前編
月が欲しいと嘆く子供に差し伸べらえるのは、一体なんだろうか?
手?
硬貨?
それとも?
嘆いていたのが子供ではなく、大人だったとしたら?
この状況になった時、流石にまずいと彼女は思った。
どう言う状況かと言えば、下手をすれば彼女自身をも巻き込んで国ごと破滅する状況である。
嘘でも冗談でもなく、これは現実だ。
「……ええと、アルトレイド王子殿下?」
まず、一人の高貴なご令嬢が居る。居るのは構わない、彼女が居るのは彼女の夫たる王子殿下の部屋なのだから妻であるご令嬢……実家は、元は移民出身の現在は侯爵家となって久しい、少し前に王家の王子妃殿下となられた御方だ。
問題は、その妃殿下が泣いていると言う事。
「何だ貴様は……」
「いかにも『空気を読め、空気を。俺の邪魔をするな』と言う空気こそ何とかしてくださいよ。
貴方達の三文芝居を見ている観客としては脚本家に『隕石落とし』かけたくなる程度にダメダメです。脚本の訂正……いえ、焼却処分の上で書き直しを要求するレベルです」
ここで挑発した言い分になったのは、少々どころではなく事情がある……つまり、彼女は待っていたのだ。先ほどから。
王子妃であり、元侯爵家のご令嬢ピュレリティ妃殿下が夫たる王子殿下との部屋で泣きじゃくっているのは、もう一度述べよう。問題ない。
問題なのは、その王子妃殿下の泣きじゃくる御姿を抱きかかえてお慰め遊ばしているのが夫たる『リーディウス』王子殿下ではなく、その『弟』である『アルトレイド』王子殿下である事が問題なのである。大問題だ。
一見すると「夫が不在の間に義理の弟と不貞行為に走る新妻」に見えてどうしたものかと思うだろうが……。
この残念な状況に、もう一つ加える要素がある。
つまり、挑発した発言をした彼女もまた「残念」要素があると言う事だ。
「いいえ……いいえ、アルトレイド。良いのです」
「ピュレリティ……だが……」
かぶりを振った、それでも麗しい深層のご令嬢である新妻の王子妃殿下は零す涙さえ美しい。
兄の嫁に対するには随分と気安いが、元来は幼馴染なのだから気安いのも当然と言う事なのだろう。その割に義弟の兄嫁を見る眼差しが「ちょっと待てぇぇぇぇぇぇ」と言いたくなる程度には不穏だが。
「わたくしが、彼女を。セレスティナを呼んだのです……貴方には、テミストクレスと言った方がご存じかしら?」
「……あの女が、テミストクレス?」
涙をハンカチで抑えたピュレリティは、鼻声ではあるが言葉そのものはしっかりとしている。
そのピュレリティの言葉に、一瞬だがアルトレイドは信じられなかったのか呆然とした顔になって思わずと言った風に三人目の女性……セレスティナであり、テミストクレスと呼ばれた人物とピュレリティを二度ほど視線を往復させる。
「あの?」
「ええと……一体全体、どんな意味でのあのかは存じませんが、恐らくはそのテミストクレスです。一般的にはテミスと呼ばれてますけど。
リーディウス王子殿下の正妻であられる王子妃ピュレリティ殿下には、ご機嫌麗しく……」
「ふふ……判っていて型通りの言葉を口にするのも、いかがなものかと思いますよ?」
「その程度で王子妃殿下の涙を止める事が叶いますのであれば、異存等ある筈もなく」
そつのない顔をするが、テミスの内心は割とひやひやものだ。
これでピュレリティが微笑みの一つでも浮かべてくれなかった日には、うっかり軍部系王子でもあるアルトレイドが腰に下げた剣を抜き取って物理的に首と胴が永遠の別れの憂き目に会っていた可能性もあるのだから気が抜けない。
「良いのよ、今は……テミス、だったかしら? 昔の様にピィと呼んでくださっても」
「まさか……王子妃殿下となられた御方を相手に、その様に気安くお声をかけさせていただくなど光栄のあまり勿体無く存じ上げます」
少しではないが道化の様な芝居が入っているのは、テミスの記憶が間違っておらずピュレリティが変わってさえいなければ三文芝居の一つでも打てば機嫌を直してくれる可能性は非常に高い。しかも……どうやら、色々な意味で間に合わなかった様だが当事者でないテミスを相手にいつまでも素の感情を自室とは言っても晒し続ける事はない筈だ。護衛や侍女まで下がらせて大騒ぎしているくらいだから、それほど時間はないだろうとは思っていたが。
