夫婦のとき
「落ち着いたら食べって、母さんが」
小一時間ほどして真司が、お盆を持って戻り、リビングのテーブルの上に置く。
ソファーに座ったままの彩は、目の前に並んだお盆の上の、ご飯とおかずを見ると、涙が一気に溢れてきた。あとからあとから、止めどうもなく溢れる。
「な、何? どうしたの?」
驚く真司に、泣きながら嗚咽の混じるか細い声で、「赤ちゃんが、赤ちゃんが……」そのあとに続く言葉が出てこない。
「何、赤ちゃんが、どうしたの?」
彩も伝えようと、「赤ちゃんが」と、言うのだが、そのあとの言葉の代わりに、「ぐわー」という声だけが漏れる。
「何、何なの、言ってくれなきゃ、分かんないよ」
泣くばかりの彩に、真司は苛立ち始めていた。
漸く、嗚咽交じりに鞄に入れたままの説明書類を出し、言われた経緯を話した。泣きながら話す間、真司は独り言のように、ぼそぼそと呟きながら聞く。
「ダウン症? 障害って……、中絶かあ……、育てる覚悟って、言われても……、普通の子供も、よく知らないのに……、中絶しなくっちゃダメなのか?」
病院からの説明書類、そのうちの妊娠中期、中絶申請用紙を見ながら真司は呟く。
「今回は、諦めろって、事か……」
真司に伝えると、少しだけ気が軽くなった。けれど……
お腹の中には小さな命がある。今日だって、超音波で頭、胴体、それに小さな手足を確認してきた。その小さな命は今、生きている。それなのに、中絶するって……
――殺すって、事?
確かに今日の朝までとは違う、何か他のモノに変わったようには感じた。けれどそれでもやはり、お腹の中には赤ちゃんがいる。それなのに殺す?
彩は慌てて、尖った声で言った。
「生きているのよ。今も、ここに。ほら、動いている。先生だって、中絶するだけが賢い選択じゃないって言ったわ。産むことだって」
自分のお腹をなでながら言う彩の言葉に、真司も戸惑っている。
「そうだよな……、でも産むには覚悟がいるって……」
「覚悟って、何? 検査なんかしなけりゃ良かった。生まれちゃったら、覚悟も何もあったもんじゃなかったのに」
「そりゃあそうだけど、もう、俺たちの赤ちゃん、はダウン症っていう障害を持っているって、分かってしまったしなあ……」
「だから、諦める? それは結局、殺すってことよね」
「殺すって……」
重過ぎる課題に、長い沈黙のときが流れた。
「お腹の赤ちゃん、怒ってるだろうな……、殺すなんて、嫌だ……、でも……、分からない……」
独り言のように彩が涙声で言った。
決められない。互いに同じ思いが行ったり来たりしていた。彩は言葉にならない思いが浮かぶ。
――どうなるんだろう、私の赤ちゃん……。
自分で決断できない。
初めての妊娠で、「障害児です」と言われ、育てる覚悟だの何だのと言われ、覚悟を決める人は、いったい何組くらいいるのだろう。今回は諦めて、次の機会を待つだなんて、そんな簡単にはいかない。
自分も、真司も、両方の親たちも、この妊娠をどれほど喜んだことか――。
それなのに「諦めろ」だなんて、あまりにも酷い。考えると、また涙が溢れた。
「親父と母さんに、言わなくっちゃなんないのか……」
「えっ? 言わないといけないの?」
「そりゃあ、まあ、黙ってる訳には、いかないだろうなあ」
「でも、、まだ……」
まだ、どうするか、決まっていないと、言おうとした。だが止まらない涙と鼻をティシューで拭う間に、真司が言う。
「どうするか、決めても、言わないといけないのは、同じだしなあ」
確かにそうなのだろう。けれど、彩は何か腑に落ちないものを感じる。上手くはいえないのだが。
そもそも階下にいる義父母が苦手なのだ。いつも何かに苛立っているようで、楽しそうに話すところを見たことがない。それなのに、ここでまたショックを与えるような話をすれば、どうなるのか。そう思う反面、誰かにすがりたい気持ちもわいてくる。ふたりで決められないなら、下の義父母に頼るのも、仕方のないことなのか……。
おそらく真司も同じような気持ちなのだろう。そう思うことで納得した。