向日葵とトランシーバー
夏休み。
小学1年生の僕は、お母さんに連れられて、おばあちゃんの家に行きました。
おばあちゃんの家は、電車で行ったところにあります。
都会からは遠くはありませんが、少し静かなところです。おばあちゃんがお出迎えをしてくれました。
僕は、リュックで背中がびっしょりのまま、おじぎをしました。
お母さんもおばあちゃんも、ご挨拶をそこそこにして、一緒に家へ上がりました。
1階の奥の部屋へ通されました。部屋は、古くて黄色くなった畳に、西と北に面した窓。
窓には「すだれ」がかかっています。
青い羽の扇風機のそばには、折り畳みのおぜんと、そして、お布団が敷いてあります。
荷物を置くと、すぐに汗でぬれた服から、乾いた服へと着替えて、お布団に横になりました。
お腹には、タオルケットを乗せて。
お母さんとおばあちゃんは、隣の部屋へ行ってしまいました。
ときどき、タンスと壁の向こうから、笑い声が聞こえてきます。
タンスは、いたずらでシールが貼られています。畳は、近くで見ると毛羽立っています。
電気のひもは、僕が立っても届かなそうです。
窓の外は、何が見えるのでしょう。
体をゆっくり起こして、両手で「すだれ」をどかしながら、窓の枠に身をもたれました。
小さな畑があって、夏の鮮やかな色の野菜がところどころ実っていました。
そして、畑の先には、一輪の向日葵が立っていました。
向日葵は、一輪というよりは一本というほどに、大きく生長していました。
つぼみも開く手前のようです。
畑の向こうのアスファルトの道から、女の子がひょこっと現れました。
向日葵の前に行くと、つむじをこちらに向けながら、見入っています。
女の子は、何かに気がついたように、近くの水道にかけて行きました。
やがて、大人用の「じょうろ」に水を満たすと、少しおぼつかない足で、先ほどのところへ向かいました。
午後になって、さらに強くなった日差しが「じょうろ」の水面をきらきら輝かせます。
女の子は、少しよろよろしながらも、水を撒き終えると、ようやく僕に気がつきました。
女の子がこちらに歩いてくる間、恥ずかしくて窓の枠を見つめていました。
「こんにちは。シイちゃん。」
スミちゃんは、いとこのお姉ちゃんですが、久しぶりに会うのと、内気な性格で、うまく話すことができませんでした。
「…こ、こんにちは…。」
「お父さんから聞いたんだけど、シイちゃん夏休みは、うちにいるんだって?」
首をうなずきながら「…うん、少し病気になっちゃって、それで、こっちにいるんだ…。」
「ふーん…お父さんも『シイちゃん来るから、あんまりうるさくしないでね』って言ってたー。」
「…でも、そんなには大丈夫だよ…。」
「あっ、ちょっと待っててね。」
女の子は「じょうろ」を元のところへ戻すと、どこかへ消えてしまいました。
さっきまで一人でいたときよりも、今のほうが一人を感じていました。
向日葵を眺めながら待っていると、部屋の入口から女の子がやってきました。
両手には、何か黒いものを一つずつ持っています。女の子は、右手のものを渡しました。
おもちゃのトランシーバーです。僕は思わず声が出てしまいました。それは憧れのものでした。
部屋の中や、押し入れの中、家の外にいても、秘密のお話しができる夢のような機械。
子供の僕にとっては、家の電話よりもとても魅かれていました。
「シイちゃんは、あまり外には出られないから、これでお話ししよ。」
-
窓の「すだれ」が、西からの日差しをやさしく和らげていました。
ここに持ってきた荷物は、着替えのほかに、宿題もありました。
病気の体を休ませるために、おばあちゃんの家へ来たので、宿題しかできることはありませんでした。
たまに飛行機が来ては、録音された女の人の声で、デパートの宣伝が聞こえてきます。
「すだれ」の向こうでは、向日葵のつぼみが開き始めています。
テレビは、特撮ヒーロー番組の再放送が大好きで、5分前にはチャンネルを合わせていました。
チャンネルを合わせるガチャガチャは、簡単にテレビから外れてしまいます。
トランシーバーから声が聞こえてきました。
「シイちゃーん、シイちゃーん、おーい、聞こえますかー。」
「スミちゃん、どこにいるのー?」
「向日葵、向日葵ー。」
窓に身を出すと、女の子が左手を振ってました。
「向日葵、また大きくなったー。お化け向日葵ー。」
女の子が背伸びして、左手をまっすぐに上げても、つぼみには届きません。
「ほんとだ。お化け向日葵だね。」
離れたところにいる女の子の声が近くで聞こえるのは、本当に不思議な感覚です。
ある日は、いつものトランシーバーから、いつもの声が来ないときがありました。
お母さんに聞くと、女の子が寝冷えをしてしまったそうです。
「僕からお話ししようか、どうしよう…。」
悩んでいると、外のトタン屋根に、何かが当たる音がしました。
その音は、またたく間に、激しく打ち付けるほどの轟音に変わりました。
「えっ、夕立…?…ということは、あれもあるの…?」
思った矢先に、遠くからゴロゴロと鳴りながら、近づいてきました。
思わず機械に手が伸びて、気がついたら、泣きそうな声を上げていました。
女の子は、笑いながらしきりに「大丈夫だよー」と言ってくれました。
夏休みももう終わりに近づきました。
二学期を迎える準備もあるので、8月31日の前日までに、家に帰らなくてはなりません。
病気は、だいぶ良くなりました。
もともと重い病気ではないので、来年の夏休みは、僕の地元で過ごすことになると思います。
お母さんと、荷物をまとめる傍ら(かたわら)、窓に目を向けました。向日葵は、大きく笑っていました。
女の子は、そばにはいませんでした。
荷物を持って部屋を出る前に、もう一度見ましたが、変わりませんでした。
玄関で、お母さんがおばあちゃんにご挨拶をしました。僕もご挨拶をしました。
女の子は、ここにもいませんでした。今持ってるこれは、返しそびれてしまいました。
「ねえ、お母さん、向日葵のところに行ってもいい?」
帰る前に、女の子の育てた花を近くで見ておきたかったのです。
向日葵の前に立つと、夏休みの長い間、いつも見ていたものが、実はこんなにも大きいものかと驚いてしまいます。スミちゃんに会うことができたような気がしました。
電車の時間もあるので、駅に向かいました。
と、僕のポケットから、聞き覚えのある声が聞こえてきます。
「シイちゃーん、シイちゃーん、おーい、聞こえますかー。」
あわててポケットから出すと、返事をしました。
「…スミちゃん?スミちゃん、どこにいるのー?」
「押し入れー。隠れてたのー。」
「スミちゃんいないから、これ返せなかったよ…。」
「だから隠れてたんだよー。」
「…だから隠れて…?」
「シイちゃん、向日葵の種が取れたら、シイちゃんの家に送るよー。」
「あ…りがとう…待ってる…。ス、スミちゃん、あのね…なんで…」
「…」
「スミちゃん…?」
「……」
気がつけば、女の子の声を聞くこともできないほどに離れていました。
右手には、トランシーバーの片割れだけが残りました。空には飛行船が旋回しています。