュレリティは貴族女性ならば大体の人々から憧れの眼差しを向けられる存在だ、でもすべての女性ではないし男性からは組み敷きたいとは思っても共に政治や経済の話をしたいと思われる人物ではない。実家に権力を持たせたくないと言う考えもあるだろう……淑女の父は聖人ではない、権力者ではある。悪人かと問われれば、人によって答えが異なる程度には違うだろう。
至って普通の貴族に過ぎない、けれど敵は確実に存在する。
無料より高価なものは存在しない、とテミスは知っている。
けれど、ピュレリティに依頼された事を行っているのだから対価して貰う分には……確かに、比較すると多すぎる褒美かも知れないけれど。
だとしても、お腹がぱんぱんに膨れ上がって臨月間近の女性が押しかけて来るとか。「視察先の土地で盗賊の襲撃により命を落とした」と言う「義弟と再婚した王子妃」が押しかけて来るとか、その「夫を亡くした麗しい義姉の王子妃」と結婚した「義弟王子」が三日と開けずに押しかけて来るとか聞いた覚えはない。ないったらない。
こんなご褒美が待っていると知っていれば、頑としてこんなご褒美は受け取らなかったのに……とテミスは口にしないけれど思う。
心の中でくらい、好きに考えさせてくれれば良いと思う。
「ね、ね……え、てみ……す」
「苦しいのに無理にしゃべらない方が良いですよ」
内心で「まったく、この人は……」と苦笑しているが、そんな事はどうでも良い。
出産は、男性が考えているよりも命がけだ。
毎年、どれだけ科学が進んでも何人もの女性が子供を亡くし、中には女性が命を落とす事だってある。
だと言うのに、こんな魔法だってろくに進歩していない世界で、化学など欠片も進んでいない世界の片隅で、王子妃の一人とはいえ今にも命を落としそうな彼女を相手にどれだけの事が出来ると言うのか……。
「本当に、私は産婆ではないのですけどねえ……」
未経験の乙女に子供を取り上げろと言うのだから、権力者の考える事はよく判らないとテミスはぶつぶつと独り言ちる。
テミスの居る城にだって、出産経験も育児経験もある者はあるが、かと言って取り上げた経験があるかと問われれば口を揃えてないと言う。
当然だろう、そう言うのは産婆や医者がやる事だ。
「わ……わたくし、あな……あなた、に、しり……あえ、て!」
「あー、呼吸合わせて下さいね。音楽で言えばトントンツーって感じです」
ちなみに、これはどこかの世界ではラマーズ法と言われる出産時にやると良いとされる呼吸法であるが。そんなものが気休めでしかないのは判り切っている……他に知らないのだからどうしようもないし、呼吸を揃えるのは基本的に間違いではないので良いのだが。
「冷たく……な、いですか!」
「無理してしゃべらないでくださいねえ……はい、1、2、3。すってすって吐いてえ」
出産終わったら、少しくらい話は聞きますよとテミスが言えば。
切れ切れの声で、少しだけですのとピュレリティが応える。
どうせ、出産が終わって暫くすればテミスの事など忘れた現夫が現れるのは判り切っている……元夫の子が生まれる事を祝うために。
そう言ってやれば、恐らく微笑もうとして失敗したのだろう……ピュレリティにしては珍しく、にやりと笑ったのだから。だとしても、この部屋に居るのはある程度の出産経験がある女性達ばかりだ。しかも相手が王子妃殿下だと知っているから顔を見る様な真似はしない、それでもここ暫く一緒に過ごしてきたのを知っているのと自分達も混乱状態になっているから自分達の上司が王子妃殿下を相手に随分と気安くても気にはしないだろう。
内心、そのテミスが心の汗を流していても。
テミスには、何となく想像がついていた。
幼い頃から家の関係でピュレリティとはほとんどが手紙ではあるが、やりとりはあった。