「テミス……なるほど、君がか……しかし、ピュレリティはテミスを知っているのか?」
「ええ、古いお友達ですの」
「王子妃殿下の家庭教師の方が、直前まで私の家庭教師をされていたのです。本来は私の兄から私、妹と続いて教えを乞う筈でしたが、侯爵閣下にどうしてもと言われまして……その繋がりで、何度かお招きいただいたのが始まりでした」
「あの時は、その様な事情を全く知らなかったとは言えお父様の横暴には怒りを覚えたものです。わたくしが王子妃の内定を受けた事で最高の教育を……などと気を張ったりなさるから」
この世界、男性も一部を除けばともかく女性が学習を行うなどと言うのは夢物語か狂人の類と言われてもおかしくは無かった。
ただ、男性でも領地持ちの貴族や商人、地主。女性でも当主の妻となる可能性のあるものは一時的に繋ぎの主となる可能性がある事、また王族も王の妻や爵位持ちの夫人となる可能性が出て来ると特定の学習をさせられる事となる。
テミスの場合もそうだが、ピュレリティの場合も同じく家庭教師を呼んでいた関係で物事を知る機会に恵まれていた。
ただ、ピュレリティの場合は婚約者が王家に連なるだけと言う見方もあったので学習させるにはもう少し遅くても良かったくらいではある。
平民と違い、貴族である以上は学校などと言うものがなく。貴族の屋敷に招く事が出来るだけの知性と教養、礼儀をわきまえた上で必要な情報だけを女子供に教えてくれる教師はとても貴重だった。
「もっとも、そのおかげで私は自力であろうと学習意欲を失わずに研究を続けられたと思っているので王子妃殿下が気にさえる事はございません……侯爵閣下も、悪い御人ではありませんし」
「だが……まさか、噂のテミスが女生とは。しかも、ピュレリティの古い友人とは思わなかったな……」
「胡散臭さが割増されましたか? アルトレイド王子殿下?」
沈黙は雄弁に語ると言う事だろうと、テミスは苦い笑みを浮かべる。
何の事はない、単純な話だ。
幼い頃にテミスの教師を侯爵家の力で取り上げた形に結果としてはなってしまった侯爵家にしてみれば、自領ならばともかく他領の貴族を相手に権力行使と言うわけにはいかなかった。自領の、と言うより自分の配下をどう扱うかは主人たる相手の意志一つで生殺与奪さえ握られているのが事実だが、流石に他人の部下から子供の様に無理に取り上げましたなどと言うのは貴族でなくても恥ずかしい事だ。
その事もあって、侯爵家からテミスの実家にはテミスの実家のある領と領主を介さずに連絡を取り合う事や気にかけて貰えると言う利点がある。また、外見的にそうは見えないがテミスとピュレリティは年齢も近い事もあって何度か手紙だけではなくお茶会などでピュレリティの実家に招いて貰った事もある。
ついでに言えば、同じような年頃の友人関係が居なかったのでピュレリティがテミスを大変気に入ったと言うのも理由にあるのだろう。
「私はただ、知りたいと思った事を調べていただけなのですがね……」
一般的な令嬢とかけ離れている自覚があるテミスだったが、その研究熱心さから世俗とはかけ離れた研究機関から声がかかる程の能力を持っていた。否、現在進行形で持っている。
新たに発見された新種の植物や料理法、幾つもの概念、それを利用した幾つもの法則。
数え上げればきりがないとも言われている、テミスの研究。
近年、新たにテミスが発見したのは衣服や素材による簡易結界についての論文だった。理論は確かに文句のつけようも無かったが、実践の段階で手詰まりとなり自国の王家へと献上と言う形で見本を作り、売り込み、大儲けをしたと言うのがテミスが世に知られる様になったきっかけである。
「けれど、テミスのおかげで人々の怪我が減少したのは事実ですもの……王家の一員として、古き友としてテミスには感謝しているのですよ」
「もったいないお言葉、ありがたく存じ上げます」
外連味のある芝居がかった動作ではあるが、お互い様的に嫌味でも何でもない。
