苦悩のとき
――どこをどうして、帰り着いたのだろう?
習慣だけを頼りに戻って来たらしい。家の鍵を開け、無言のまま二階に上がる。物音に気付いた義母が、何かを言ったようだが、彩は応えない。
彩夫婦は、真司の両親との同居である。家は玄関が一つだから、二世帯住宅とまでは言い切れない。トイレは各階に備わっているものの、バスルームはひとつ、広いリビングキッチンも共有。その一階の和室、二部屋を義父母が使い、二階部分にある三部屋すべてを、彩たち若夫婦がを使っている。
三部屋のうち二部屋は続き部屋で、大きな三枚の引き戸となっている。そこがふたりのリビングと寝室。その寝室には二畳ほどの、ウォーキングクローゼットが付いている。廊下をはさんだもうひとつの部屋は、子供ができたときに使う予定で、今はほとんど空き部屋だ。
彩は階段を上がりきり、左側にあるふたりだけのリビングに入る。
自分たちの部屋に帰った安堵感から、堪えていた涙が一気に溢れた。
目の前に見える長ソファーに向かって歩き、持っていたバッグを手放し、ソファーに身を預ける。シートにあった小ぶりのクッションを抱き寄せ、腰を回転させ、肘掛に頭を乗せた。
なぜ、なぜ、どうして私だけがこんな目に遭うのか……。そう思うと涙はあとから、あとからこぼれる。
涙でかすむ天井を眺めると、「障害児」という言葉が、繰り返し繰り返し、聞こえてくる。テーブルの下へと手を伸ばし、そこに置いてあるティシューの箱をつかんで、胸の上に置く。連続二回ティシューを抜き取り、涙と鼻を拭き、独り言をつぶやく。
「何で、何でよ」
お腹に手を当てて、問いかける。「何事?」と、言うかのようにお腹の中で赤ちゃんが動いた。
動いた赤ちゃんが、今は違うものに変わったような気がした。検診時のエコー画像は紛れもなく、小さなあかちゃんだったにもかかわらず……。
階下から義母の呼ぶ声が聞こえる。けれど返事をする気力はない。クッションを抱きしめたまま、「何で、何でよ」と繰り返した。
そうするうち、小さな子供のように泣き疲れて、彩はまどろんだ。
***
不意に真司の声が聞こえて、はっとする。彩は自分が眠っていたことに気付いた。ぼんやりする意識の中には暗闇が見えた。
――うん? もう夜なのか、寝てたんだ、私。
彩が身体を起こすのと同時に、真司の怪訝そうな声。
「こんな暗がりで何してんの? 寝てたの? 彩、電気、点けて」
言われて、彩はテーブルの上にある白いリモコンを取り、リビングの電気を点けた。急に明るくなったリビングは、異常なほどに明るく眩しい。
「おかえり、うん、そう、寝てたみたい」
ホンの数秒間、平穏なときが流れた。そう、真司が喋りだすまでは――。
「ただいま。今日、病院に行ったんだろ? 帰って来てから、何も言わずに、部屋にこもってる、って言って、母さんが心配してた」
一気に悲しみの渦の中に落ちてゆく。涙が溢れそうになるのを懸命に堪える。
耐えるのに全神経を使うから、億劫で立ち上がれない。真司がスーツを脱ぐのを呆然と見つめる。妊娠が分かってからは自分で、スーツをクローゼットに仕舞うようになっていた。今も歩きながら、片付けながら訊く。
「しんどいの?」
「うん、ちょっと……」
真司はウォーキングクローゼットから戻り、ワイシャツの前ボタンを外しながら、向き直る。
「母さんが、ご飯、できてる、って言ってた」
今はまだ義父母の顔を見たくない――。
「食欲がない、今は食べたくないの……、ひとりで食べてきて……」
「そう、でも、ご飯、食べないと、また母さん、心配するよなあ――」
つわりの症状が出てから、何度か、そんな事がある。真司は無理強いはしないが、母親への説明だけは煩わしいと、何度となく言った。今回もそんな思いをにじませている。それが分かる彩も立ち上がろうとしたが、義父母の顔が浮かんで、重い気分になり身体が動かない。
「やっぱ、だめ、ひとりで食べてきて」
「しんどい?」
「うん、まあ、でも、こうしていれば、大丈夫だから」
ジャージの上下に着替えた真司は、渋々ながら納得して、階下へと降りて行った。
ひとりになると、力が抜ける。四方からくるら重い空気の圧力を感じる。時の圧力も重なる。食事を済ませて、戻ってきたら、話さなければならない。言えば真司もショックを受けるだろう……。
また涙が溢れた。