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雨がやんだら、君と帰ろう

作者: 鈴木 明
掲載日:2026/08/22

六月の終わり、木曜日の夜になると、相馬直樹は駅前から少し離れた古いコインランドリーへ向かうようになった。最初の理由は、本当にそれだけだった。住んでいるマンションの洗濯機が壊れたのである。三十六歳になって一人暮らしにも十分慣れ、仕事から帰れば簡単な夕食くらいは自分で作り、溜まったシャツを洗い、休日には掃除もする。生活を誰かに任せなければ成り立たないような男ではなかったから、洗濯機が動かなくなったことも、面倒ではあっても大事件というほどではなかった。修理業者へ連絡すると交換部品の取り寄せに十日ほど掛かると言われ、仕方なく近所で二十四時間営業の店を探した。それで見つけたのが、古い商店街の外れにある「ランドリー白樺」だった。


 だから本来なら、洗濯機が直った時点で通う理由はなくなっていた。


 それでも直樹は、木曜日になると洗う必要のあるシャツやタオルを大きな布袋へ入れ、仕事帰りの疲れた体で十分ほど歩いてランドリーへ向かった。雨の日でも、風の強い日でも、その習慣は途切れなかった。理由を誰かに尋ねられれば、家庭用の洗濯機より乾燥機が早いからだとか、歩いたほうが健康にいいからだとか、いくらでもそれらしい説明はできた。


 けれど、本当の理由はもっと単純だった。


 店の一番奥、乾燥機の回転音が少し遠くなる窓際の長椅子に、橘香澄がいるからだった。



 初めて会った夜も、雨が降っていた。


 梅雨らしい細かな雨が昼過ぎから途切れることなく続き、夜になると駅前のアスファルトには街灯やコンビニエンスストアの看板が細長く滲んでいた。直樹は仕事を終えて帰宅したあと、白いワイシャツを六枚、下着と靴下を数日分、それからタオルを布袋へ押し込み、透明なビニール傘を差して家を出た。ランドリー白樺の古びた看板だけが雨の向こうで白く光り、自動扉を開けると、柔軟剤と乾いた布の温かな匂いが湿った夜気に代わって鼻へ届いた。


 大型洗濯機が二列、その向こうには乾燥機が壁一面に並び、奥の小さな待合スペースには使い込まれた木製の長椅子と丸椅子が置かれている。平日の九時を回っていたため利用客は一人だけで、その女性は長椅子の端に座り、膝の上に文庫本を開いていた。肩より少し長い黒髪を後ろで緩く束ね、薄い水色のシャツの上に生成り色のカーディガンを羽織っている。年齢は直樹より少し下だろうか。足元には大きな籠があり、中には淡い緑色のエプロンや白いタオルが何枚も入っていた。


 直樹は軽く会釈だけして、空いている洗濯機へ衣類を入れ始めた。洗剤が自動投入されることを確認し、硬貨を入れようと財布を出したところで、背後から控えめな声が聞こえた。