テミスにしてみれば、これが通常使用だった事もあるし元侯爵令嬢で現王子妃なんてどちらに転んでも上位にいるのだから逆転する可能性は生きている間はほぼないだろう。
「確かに……まあ、騎士にはあまり意味はないが……」
「それでしたら、騎士の方々の下着や肌着に意味を持たせてはいかがでしょう? 直接皮膚に触れる以上、戦場ではいちいち着替える事もならぬと伺っております。かと言って、人によっては全身で鎧を身につけるわけにもいかない方もおいでになるでしょう……小姓の方や準騎士な方なども、確かほぼ武具はつけておられないとか?」
この国は、正確にはこの世界では呆れる事さえ通り過ぎる程度の割合で戦争が起こっている。
毎日どこかで戦いが起きて、毎日どこかで人が傷ついている。
命のやり取りは、場合によっては呼吸をするのと同じ程度と言っても過言ではない。
「魔法に携わる身の上で、こうして研究に打ち込む事が出来るのは陛下の温情あっての事……その陛下を、王家を、貴族を守る為に戦う騎士や軍の皆様のお力になれるのであれば、幸いかと」
「……嘘くさいな」
「まあ、アルトレイドったら……わたくしのお友達に何て事を言うのかしら? 義姉として許しませんよ?」
「義姉上、これは申し訳ない……。
さて、テミスよ」
芝居は終わりだとでも言うかの様に、鷹揚な態度でアルトレイドがテミスを向いた。
どちらにしても、こんな茶番を続けるのは誰にも精神的に余裕がなければ出来ないので切り上げ時を見極めるのは難しい……しかし、身分的にテミスに切り上げる事は難しい。出来ないわけではないが、緊急時でもないのに王族の機嫌を損ねるのが得策なわけはない。
「はい、アルトレイド王子殿下」
「義姉上……ピュレリティ殿下のお召しにより貴殿は来たと言う事で良いか?」
「はい、間違いございません」
「それは……何用か聞いても?」
言われて、ちらりとテミスは脳内で計算する。
呼ばれたとは言え、王子妃殿下と二人っきりになるのはいかがなものだろう……性別は確かに同じだし、テミスが護衛騎士や侍女を排除したわけではないのだから手落ちではないものの。これはどう見てもアルトレイドは部屋から出たくないと言っている様なもので、先ほどまで泣いていたせいかピュレリティもどうしたものかと考え込んでいる様子だ。
つまり、決定権は三者三様で持ち合わせていると言うわけで。
「それでは、両殿下にご報告したい事がございますので宜しいでしょうか?
本来であれば父を、研究所を、魔道庁を、騎士団を介した上で陛下にご報告申し上げるべき事である事は重々承知しておりますが……」
「ああ、まあ良いだろう。それだけで数か月はかかるからな……急ぐ必要があると判断したのだな?」
「然様でございます」
こう言う時、頭が柔らかくて回転速度の速い人は助かるとテミスは安堵する。
年齢のせいだけではないが、どうにも役職持ちになると誰もかれもが手順を守らないとギリギリと口やかましくなる気がしてならない。
「両殿下は、私の現在の研究をご存じでしょうか?」
「確か……魔法はもう飽きたから別の事をしているのですよね?」
「妃殿下……それでは、私が飽きっぽい性格に思われてしまうではありませんか……」
正確には、研究対象の基本的法則を解明して論文を書き上げた時点で興味を失せるので、ある意味に置いて正しい意見である。
学習の一環で手紙のやり取りをしていた事もあるので、ピュレリティも一つや二つはテミスの研究している内容を聞いた事があると言う程度には知っている。
「冗談ですわ……ですが、簡易結界の研究はもう宜しいのでしょう?」
「それにつきましては、使用者の皆々様のご意見と言うものが今後は必要になりますので。
私自身はお洒落にも流行にも興味はございません、ならば専門家に今後を委ねるのが基礎研究としては正しいあり方になります。
とは申しましても、衣服による簡易結界につきましても本来の研究目的に至るまでの途中経過と言うものに過ぎないと言うのが事実でございます……私の研究は『異世界』そのものですが」
今現在、特にこの王子妃にとって『異世界』と言う単語は禁句に近い。
