歓喜のとき
――妊娠した?
結婚して半年後の春、生理が遅れていることに気付いた。
その日、仕事から帰った真司に話すと、「やったー!」とガッツポーズで喜ぶ。
「で、いつ? いつ? 俺はいつ父ちゃんになるんだ?」
「せっかちねえ、まだ確定した訳じゃないわ。明日、病院に行ってくる。だから、お義父さん、お義母さんには、まだ言わないでよ」
階下にいる義父母には、妊娠が確実なものとなってから言いたい。後から、違いましたと言って、ぬか喜びなどさせたくない。そんな彩の思いを深く理解したかは分からないが、とにかく真司も同意した。
「なーんだ、そっかあ、うん、分かった。うははははー、とうとう俺も父親かあ、すげえ」
「だから、まだ確定してないって」
「男かな、女かな? 彩はどっちだと思う?」
「だから、まだだって、でも、私は女の子が良いから、女の子」
「うーん、俺は、やっぱ男が良い」
まだ見ぬ赤ちゃんの空想は楽しい。
「でも、もしも女なら、彩に似ていて欲しいな、俺」
「男の子なら、あなた似でね」
「どんな顔してんだろ?」
「うん、どんな声してんのかあ」
「ちっちぇんだろなあ」
ふたりは互いの顔を見詰め合って、微笑む。そうやって楽しい空想を延々と続けた。
翌日、病院での検査の結果、妊娠は確実なものとなった。病院からの帰り道、自然と笑みがこぼれ、すれ違う人の怪訝そうな視線を受けて歩く。
バス停で真司に絵文字をいっぱい入れてメールを送った。程なくして返ってきた真司からのメールは、ハートと音符がいっぱい並んでいる。
帰り道、本屋に立ち寄り、マタニティーブックを二冊買った。
家に帰れば、真司の帰りが待ち遠しくてたまらい。ひとりでいると、つい赤ちゃんの顔を想像してしまう。何をしても、つい笑顔になる。
買ってきた本を広げては微笑み、お腹を撫でた。ゆったりとした時間が流れ、人生の中で最高の気分を味う彩。
夜になり、やっと帰って来た真司は、満面の笑みに声を弾ませ、両手を広げて部屋に入ってきた。出迎えた彩を抱きしめて言う。
「彩、これからはムリをしちゃあ、駄目だぞ。気をつけてくれよ。家の中だって、安心するなよ。俺たちの部屋は二階だから、特に注意しろよ。分かったな」
優しさに溢れた声で言う夫の言葉に、彩はこくりと頷いた。
実家の母に電話で妊娠したことを話すと、「良かったね、良かったね」と言って喜んでくれた。「お父さんが生きていたら、喜んだだろうね」と涙声で言うのが、受話器から伝わる。
じーんと熱いものが彩の胸にもこみ上げる。結婚する前、式の日取りを決めようかという時、交通事故で突然に亡くなった実家の父。だから彩の結婚は一年先へと延期した。
母と娘は同時にその時の経緯を思い出し、亡き父を偲びながら、彩の妊娠を喜んだ。
実家の母は、さっき真司が言ったのと同じ言葉。「じゃあ、くれぐれも、気をつけるのよ」言い残して、電話を切った。
その後ふたりで階下へ下り、義父母にも彩が妊娠したことを伝えた。
階下の両親もひとしきり喜びを言葉にしたあと、お義母さんも言ってくれる。
「亡くなったお父さんも、喜んでくれているでしょうね、彩さん」
「はい、きっと、喜んでると思います」
そう言うと、皆の心がジーンなって、家族全員の気持ちが一致しているのも分かり合えた。
最後にここでもまた同じセリフを、今度は義父がが言う。
「これからは階段の上り下りにも、気をつけてるんだぞ」
次の日から、ふたりは何をしていても、楽しい時間を共有した。ふたりで楽しい空想をしては喜び、笑い合った。
それは次の日も、また次に日も――
やがて、つわりの症状に彩は苦しむ。けれど、そのつわりだって嬉しい。