「あの、すみません」


 振り返ると、女性が文庫本を閉じてこちらを見ていた。


「百円玉、持っていますか?」


「百円?」


「ここの両替機、今壊れてるみたいなんです。私、あと百円だけ足りなくて」


 財布を確認すると、運よく何枚か残っていた。直樹が一枚差し出すと、女性は申し訳なさそうに両手で受け取った。


「ありがとうございます。すぐ返します。向かいの自動販売機で何か買って崩してきますから」


「別に百円くらい、いいですよ」


「駄目です」


 想像していたよりはっきり拒否され、直樹は思わず彼女の顔を見る。本人も少し強く言いすぎたと思ったらしく、二秒ほど真面目な表情を保ったあと、恥ずかしそうに笑った。


「百円を借りたまま人生を終えるの、嫌なので」


「そこまで重大な話ですか」


「私にとっては重大です」


「じゃあ、待ってます」


「逃げないでくださいね」


「百円のために?」


「百円だからです」


 その妙な理屈がおかしくて、直樹も笑った。


 女性は本当に雨の中へ出ていき、数分後、缶のミルクティーを二本抱えて戻ってきた。直樹へ百円玉を返したあと、そのうち一本まで差し出してくる。


「これは?」


「利息です」


「高すぎませんか」


「じゃあ半分だけ飲んで返してください」


「そのほうが難しいでしょう」


 再び二人で笑った。深夜のランドリーには、洗濯槽の低い回転音と乾燥機の風の音だけが続いている。見知らぬ男女がたまたま同じ時間に居合わせ、百円を貸し借りしただけの出来事だった。それでも直樹は、その夜の帰り道、傘を叩く雨の音を聞きながら、久しぶりに仕事とは無関係なことで笑った気がした。



 彼女の名前が橘香澄だと知ったのは、その翌週だった。


 直樹の洗濯機はまだ直っておらず、前回と同じ木曜日の午後九時過ぎに店へ入ると、香澄は同じ窓際の席にいた。今日は文庫本ではなく、小さな手帳へ何かを書き込んでいる。自動扉の開く音に気づいて顔を上げ、直樹の姿を認めると、少し驚いたあとで笑った。


「あ。百円の人」


「それ、俺の名前になったんですか」


「名前を知らないので」


「相馬です。相馬直樹」


「橘香澄です」


「橘さん」


「はい。これで百円の人を卒業ですね」


「助かりました」


 互いに名前を知った。ただそれだけのことなのに、先週より少し距離が縮まった気がした。


 香澄は三十三歳で、駅の反対側にある小さな花屋を経営していた。店の名前は「花灯り」。もともとは都内の大きな生花会社に勤め、結婚式場やホテル向けの装花を担当していたという。仕事自体は好きだったものの、早朝から深夜まで働く生活が何年も続き、三十歳を前にして会社を辞めた。しばらく休んだあと、昔から小さな店を持ちたいと思っていたことを思い出し、三年前に商店街の空き店舗を借りて独立したらしい。


「木曜日は、お店で使ったエプロンとかタオルをまとめて洗う日なんです。家の洗濯機だと何回も回さないといけないので」


「だから毎週いるんですね」


「相馬さんは?」


「俺は洗濯機が壊れただけです」


「じゃあ、直ったら来なくなりますね」


 香澄は何気なく言っただけだったのだろう。けれど、その言葉を聞いた瞬間、直樹の胸の奥に小さな寂しさが落ちた。まだ二度しか会っていない相手なのに、なぜそんな気持ちになるのか自分でも分からなかった。


「そうですね」


 それ以上のことは言えず、直樹は洗濯の終わったシャツを乾燥機へ移した。


 住宅設備会社で施工管理をしている直樹は、勤続十四年になる。新築よりも改修工事を担当することが多く、現場と事務所を行き来し、職人や施主の予定を調整し、資材の納期を確認し、問題が起きれば誰より先に頭を下げる。仕事ができるほうだという自覚はあった。後輩も増え、何か起きれば「相馬さんに聞けば分かる」「相馬さんなら何とかしてくれる」と言われる立場になっている。その言葉を嫌いではないし、頼られることにも慣れている。ただ、頼られることに慣れすぎたせいなのか、自分が疲れている時に誰へどう頼ればいいのかは、いつの間にか分からなくなっていた。


「相馬さん」


「はい」


「すごく疲れてます?」


 唐突に言われ、直樹は目を瞬いた。


「そんな顔してます?」


「顔というより、座り方です」


「座り方?」


「背中が、もう今日は何もしたくありませんって言ってます」


 直樹は自分の姿勢を確かめるように背筋を伸ばした。香澄が吹き出す。


「今直しても遅いですよ」


「そんなに分かりやすかったですか」


「私も同じだから分かるんです」


 香澄はそう言って、回っている乾燥機へ目を向けた。透明な扉の向こうで緑色のエプロンが何度も持ち上がっては落ちる。


「お店を始める前は、もっと楽しいことばかり考えてたんです。毎日きれいな花に囲まれて、お客さんに好きな花を選んで、誰かが笑ってくれて。好きなことを仕事にしたら、多少忙しくても平気だと思ってました」


