衝撃のとき
つわりの症状は日を追うごとに、随分と軽くなった。すると今度は出産への不安が、彩の胸の内に広がり始める。
それは真司との結婚が決まった際、日取りを決める段になって、実家の父が亡くなったことが、少なからず影響しているのかも知れない。これからという時に父は帰らぬ人となった――。
マタニティーブックを端から端まで読んで、知識は良からぬ方向へも広がる。世間の出来事には疎い彩ではあるが、妊娠や出産事に関しては耳ざとい。昼間ひとりでテレビを見ていると、障害児だのダウン症だのと言う言葉が、やたらと耳に届く。
自分のお腹にいる、この子は大丈夫なのだろうか?
出産の日まで彩が通う予定の、病院のホームページを開いてみる。
各種検査の項目には、ダウン症の検査である羊水検査が可能だと記されている。
詳細を読むにつれ、出産への不安を一つでも取り除いておきたいと、彩は思うようになった。一度そう考えると、どうしようもなく、今の状態が不安になる。
何度目かの妊婦検診の日、主治医に羊水検査を受けたいと言ってみるが、取り合ってはくれない。
「二十八才ですよね。若いので、その必要は、無いでしょう」
「でも、今のままでは不安でしようがないんです。今のままでは安心することが出来ないんです。どうしても安心して出産を迎えたいので、検査をお願いします」
彩がすがった末、漸く主治医は折れた。
「まあ、そんなに不安なら、それを無くして、出産に備えるのも良いかも知れませんね。では早速、手はずを整えましょう」
そうして、十五週と三日目の日に、胎児の染色体異常の有無を調べるため、羊水検査を受けた。
検査終了後に主治医が「若いから大丈夫だとは思います。なので、中間結果は聞きに来なくても良いでしょう。最終結果が出るのは四週間後となります。その辺りの定期健診の日に、検査結果を知らせるようにしましょう」と言った。
羊水検査は破水する恐れがあるとも聞いていたが、何も起こらない。
それどころか、先週辺りから、胎動を感じる。昨夜は、彩のお腹に耳をくっつけていた真司にも、それが伝わったらしく、「おー!」と感動の声を発していた。
定期健診日を予約していた彩は、赤ちゃんがお腹の中から信号を送るのに応えながら、羊水検査の結果確認も兼ねて出かけた。
病院では、体重測定、血圧測定、検尿、血液採取、超音波検査を、いつもと同じように受ける。そのあと医師の説明を聞く。今回はそこに羊水検査の結果確認が加わる。
羊水検査を受けたというだけで、彩の抱える不安は小さくなっていた。その上に、お腹の中で元気に動く赤ちゃんからの発信、胎動である。喜びは前にも増して大きくなっている。
検査を受けなければならない年齢でもない彩は、安心して結果を待つ。
***
「どうですか? もう、胎動を感じますか?」
「はい、動いています」
「そうでしょう、赤ちゃんは、とても元気です。心拍にも問題はありません。ただ……」
続く言葉を探すような主治医の物言いを不審に思い、彩は語尾だけを繰り返す。
「ただ……?」
「羊水検査の結果が陽性で、ダウン症を示す数値が出ています。確立は、九十四パーセントと、かなり高い数値です」
「……?」
彩の視線の先には、今しがた撮ったばかりのエコー画像、そこには小さな赤ちゃんが映っている。全回に見たときよりも大きくなっている。小さな手を口元に添えているらしい。
あんなに元気なのに――。
頭の中が真っ白になる。血の気が引いて、頬の産毛がざわつき、浮き立っていく。カーッとしてくるが、手が、指が冷たくなってゆく。
担当医が彩の顔を凝視して「大丈夫ですか?」と言い、そしてまた説明をゆっくりと繰り返す。彩には、その説明が途切れ、途切れに届く。否、届かない言葉もある。
「数字が低くても……ダウン症であることは……。逆に高いと……間違いなく……ダウン症児です」
「……そ、そんな」
「生まれてくる赤ちゃんには、間違いなく障害があるでしょう……」
「障害だなんて……」
「はい、程度までは現段階ではわかりませんが」
検査を受ける前に、彩はホームページやら何やらで、色々と調べた。その際に感じたことが今、言葉になって出る。口の中でボソッと呟く程度の声ではあるが――。
「ムリ……」
「産むことは出来ませんか?」
「……ムリです」
「無理なら、中絶ということになりますが、ダウン症児だからと言って、中絶するだけが賢い選択という訳ではありませんよ。帰って、ご主人と相談して決めてください」
「……はあ」
「妊娠期間も二十週と進んできましたから、中絶するなら早く決断をしなければなりません。母体に影響しますから。これは妊娠中期中絶の注意点と心得、当病院の手順を書いたものです。よく読んで、ご主人と、しっかり相談してください。中絶するなら、この用紙に、ご主人のサインを……。とにかく早く決めて……」
何が何やら分からぬままに、渡される書類を手にする。看護師が「こちらへ」と声をかける。導かれるままに診察室の外へと、夢遊病者のような足取りで出る。
自分が自分でないような、身体と脳が別々になったような感じがする。看護師が何やら説明したのだが、頭が混乱して何が何やらわからない。説明のあとも会計を済ませるまで、看護師が付きっ切りで世話してくれた。
漸く病院の外に出る。大通りまで出たところで、吐き気に見舞われた。
――悪い夢? それも吐き気がするほどに。
つわりの期間は終わったはず。けれど、今また、吐き気が彩を襲う。道端で手を口に当てたとき、もしかしたら悪い夢も一緒に出るんじゃないか? そんな気がして、道路脇の植え込みの陰にしゃがみ、吐いた。
酸っぱい胃液だけが出たあと、少しばかり落ち着いたあと、耳の奥が「ぐわーん」と鳴った。その雑音の隙間から、さっきの担当医の声が「ダウン症です」と、繰り返している。
低い背丈のこんもりとした植え込み、その真ん中に背の高い街路樹、それが規則正しく並ぶ大通りの車道と歩道の境界。高い木の若葉から漏れる陽の光が、歩道にこぼれている。朝、歩いてきた時には、キラキラと輝いて見えた。
だが今は、恨めしい。陽の光さえもが疎ましい。