様子を見て、すでにテミスは溜息をつきたくなる程度にすでに色々な事が遅かった事を感じ取る……否、王子妃に呼ばれ現れた時点で。すでに物事は全て遅かったと見るべきなのだろう。
「そう……です、か……」
「はい、私の元には続々と異世界に関すると思われる品々と生き物が集まっております」
それでも、あえて口にしなければならない。
特に、今この瞬間にこそ耳にしなければならない言葉と言うものがある……今回は、それが「異世界」と言う単語であると言うだけだ。
状況的にピュレリティは顔を歪ませて……ここが自室で非公式の場だから許されるとしても、幼馴染と昔なじみしかいないからと言うのを差し引いても表情を抑える努力をしないと言うのは問題だと言う気はするが、それを口にするのはテミスの仕事ではない。別に、完璧に制御しろと言うわけではないが、それでも苦言を呈するほど親切ではないと言うのがあるからだ。
同情的なのだろう、アルトレイドは口を開いてテミスの言葉を遮ろうとするので「失礼」と言いながらテミスは先に手を上げてアルトレイドの言葉を封じる。
不敬だと言われるかも知れないが、言われる前に封じてしまえば良いだけの話だ。
「今は時間がありませんので、両殿下が『気分』で耳になさりたくないと言うご意見については却下させていただきます」
暗に「王族だからって機嫌の良し悪しで聞く耳捨てられたらこっちに迷惑かかるんだよ」と言うのを含ませると、それが判ったのか二人そろって複雑そうな顔になる。アルトレイドにしてみれば、傷ついた自分達に悲しむ暇すら与えないのかと言いたいのだろうが王族と言う「上に立つ」者である以上はそんなものに関わっていられないのが下にある者の立場だ。
「私は今、『異世界』の品々について研究しています……何故か、多方面から私に預かってほしい。または研究して欲しいと言う方が数多くいらっしゃるのですよ……ええ、何故か。本当に何故か。
今はこちらの世界に届いた時期と場所と分類に振り分けて情報をまとめている所でして、その中にも幾つもの種類に渡っているものがあります。もちろん、固体や液体や不定形物質等がメインです。明らかに『来訪者』だと判明する者、またはこちらの世界の者との間に生まれた者も何故か送り込まれてきます……本当に、何故でしょうね?」
ちらりと王族二人を見ると、揃って視線を泳がせている。
その事から、度々あちこちでテミスの事が上層部や社交界で噂されていると言う事が理解出来た……まあ、以前からその節があったのも確かなので今更感はあるのだが、だからと言って何でもかんでも面倒を回されても困るのだ。
テミス……テミストクレス、その名は多方面に渡って知れ渡っている。
稀代の天才、天の申し子、悪魔の愛し子、理論を知っている者や過程を見ていた者からすれば「ああ、なるほど」となる事であるが、いかんせん彼女自身が説明を求められて細かく説明「しすぎる」事が原因で長時間の拘束により聞かされた方からしてみれば「お願い、もう許して……」と耐え切れなくなる事が多いのだ。
テミストクレスの功績により一部地域と貴族の間で随分と生活が改善されたとされている……一部地域は、どちらかと言えば実験場としての役割が多いが、そこで功績を認められると貴族や商人を中心に幾つもの新しい『概念』が世界に流れて行くのだ、それは決して早いとは言えない速度に思われるが世界そのものの流れからすれば急速と言って良いだろう。
おかげで、何を勘違いしたのか揉め事対処の第一人者とよく知らない人物からしてみれば思われているのだ……実際、ある程度は対処出来てしまうのが最大の不幸だったのだろう、おかげで年頃の娘だと言うのに研究三昧で結婚どころか男女交際さえ未経験だ。例え本人はどうでも良いと思っていても、最大の研究仲間と言う身内が容認していたとしても、テミストクレスの実情を見知った人達からしてみれば自分達が元凶であるにも関わらず「余計なお世話」をしてくるので、テミスはすっかりへそを曲げてしまい表に出なくなってしまっていた。