「実際は?」


「家賃があります。仕入れがあります。帳簿があります。花は待ってくれないし、お客さんが一人も来ない日もあるし、昨日まできれいだった花が朝には駄目になってることもあります。売れ残った花を捨てる時が、一番嫌ですね」


「好きな仕事でも疲れるんですね」


「すごく疲れます」


「嫌いになりました?」


 直樹が尋ねると、香澄は少し考えてから首を横に振った。


「いいえ。疲れるけど、好きです」


「じゃあ、十分じゃないですか」


 香澄がこちらを見る。


「相馬さんは、仕事好きですか?」


「……たぶん」


「たぶん?」


「工事が全部終わって、住む人が喜んでるのを見る時は好きです。そこまでの九割は帰りたいと思ってます」


 香澄が声を出して笑った。


「じゃあ、一緒ですね」


 その言葉が妙に嬉しかった。


 その夜、直樹は久しぶりに仕事の愚痴を誰かへ話した。大失敗をしたわけでも、上司から理不尽に怒鳴られたわけでもない。朝一番で予定していた資材が届かず、別の現場へ回した職人を呼び戻す羽目になったこと。新人が作った書類を直した結果、自分の仕事が夜まで残ったこと。帰宅して冷蔵庫を開けても夕食を作る気力がなく、結局コンビニの蕎麦で済ませたこと。どれも人に聞かせるほど大した話ではないと思っていたが、香澄は途中で解決策を挟まなかったし、大げさに同情することもしなかった。ただ、ときどき笑いながら「それは嫌ですね」「その新人さん、相馬さんがいるから甘えてません?」と返してくれた。


 帰る頃には、問題は何一つ解決していなかった。


 それなのに、少しだけ呼吸が楽になっていた。



 三週間目の水曜日、直樹の洗濯機は直った。


 修理業者が帰ったあと、試運転する洗濯機を前にして、直樹はしばらく腕を組んで立っていた。内部で水が回り、何の問題もなく洗濯槽が動いている。異音もしない。これで木曜日の夜にわざわざ十分歩き、数百円を払って洗濯する理由は完全になくなった。


 翌日、仕事から帰った直樹は、自宅の洗濯機を前にして数秒考えたあと、白いシャツとタオルを布袋へ入れ始めた。


「何やってるんだ、俺」


 一人の部屋で呟いてみても、手は止まらなかった。


 午後九時十二分。ランドリー白樺へ入ると、香澄は窓際の長椅子で本を読んでいた。直樹を見るなり、少し驚いた顔をする。


「洗濯機、まだ直らないんですか?」


「直りました」


「……はい?」


「昨日」


「じゃあ、何で洗濯物を持ってるんですか?」


「家の洗濯機より、ここの乾燥機のほうが早いので」


 口に出した瞬間、自分でも苦しい言い訳だと思った。


「なるほど」


 香澄は真面目な顔で頷く。


「便利ですもんね」


「便利です」


「家から十分歩いて?」


「運動にもなるので」


「雨の日も?」


「健康のために」


 香澄は口元を押さえたが、結局堪えきれずに笑った。


「無理がありますよ、相馬さん」


「分かってます」


「じゃあ、本当は?」


 そう尋ねられた瞬間、直樹は返事に詰まった。


 本当は、あなたに会いたかった。


 頭には浮かんだ。けれど、知り合って三週間の女性へそのまま口にするには、少し重すぎる気がした。若い頃なら勢いで言えたかもしれないが、三十六歳になると、自分の気持ちだけで相手との距離を変えることに慎重になる。相手の生活も、自分の生活も、それぞれ積み上げてきた時間がある。だから直樹は、嘘にならない範囲で言葉を選んだ。