その中で、滅多に会わない……身分的にテミスから会いに行く事は憚られたしピュレリティは実家ではなくほとんど王城に居たからと言うのもある。数少ない出会いの中で、テミスは言葉の端々に「この世界ではない知識」をちょこちょこ漏らしていたのだ。
結果、何故とかどうしてとか問われる代わりにテミスが零してきた「不思議な知識」をどんな風に使ったのかは不明だが、表向きのピュレリティはとても王城でうまく立ち回っていた。彼女自身を狙っても実家は失脚出来ないと認識した刺客が彼女を狙う事を諦める程度には、彼女は完璧に自分自身の布陣を完璧に敷いた。
いっそ見事と言いたくなる手腕に、内心でテミスは「やべえ」と思わないでも無かった。
何しろ、テミスがもたらした知識の中には「基本的な悪役令嬢」とか「娯楽的なヒロイン」と言うものがあったからだ。
異世界から現れたり、身分の下の市井で育った心優しく美しい娘が王子様に見初められる……それを虐める悪役令嬢は、大抵が婚約破棄や没落の憂き目にあう。そうでなくても、ちょっとしたスキャンダルに巻き込まれただけで社交界では生きていけない目にあう……例え、事実でないとしても噂だけで結婚前の令嬢は死んだ方がマシな目に合うのだから酷い話である。
ちなみに、結婚している女性の場合は割と寛容な目にあうのだから不思議なものだ。
幼い頃のピュレリティは、それはそれは悪役令嬢だった。
正確には、もし娯楽的悪役令嬢を実体化させたら近いだろうと思えた。別に悪い事をしたわけではない、貴族の甘やかされた令嬢ならば、その程度は許容範囲だろうと言う感じだ。少なくとも、実家に居たころのピュレリティは可愛らしいけれど傍若無人だった。何しろ、他人の家庭教師を金と権力で取り上げさせても問題であることさえ自覚が無かったのだから……年齢を考えれば無理もないが。
でも、それでは将来没落する可能性があるとそっと示唆した。ちょうど良く、ピュレリティに一時的に奪われる形になった家庭教師も「このままじゃまずい」と思う程度には子供だと認識したらしく裏でタッグを組んで洗脳に近い認識改造をしたのは良い思い出だ……テミスにしてみれば「こんなのが将来の王族なんて嫌」と言う、非常に単純な事情からだったが。
だから、テミスは証拠として残る手紙ではなく直接会った時に「ちょっとした面白い話」を用意して信憑性を持たせ、いかに情報戦に勝利する事が戦いの勝利条件を入手出来る有効な立ち位置であるかを指示した。やった事と言えば、それくらいなものだ。
でも、思ったより基本性能が良かったのだろう。ちょっとした小技ばかりではあるが、ピュレリティのやる事成す事は確実に実を結び。少なくとも年齢を問わない大抵の貴族女性からは高評価をいただいた……ピュレリティを口さがない話題の元にしたのは政治的に敵対する側のご婦人くらいなもので。その人物に娘がいる場合はピュレリティの「お友達」がいかに偉大な淑女であるかを声高々に知らせたりしてご婦人の顔色が悪くなると言う事は何度かあった……話題になったピュレリティは別の意味で顔色が悪くなったそうだが。
「テミストクレス様、お疲れ様でございました……」
「ええ……貴方達もお疲れ様、面倒をかけたわね」
疲れ切ったテミスと同じように、テミスの周囲で手伝っていた女性達も疲れ切った顔をしている。だが、どことなく満足気だ。
出産を終えた後始末をしている人達は、代わりにバタバタしている……後産が控えたピュレリティは我が子と会えた嬉しさで一時の苦しさを忘れている様なので「後はお任せ下さい」と言う人々の声に甘えて休む事にする。
「いいえ、新しい命が生まれる瞬間に立ち会えて光栄でございます」
「ましてや、我が国の王子妃殿下の出産ですもの……孫にまで誇れる偉業ですとも」
笑いあっている御婦人方を若干微笑ましい気持ちで見るが、今はそれよりベッドが恋しいのが本音だ。