おかげで、テミストクレスと言う存在はどんどん都市伝説であるかの様な扱いになると言うループ状態に入っているわけであり。
「それはそれとして……まだ分類が終わったわけではありませんが、大多数の分類と同じ世界から訪れたと思われる方々からの意見を参考にした場合に特定の法則を発見しました。
つまり、『来訪者』がこの世界に現れる際に『近しい世界から関係があると推定される』アイテムが前後に現れているのではないか? と言うものです。そこで、どんな事が起きているかまでは詳細を煮詰めていかなければ報告出来る程ではありませんが、まるで御伽話の様な展開を画策されたのではないかと思える程度の笑いを浮かべたくなる様なものが多かったですよ」
「……どう言う事だ?」
「例えば……そうですね、例えば今回のケースで言うならば『魔法のない世界から訪れた少女が、見知らぬ世界で苦難の末に王子様と結ばれる』と言うのは物語として一般的な世界にあるそうですよ?」
「身分制度があるだろう? 貴族が領地の女子供を攫って囲い込む程度の事ならば……」
「口が過ぎますよ、アルトレイド王子殿下。義姉君の前です」
「あ、ああ……」
とは言っても、ピュレリティがその様な事が普通に地方領地で行われている事を知っているか知らないかはどうでも良い事ではある。
単に、話がずれそうになるのを抑え込みたかっただけだったりするのは聞かれないので言わない。
地方領主の趣味を疑う「遊戯」など、この場で話題にする必要はないのだ。
「何人かの……とは言っても、そこまで多くはありませんが異世界に関わりのある人達にしてみると。どうやら所属する国や部族はあっても身分制度は然程多くはない様ですよ。
例えば、王を一人おけば役職以外は全て同等であるとか。または身分制度の全くない世界もある様です……いずれ、余裕が出来たらその世界の法則なども伺いたい所ではありますが、今は時間がないので端折ります。
そこで、こんなものが異世界人……なんて言いましたっけ? 彼女の現れた直後に発見されたとかで私の所に持ち込まれました」
テミスががさごそと持ち込んだカバンから取り出したのは、薄くて丸くて真ん中に穴の空いた物体だった。
端っこと穴の部分を持っていると言う事は、どうやら平べったい部分には触れてはいけないと言う事なのだろう。
「これは……なんですの?」
「同じ世界の方はいなかったので推定ですが、これは情報媒体だそうです」
「情報……ばいたい? 紙、みたいなものかな?」
「この中に紙にすると何百枚もの記録があるそうで……私が話を聞いた人のいた世界では、懐古趣味で博物館にでも行かなければ見られない物質だそうです。この中に光を当てる事で、中に集積されている情報を読み出したり場合によっては書き換えたりする事が出来るそうです」
「こんなものが……どうしたら出来るのだ?」
つい今しがたまで泣いていたり慰めていたりと忙しかった筈の王族二人だが、テミスにとっては都合が良いので否を唱えるつもりはない。
とは言っても、実を言えばテミスにしてみれば少しばかりの嘘が交じっているのだが……まあ良いだろう。
「信じがたいとは思われます……専用の機材が必要だと言う事でしたので、私なりの解釈で作成してみました」
簡単に口にしている様に見えるが、そんな事が通常ならば出来るわけもない。
人は見た事も聞いた事もない「概念」に対して、まず理解する所から始めなければ対応など出来るわけもないのだ。
元は上級貴族令嬢だったりする王子妃や、生粋の王子だったりすると想像もつかないだろうが、今の時点で大事なのは訝しんで貰う事ではない。単に見聞きしたものに対してどうするか決断してもらう事が大事なのだ。
そうでなければ、他の研究を全て後回しにして頑張って行った作業の全てが無駄になってしまう。
「……これは?」
「これは、丸い物体……仮に『円盤』と名付けますが、これは本来は入れ物に入っていました。
入れ物には絵が入っており、この絵と同じものが中に情報として入っています」
テミスがカバンからもう一枚、今度は四角い透明な入れ物を出すと。確かに、片面には小さな絵が幾つかと読めない文字。