「家に一人でいるより、ここにいるほうが楽なので」


 香澄は笑わなかった。少しだけ目を丸くし、それから柔らかな表情になった。


「私もです」


 その夜から、木曜日は二人の時間になった。



 特別なことをするわけではない。洗濯物を放り込み、機械が動いている間に話し、近くの自動販売機で飲み物を買う。暑くなればコンビニでアイスを買い、違う味を選んで一口ずつ交換した。仕事の話もしたし、子供の頃に好きだったテレビ番組の話もした。香澄が苦手な食べ物は生の玉ねぎで、直樹はパクチーがどうしても食べられない。香澄は方向音痴なのに旅行が好きで、直樹は地図を見るのが得意なのに旅行先では予定を詰め込みすぎて疲れる。そんな、知らなくても人生には何の支障もないことを少しずつ知っていく時間が、直樹には思いのほか楽しかった。


 香澄が店で余った花を一本だけ持ってくることもあった。


「これ、よかったら」


 最初に渡されたのは黄色いガーベラだった。


「俺に?」


「今日で店頭に出すのは最後なので」


「まだきれいですよ」


「まだきれいなんです。でも花屋では、明日もきれいかどうかで判断しないといけなくて」


「もったいないですね」


「だから相馬さんに押しつけます」


「花瓶持ってませんよ」


「百円ショップで買ってください」


「花屋として売らないんですか」


「うちの花瓶、千円以上します」


「正直ですね」


 直樹は翌日、本当に透明な花瓶を買った。一人暮らしを始めて十年以上、一度も花を飾ったことのないダイニングテーブルへ黄色いガーベラを置くと、殺風景だった部屋の一角だけが少し明るくなった気がした。帰宅した時、そこに花があることに気づく。それだけで、無人の部屋が以前より冷たく感じなくなった。


 次の木曜日にその話をすると、香澄は予想以上に嬉しそうな顔をした。


「水、毎日替えてます?」


「朝に」


「茎の先は切りました?」


「切る?」


「やっぱり」


 香澄は呆れたように笑いながら、花を長持ちさせる方法を一つずつ教えてくれた。それ以来、直樹の部屋には一本だけ花があるようになった。白いトルコキキョウ、薄紫のスターチス、小さな向日葵、淡い桃色の薔薇。直樹には花の良し悪しなど分からなかったが、木曜日に受け取った花を一週間眺め、次の木曜日が近づく頃に少しずつ元気を失っていくのを見ることで、いつしか一週間の流れまで感じるようになっていた。


 代わりに直樹は、何か食べ物を持っていくようになった。駅前のパン屋で買ったクロワッサン、現場近くの和菓子屋で見つけた団子、出張先の小さな菓子。香澄が閉店作業に追われ、夕食を抜いたままランドリーへ来ていることが何度かあったからだ。


「相馬さん」


「はい」


「私、餌付けされてます?」


「夕飯食べてない人に言われたくないです」


「今日は食べました」


「何を?」


「お昼におにぎり二つ」


「それ昼食でしょう」


「夕方にクッキーも食べました」


「食事じゃないです」


「花屋って、母親みたいな人と付き合う仕事なんですね」


「俺は花屋じゃないです」


「じゃあ父親」


「年齢三つしか違わないですよね?」


「三つは大きいです」


「そこ重要ですか」


「女性には重要です」


 そんな会話をしながら食べると、コンビニのサンドイッチまで少しおいしく感じた。


 付き合いが長くなるにつれて、直樹は香澄がただ明るくよく笑う人ではないことにも気づいていった。疲れている日は口数が少なくなる。店で嫌なことがあった日は、洗濯物を機械へ入れる手つきがわずかに乱暴になる。それでも「大丈夫ですか」と尋ねると、反射的に「大丈夫です」と答える。その癖が、自分とよく似ていた。


