表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/9

苦悩のとき

――どこをどうして、帰り着いたのだろう?

 習慣だけを頼りに戻って来たらしい。家の鍵を開け、無言のまま二階に上がる。物音に気付いた義母が、何かを言ったようだが、彩は応えない。

 彩夫婦は、真司の両親との同居である。家は玄関が一つだから、二世帯住宅とまでは言い切れない。トイレは各階に備わっているものの、バスルームはひとつ、広いリビングキッチンも共有。その一階の和室、二部屋を義父母が使い、二階部分にある三部屋すべてを、彩たち若夫婦がを使っている。

 三部屋のうち二部屋は続き部屋で、大きな三枚の引き戸となっている。そこがふたりのリビングと寝室。その寝室には二畳ほどの、ウォーキングクローゼットが付いている。廊下をはさんだもうひとつの部屋は、子供ができたときに使う予定で、今はほとんど空き部屋だ。


 彩は階段を上がりきり、左側にあるふたりだけのリビングに入る。

 自分たちの部屋に帰った安堵感から、堪えていた涙が一気に溢れた。

 目の前に見える長ソファーに向かって歩き、持っていたバッグを手放し、ソファーに身を預ける。シートにあった小ぶりのクッションを抱き寄せ、腰を回転させ、肘掛に頭を乗せた。

 なぜ、なぜ、どうして私だけがこんな目に遭うのか……。そう思うと涙はあとから、あとからこぼれる。

 涙でかすむ天井を眺めると、「障害児」という言葉が、繰り返し繰り返し、聞こえてくる。テーブルの下へと手を伸ばし、そこに置いてあるティシューの箱をつかんで、胸の上に置く。連続二回ティシューを抜き取り、涙と鼻を拭き、独り言をつぶやく。

「何で、何でよ」

 お腹に手を当てて、問いかける。「何事?」と、言うかのようにお腹の中で赤ちゃんが動いた。

 動いた赤ちゃんが、今は違うものに変わったような気がした。検診時のエコー画像は紛れもなく、小さなあかちゃんだったにもかかわらず……。

 階下から義母の呼ぶ声が聞こえる。けれど返事をする気力はない。クッションを抱きしめたまま、「何で、何でよ」と繰り返した。

 そうするうち、小さな子供のように泣き疲れて、彩はまどろんだ。


 ***


 不意に真司の声が聞こえて、はっとする。彩は自分が眠っていたことに気付いた。ぼんやりする意識の中には暗闇が見えた。

――うん? もう夜なのか、寝てたんだ、私。

 彩が身体を起こすのと同時に、真司の怪訝そうな声。

「こんな暗がりで何してんの? 寝てたの? 彩、電気、点けて」

 言われて、彩はテーブルの上にある白いリモコンを取り、リビングの電気を点けた。急に明るくなったリビングは、異常なほどに明るく眩しい。

「おかえり、うん、そう、寝てたみたい」

 ホンの数秒間、平穏なときが流れた。そう、真司が喋りだすまでは――。


「ただいま。今日、病院に行ったんだろ? 帰って来てから、何も言わずに、部屋にこもってる、って言って、母さんが心配してた」

 一気に悲しみの渦の中に落ちてゆく。涙が溢れそうになるのを懸命に堪える。

 耐えるのに全神経を使うから、億劫で立ち上がれない。真司がスーツを脱ぐのを呆然と見つめる。妊娠が分かってからは自分で、スーツをクローゼットに仕舞うようになっていた。今も歩きながら、片付けながら訊く。

「しんどいの?」

「うん、ちょっと……」

 真司はウォーキングクローゼットから戻り、ワイシャツの前ボタンを外しながら、向き直る。

「母さんが、ご飯、できてる、って言ってた」

 今はまだ義父母の顔を見たくない――。

「食欲がない、今は食べたくないの……、ひとりで食べてきて……」

「そう、でも、ご飯、食べないと、また母さん、心配するよなあ――」


 つわりの症状が出てから、何度か、そんな事がある。真司は無理強いはしないが、母親への説明だけは煩わしいと、何度となく言った。今回もそんな思いをにじませている。それが分かる彩も立ち上がろうとしたが、義父母の顔が浮かんで、重い気分になり身体が動かない。

「やっぱ、だめ、ひとりで食べてきて」

「しんどい?」

「うん、まあ、でも、こうしていれば、大丈夫だから」

 ジャージの上下に着替えた真司は、渋々ながら納得して、階下へと降りて行った。

 ひとりになると、力が抜ける。四方からくるら重い空気の圧力を感じる。時の圧力も重なる。食事を済ませて、戻ってきたら、話さなければならない。言えば真司もショックを受けるだろう……。

 また涙が溢れた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