裏面……どちらかと言えば、こちらが表面なのだろう。そこには読めない文字の様なものが大きく書いており、そこにはどこかで見た事がある様な人の絵が書いてある。
どちらかと言えば、貴族の肖像画を見慣れている美的センスからすると稚拙にも見えるが描かれている色彩については素晴らしいと賞賛しても良いだろう……。
じっと見ていると、どうやらピュレリティは気が付いたのだろう「あ……」と小さく声を上げる。
「どうした、ピュレリティ?」
「これ……似てますわ、『彼女』に」
「え……?」
「そうですね、他には数人がそれらしい感じの人が描かれています。でも、同じではない様です。
この中に書いてあると思われる文字……これが解読出来ていないので不明ですが、この中に出て来る幾つかの品物が以前。城や王子妃様からお預かりした『来訪者』の持ち物に似通っていると思われます」
顔などはそうでもないし、色彩もだが画像として荒いが……どうやって入っていたのか判らないが、テミスの持って来たカバンの中から出した機材は長方形の大きさで重量もあり……これは男手だと言う事で王子が机の上にあげたのだが、それはぱかっと開ける仕様になって円盤を入れて蓋を閉めると、音と共に映像が流れて来たので王族二人はとても驚いていた。
中の絵は人が入っているかの様にこちらを見て、時折瞬きをしているが手足は動かない。なのに、風が吹いているのか髪の毛や飾りのリボン、見た事もない服の裾などが揺れていると言うものが少し経つと違う人物で入れ替わりながら続くのだ。
確かに、その中の一人は見た事がある。数少ない女性の絵は、あの「来訪者」に似ている。同じではないけれど。
「愛海、とかいいましたっけ?」
次々と映し出される絵に心を奪われている王族二人は、音楽か絵が動いている事か、知っている人に似ている事か、再現率の高いテミスの仕事になのか、どこに驚けば良いのか判らないと言う感じだ。
「え、ええ……」
「ほら、こちらをご覧ください。
この絵と、この絵。こちらに出ているものも、当時彼女が持っていたものによく似ています」
テミスが出したのは、かつてピュレリティが危険かも知れないと思いテミスに解析依頼を出した品物だ。
服、バッチ、ペンダント、腕時計、靴、ピアス……ハンカチ、バッグ、水筒、手帳、ペン、化粧道具。
王子により発見され、半泣きになりながら保護された女の子の下着を含めた、文字通り身ぐるみはいだので罪悪感がないと言えばウソになるが、王城に許可なく訪れた場合は牢に放り込まれないだけで甘いと詰られても文句は言えないのだ。
女性に限らず、服に仕込もうと思えば武器は幾らでも隠せる。毒だって忍ばせる事は出来る。
戦争が続き、やっと短い平和が訪れた王城で、王子が拾った災厄の種としか言いようがない存在を放置して置くほど緩いわけにはいかない。
取り上げられた当初、確かに彼女は己の荷物の行方を気にしていたが。あっさりと新しいドレス……これは王城に滞在する子供のお客様向けのものだったり、ピュレリティの子供の頃のドレスだったりだが、まだ復興には時間がかかる以上はオーダーメイドするには時間が無かったと言うのもある。ピュレリティにしてみえば普段使いにするにも地味な程度の宝飾品を譲ってあげた程度で、手を叩いて喜んでいたのですっかり忘れていたのだが。
「この情報の中では、どうやら女性になって動かす事が出来る様なのです」
テミスの言葉に、二人はぎょっとこちらを見て来た。
「そうですね……とても高度な、演劇を自分自身が演じている様な感じ。とでも言えば想像がつくでしょうか?」
一人ごっこ遊びの様なものだと言えば、何とか「そう言うもの」として認識しようと努力しているのだろう。
高度だと言われた時点で、何となく理解を放り出した様な気がしないでもないが。
「私には解読出来ないのですが、どうやら中の女性を動かした際に選択肢を選ぶと中身が変わって行くみたいです。
その際に、展開によっては色々な相手と話が生まれる。恋物語を何冊も同じ人物で読むと言う感じですかね?」
「それで……これが、一体……何だと、言うのだ?」
「判りませんか?