かつて避暑地だったとしても、辺鄙とひとくくりに出来る土地で王族の出産に立ち会うなど、一体何の冗談かと一笑される可能性もあるが、それでも本人が満足しているのならば良いだろうとテミスは思う。
「誰か、手が空いたらアルトレイド王子殿下に御子が生まれた事を教えて差し上げてくれる?」
「かしこまりました」
「今日は新たな殿下がお生まれになったのだから、研究はお休みにしましょう……王城への知らせは……まあ、アルトレイド王子殿下が勝手に知らせてくれるかしら? 一応、お知らせした時に王城へ直ぐにお知らせするか伺って。急ぐのであれば起こしてくれても構わないし、急がないのであれば後ほどゆっくり教えてちょうだい」
「はい、お休みなさいませ」
テミスは、自室に入ると楽な服に着替えてため息をついた。
側にあるのは「どれだけ水を注いでも尽きる事のない水差し」と「半日くらい放って置いても熱が冷めない水筒」だ。
水差しから水を汲んで一気飲みをしてから、水筒のお茶を一口。水筒の中身は温くなっていたけれど、熱々だったら疲れ切った体に内側から鞭を討つ羽目になったのでちょうど良いだろうと踏んでいる。
一息つくと、ベッドサイドにある本棚から一冊の本を取り出す。
そこには「この世界には存在しない文字」で表紙が書いてあった。
ぺらりと開くと、やはり同じような文字で書いてある。
ページを目にしながら、ごろんとベッドに転がる。
程よく効いたスプリングが転がった持ち主を受け止めてくれる……本来ならば、あり得ないぽよんぽよんさ加減だ。
セレスティナ=テミストクレスは、純粋なこの世界の存在ではない。
正確には、生まれも育ちもこの世界だ。ただ、テミスの「知識」はこの世界でないあり得ないものが大半だ。それを記憶と呼ぶべきかと言うと悩む程度には知識……何しろ、世界観や国、政治に経済や土地と言ったものは判る、認識も理解も出来る。けれど、個人的な情報……どんな地位の家に生まれて育ったかと言う事は、全くもって理解出来ない。
科学、電気、パソコンと言ったものは理解出来る……だから、「円盤」も知っていた。その中身を読み出す事が出来る様にするには非常に骨が折れた……物理的に。中身を読み出す為に光から情報を読み取ると言うのも理解出来るし、その為に必要な材料を取りに行くのに時間がかかったし、その際に怪我を負った。何しろ、戦火真っ只中な戦場を突っ切った上に往復しなければならないのだ、野宿に切り傷擦り傷くらいならば覚悟していたが……止めよう、思い出すだけで涙が出そうだ。
とにかく、中身を読み取れるようになって眩暈を覚えた。
この世界にない言語だから、確かにこの肉体の持っている知識だけならば読めない文字だったが……中身の情報を全て書き出した時にこの中身が別の世界で乙女ゲームと呼ばれている物体である事を知った。しかも、この中に入っているのは前編だけ……後編が現れていないと言う事は、どうやら後編は存在しないのか別の理由でもあるのだろう。
例えば、一人または一匹の異世界からの来訪者に対して一つのキーアイテム的な。
もしくは、単純な話。前編は確かに概ね現実に則している……異世界から現れた言葉の通じない女の子に対して色々な見目麗しい男性と思いを交わし、結果として誰かと必ず一緒に城を出る。そこまでは、読み取った情報通り。
問題は「あるかも知れない続き」である「後編」で、そこに何が描かれているのかは判らない。
読み取れる内容からすると、どうやら城を出た後の「御伽話」ではないかと言うのが推論だ。しかし、後編が見つからない以上は推測の域を出ない。