お判りにならないと言うのでしたら、一応は説明してもよろしいのですが……」
「いいえ、その必要はありません」
アルトレイドは、想像はついたのだろう。
ただ、それを自分自身の中で留めておきたくないのか。それとも、想像が現実となる事を耐えたくないのかの二択で。
ピュレリティは……決めたのだろう、決意を固める為にテミスを呼んだのだから。
「教えていただけますか、テミス?」
「何をでしょう?」
顔は、泣いていた割に化粧が崩れていない……あくまでも泣いていた割にと言うだけであって、耐水性化粧品があるわけでもない美容文化で涙を流していた淑女の化粧崩れがこれだけで済んでいるのだから、そう言う意味では賞賛に値すると言っても良いだろう。
「この中にあるのは恋物語で、彼女はこの中に出て来る女性と似ていると。わたくし達の知り合いによく似ている人物が描かれていると言う事で、よろしいかしら?」
「はい、その通りでございます」
「では……恋物語だと言うのであれば、彼女は殿下と結ばれた後でどうなるのでしょう?」
文字を解読していないテミスに聞くのはどうかと思われるセリフではあるが、まるで待ち構えていたかの様なテミスは内心でほくそ微笑む。
まるで「よく聞いてくれました」と言わんばかりで、けれど表情には欠片も現れていないのだから上手いものだと普段のアルトレイドならば気づいたかも知れないが、動揺している今の状態では気づく事もないだろう。
こう言う時、現実に帰るのは女性の方が早いものだとしみじみとテミスは思う。
自分が同じ女である事は、さて置き。
「これを結ばれたと言うのであれば……『そして二人は末永く幸せに暮らしました』のめでたしで終わるのでしょうね、最後の絵は女性が笑っていると思われる絵で終わっていましたが……果たして、事実そうなのか……」
「どう言う事だ?」
「男性側の絵が無かったのですよ、すべてを見たわけでもなく文字も読めないので判りませんか、恋物語であるならば普通は二人揃って幸せな絵で終わるのではないでしょうか?」
テミスは「まあ、私は恋物語を愛用していないので判りませんが」とは言うが、似ている気がする女性の絵がバストショットで終わっていると言って最後の絵を見せてくれる。
先ほどから「似ている」と言うのは理由があって、女性の絵は何故か鼻から下までの部分か後頭部の部分しか描変えていないのだ。男性達の絵は、立体と平面の差を除けばよく似ていると言えるが女性のが描き方が中途半端である以上は最初にピュレリティが気づいたように似ていると言っても「そんな気がする」程度の誤差に過ぎない。
「服装や持ち物は似ていますが、かと言ってまったく同じと言うわけではありません。
彼女がこの情報と同じ人物であるとも言い切れませんし、そもそもこの情報と同じ世界の住人かどうか。この情報の中に描かれている世界観がこの世界とも言い切れません。
ですが……判っているのは、この情報の中にある絵の中でも穏やかではない絵が描かれていると言う事は事実です」
くるくるとテミスが操作すると、幸せそうな絵もあれば剣を抜いて戦っているのかと思わせる絵もある。小さな、お人形の様な絵がぴこぴこと首を動かしている絵もあれば夜会なのかドレス姿の女性と踊ろうとしていると思わせる絵もある。
大きな絵は止まっているものがほとんどだったが、小さな団子状態の様な絵は少し動きがある。
見ていて飽きない程度に目まぐるしく変わる不思議なものではあるが、幾つかの絵の中にはこの場に居ない王子の様な絵が何枚もあった。
中には、薄暗い外の様な場所で男性に抱きしめられている絵を見た時のピュレリティの顔は能面の様な真っ白で表情を無くしているものになっていた事を本人は気づいているのだろうか?
「そう……ですか……」
「解読を急がせてはおりますが、お話一本分と思われるものでしたら概ね出来たものがありますので献上致します……。
これから、研究成果を提出しなければなりませんので御前を失礼いたしたく存じます」
「ええ……ええ、判りました。
例を言います」
「いえ、王子妃殿下が心安らかにお過ごしになられるよう祈り申し上げます」
それは無理だろう、とアルトレイドは反射的に思う。
義姉にして王子妃……ピュレリティの夫にして実の兄は、つい先日新妻となった女性を。王子としての立場を捨てて勝手に異世界からの「来訪者」を連れ出してしまった。
置いて行かれた手紙には、自分がいかにこれまで苦しかったのか。それを慰めてくれたのが妻ではなく「来訪者」であった事、誰一人として身分としてしか己を見ていなかったけれどこの世界の存在ではない彼女だけが自分自身を見てくれたことで、どれだけ心が軽くなったのかを切々と書き綴られていた……正直、乙女かと言いたくなるほどのポエムっぷりに砂が口から出る気分だった。
兄と言う人物は、特出した人物では無かった。けれど、かと言って無能と言うわけではない、単にある程度の事は努力しなくても出来るだけに努力して自分を上回る能力を持っている相手に努力して負ける事が許せないだけの子供なだけだとアルトレイドは思う。
逆に、アルトレイドはなまじ多少の計算高さがあったので宰相か将軍の二択を迫られてしまったので、体を動かす方が良いだろうと思ったから軍籍に身を置いているが、その計算高さが仇になって上に立つ位置より斜めにずれている方が好みだったこともあって将軍にはなれるかも知れないが、若い身空で軍師などしているのは本人的に計算違いだったのは余談である。
「ねえ、アルトレイド……」
「なんでしょう、ピュレリティ義姉上」
でも、兄は知らないのだろう。
理想的な王子妃、未来の王妃として相応しい逸材、貴族令嬢の鏡とされているピュレリティの事を、かつてアルトレイドは苦手だった。
正論をもって自らの高い理想を、更に高めるのもそうだが。それが間違っている相手が折れそうな時に自ら悪役を買って出ては助けようとするのだから、当事者がその瞬間にはほぼ気が付く事はない……遠回りな激励と言えばそうだが、本人に言えば「わたくしは、己のやりたいようにしているだけで相手がどう解釈されるかは本人の認識にお任せ致しますわ」とにべもない。
だとしても、それを口にする彼女自身が傷つかぬわけではないのだ。何故なら、逆恨みをしない存在がいないとは限らないのだから
「リーディウスが、『彼女』をどこへ連れ出したのかしら?」
ぽつりと呟かれた言葉に、アルトレイドは片眉を上げる。
すでに国王陛下には報告がなされ、捜索隊は行動を開始しているだろう……恐らく、潜伏されると思われる幾つかの貴族及び領主には表立って言う事が憚られる為に「もしかしたらうちの王子が突然現れるかも知れないよ」程度の事は噂している可能性はある。
だが、情勢から考えれば一国の王子の取る態度としてはおかしい。おかしいにも程がありすぎて、うっかり何かの罠ではないかと聞かされた貴族たちは可哀想な事に戦々恐々状態になっていると言う。
それはそうだろう、何しろ一つの戦争は終わった。冷結したと言われてるが、その冷たく凍った戦いは火種を内包しているのだ、いつまた覆われた氷を溶かして再び戦乱の世になるかなど考えただけで疲労困憊だ。
ただし、その主だった原因と言うのは少し問題なのだが。
「それは……」
君も大体知っているだろう、そう口にしようとしてアルトレイドははっとした。
別の世界の別の時代ならば法律に触れるのではないかと言いたくなる程度に、王族は全て見張られている……他国の、自国の間者。表立ってではなく、人の目の届かない所から侵入し、情報を得て、それを武器として生業とする者達。
どこの国でも、余程生まれたての10人にも満たない様な小さな集落とかならばまだしも、歴史ある一国の王族ならば一人や二人は必ず見張られていると言っても過言ではない。場合によっては、情報戦であり情報を持つものを握っている時点で闘わずして勝利を収める戦争も一度や二度ではない。
その中でも、夫婦である事を含めてピュレリティはリーディウスを片時も目を離させるような事はしていなかっただろう。
なのに、リーディウスが名も呼ばれなくなった「来訪者」たる「彼女」を連れて出ていく時に止めようとはしなかった。
不幸なのは誰なのだろう?
幸福なのは誰なのだろう?
逃げられたのは誰なのだろう?
逃げられなかったのは誰なのだろう?
本当に勝てるのは、誰?