いかに、「異世界」の知識があるとは言っても持っている知識は完全一致するわけではないらしく、所々意味不明な文章があったり意味として成り立たない文章があったりする。ましてや、この中にある主人公の女性は初期設定がないらしく自分で設定した名前や生まれた日などによって大幅に主人公の基本性能が変わる。基本性能が変わるとどうなるかと言えば、話の流れで会えない人がいたり行けない場所があったりと一度では話が終わらない仕様になっているのだ。
最初見た時、どれだけ不親切仕様かと思ったのは遠い昔の話ではない。
一度では全ての状況を見せる事なく、必ずしも同じ展開にさせない事で消費者の心をくすぐると言う演出は確かに小憎たらしい……一番ひっかかりを覚えたのが実はこの部分だなどと言う事は言えない。
そう言う意味からすれば、こんな時代遅れの光円盤など再生させるのは難しいわけでは無かったが、中に入っているのがゲームだとは思ってもみなかった。しかも前編。おまけに、これは他の誰にも言ってないが……どうやら、これはゲーム本編ではなくセーブディスクと言うものではないかと言う疑問がある。特定のムービーが収録されていると言うもので、これ単体でゲームは出来ないのだ。
話は、一人の少女が異世界に文字通り「落ちる」所から始まる。
場所は王家直轄の寮のある学園……この時点で設定が間違っている。
入学準備期間に落ちて来た少女は、学園の新入生と間違われる……少女が着ていた服が学園の制服とよく似ていたせいもある。そのまま、少女は学園への入学手続きをしてしまうが、当然この学園どころか世界の知識も持たない少女は不審人物として目立ちまくる事になる……。
この時点で、もはやツッコミどころ満載すぎる。
まず、学園と言うものが存在しない。仮に存在したとして、明らかに不審人物になる人物をさらりと受け入れる学園側のセキュリティに疑問符を通り越して溜息しか出ない。
だからこそ、ピュレリティとアルトレイドには色々と誤魔化しながら話をする羽目になった。と、同時に気が付きたくない事に気が付いた。
ここ数十年の戦争って……似た様な事を考えた人がいたのかなあ? 的な。
ここで、少女は何人ものイケメンと出会い思いを募らせ恋愛を楽しむ。
しかしながら、地位も名声もある未来ある若者たちを誑かす魔女として少女は婚約者やら親衛隊やらに言われて泣きながら彼等を地位や名誉で見ないでくれ一人の人間として見て欲しいと懇願する。
抱腹絶倒させて笑い転げさせたいのか、それとも通り過ぎて胃痛で入院させたいのかどちらかだろうかと考えて。
結局、テミスは溜息を。深い深いため息をつくだけに留めるより手が無かった。
戦争が続きまくり決して終わらなかった「可能性」を考えると、笑うより落ち込みたくなるのだ。
確かに、もしかしたら別の何かにより今の世の中がまかり間違ってゲーム世界に酷似した者が出て来ると仮定しよう……自国の王子兼昔なじみの夫が、いかに現実より若干歳を重ねた状態だと言うのが現実だとしても、ここまで将来性に不安の沸き起こる成長をして欲しくはない……一人の国民として。
どんな風になっているか、考えると若干の疲労感が現在の残存体力に上乗せされてがっさごっそと心身ともにゲージを下げられるから考えるのを止めるが……少なくとも、こんな王子が実在したらさくっとヤっちゃってあげた方が本人の為にも多方面の為にも親切だと断言出来る程度だ。
少なくとも、硬く信念を以て断言出来る。
しかも、ピュレリティの婚約者設定だ。これは、まあ変わっていないからともかくとして……。
国にしてみれば、婚約者を使ってダメ王子を救おうと言う無駄な努力にしか見えない、しかもダメ王子は完璧なご令嬢である婚約者を酷く嫌っていて邪見にしている。なのに、婚約者はダメ王子を諌めて立派な王族としてあって欲しいと願っている姿を見ると……泣きそうになる。
事実からしてみると、二人は結婚している。ただし、子供が出来た事を知った直後にリーディウスは逃げた。表向きはそそのかされた事になっているし、当の来訪者たる彼女が何か言ったのは変わらないだろう……そう言えば、テミスは結局その彼女本人に会っていない。必要も無かった。
オカシイのは幾つもある。
まず、学園側が非常識な主人公に対して何ら対策を取らない。
男達は基本的に婚約者や親衛隊、身内、友達と言った関係者とどんどん仲が悪くなる。どちらかと言えば主人公の非常識に対して注意をした事で男たちは不機嫌になるし、嫉妬のあまり言っているのだと判断する。
彼女達……婚約者だったり親衛隊だったり家族だったり友達だったりと言った人達。これは男女ともに存在したが、その人物達の忠告は一切聞き入れられないし、教師や親も何も言わない……言わないだけで本当に言わない。この時点で普通ならば男達を見捨てたのだろうと思うだろうが、最終的に主人公が選んだ一人に対して相手方は快く送り出すし保護者たちも出て行く分には何も言わない……卒業旅行兼婚前旅行に行くと言うので終わるのだ。
誰かと知り合って、まず顔を見るだろう。何しろ、黙っていれば相手の性格など判りはしない事もある。
相手の背景を気にするだろう、身分差と言うものがあるのだから対応を間違えれば最悪家ごと斬首と言う事も可能性としてある。
人として見ろと言うが、その人として持ち上げて育てられた土台を何一つ見る気もないと言う事は……そもそも、相手を見る気がないと言う事になるのではないだろうか?
しかも、リーディウスを選んだ時点で「政略的な婚約者を横から寝取って置いて笑顔で終わりって何?」と言うのも馬鹿らしい。
ゲームの中のピュレリティはリーディウスに心の底から恋をしていたのかも知れない。知れないが……。
ツッコミに疲れるほどにツッコミたい箇所がありすぎて事実、嫌になってノートを閉じる羽目になった。だと言うのに、よくこれだけの厚さの本にびっしりと書き連ねる事が出来たものだとテミスは溜息一つを零す。
ゲームの中の、人物達。背景。
世界観の背景が変わったからゲームの人物が変わったのか、はたして逆か。
もしくは、これは遥か未来に起きる出来事で単に今の時代が類似しているだけなのか……何しろ、明記されていた年号と今の年号も違う。国境線すら違う、他国にゲームに出て来た人物は確かに存在するが、その人たちの立ち位置も違う……同じところを探すのが難しいくらいだ。
もし、件の人物が本当にゲームの中の人物だとしたら?
もし、件の人物がここをゲームの世界だと思い込んだら?
もし、件の人物がゲームとこの世界の差異を見つけたとしたら?
「さぞかし……」
続きを、飲み込む。
これから巻き起こるだろう「嵐」を思うと、とても気分が楽になるとは思えない。
なので、眠りの世界に一時的に逃亡するくらいは許して欲しいとテミスはベッドに潜り込んだ。
補足:
王子はどう転んでも王太子になる予定は無かったので、割とあっさりと王城から逃げ出す事が出来ました。
王子妃は不憫さ具合に周囲から同情されていました。
弟王子が王子妃と再婚する事が出来たのは、兄王子がとんずらこいた時に妊娠している事が発覚していたからです。まあ、妊娠したと知ったから兄王子は逃げたわけですが。
生まれて来る子供に己の血が直接流れていない事は関係ありません、血縁上は叔父だから赤の他人ではないし王子妃の子であるだけで無問題。ある意味で心が広い。それに、どうせその後で…げふんげふん。いや、出来なくても…げほんげほん(武力介入入りました)
本文にもありましたが、前編のセーブディスクなだけでゲーム本編ではありません。なのでゲームをやらなくて済んで良かったけれど持っている知識では内容を把握するのに時間がかかりました。
ちなみに、来訪者の名前は実在するらしい珍しいお名前ランキングから拝借致しました。