 七月の終わり、香澄は一度だけ昔付き合っていた人の話をした。


「結婚するかもしれないって思ってた人がいたんです」


 二人で缶コーヒーを飲んでいた時、何の前触れもなく香澄が言った。


 直樹は少し驚いたが、「そうなんですね」とだけ返した。


「会社を辞めた頃に別れました。私が店をやりたいって言ったら、最初は応援してくれたんです。でも本当に物件を探し始めたら、『趣味じゃないんだから考え直したほうがいい』って。結婚するなら安定した仕事に戻ってほしいって言われました」


「それで別れたんですか」


「それだけじゃないですよ。向こうにも向こうの人生がありましたから。子供が欲しいとか、家を買いたいとか。私もその未来が嫌だったわけじゃない。でも、どうしても自分の店を諦めたくなかった」


 香澄は缶を両手で包み、苦笑した。


「今でも時々、どっちが正しかったんだろうって考えます」


「正しいか間違いかで決めなくてもいいんじゃないですか」


「相馬さん、そういう言い方しますよね」


「どういう?」


「どっちかを悪者にしない言い方」


 直樹は少し考えた。


「自分も似たような別れ方をしたからかもしれません」


 今度は香澄が驚く番だった。


 直樹にも、二十代後半から五年ほど付き合っていた女性がいた。結婚の話も何度か出た。しかし直樹は仕事が忙しくなるほど何も言わなくなり、会う回数が減っても「仕方ない」と済ませ、相手に心配されても「大丈夫」としか答えなかった。最後に彼女から言われたのは、「私がいなくても、直樹は何も困らないんだと思う」という言葉だった。


「違ったんですけどね」


 直樹は静かに言った。


「困らないんじゃなくて、困ってるって言えなかっただけで。でも、その違いを説明できる頃には遅かったです」


「……後悔してます?」


「あります。でも、戻りたいとは思わないです」


「私もです」


 二人はそれ以上、過去の恋人について話さなかった。互いを慰めることもしなかった。それぞれに過去があり、それを無理に美談にも失敗談にもせず、ただそこに置いておけることが妙に心地よかった。



 八月の初め、香澄はいつもより三十分ほど遅れてランドリーへ来た。髪は普段より雑にまとめられ、薄いブラウスの袖には葉の汁らしい緑色の汚れが残っている。笑ってはいたが、目の下には隠しきれない疲れが見えた。


「こんばんは」


「こんばんは。遅かったですね」


「注文が重なっちゃって」


 直樹はそれ以上尋ねず、買っておいた麦茶を一本渡した。香澄は「ありがとうございます」と言って受け取ったものの、蓋を開けることなく両手で握り、しばらく黙って洗濯機を見ていた。


「今日、店を閉めようかなって思いました」


 直樹は横顔を見る。


「今日だけ?」


「違います。ずっと」


 洗濯槽の低い回転音だけが二人の間を埋めた。


「春から売上が少し落ちてるんです。家賃と仕入れが払えないほどじゃありません。でも、ずっと考えちゃうんです。この先も一人で続けられるのかなって。母には、もう十分やったんだから、また会社に勤めてもいいんじゃないって言われました」


「香澄さんは、戻りたいんですか」


「分かりません」


 麦茶のラベルを指でなぞりながら、香澄は小さく息を吐いた。


「疲れてる時って、自分が何を選びたいのか分からなくなりません?」


「なります」


「好きだから続けたいのか、ここまでやったから意地で辞められないだけなのか、それすら分からなくなるんです。花束を渡したお客さんが笑ってくれたら、やっぱりこの仕事が好きだと思う。でも朝四時半に起きて市場へ仕入れに行く日は、もう嫌だって思う。休みの日にも店のことを考えて、売上を見るたび不安になって、好きなものを仕事にしたはずなのに、好きだった気持ちまで削れていくような日があって」


 直樹はしばらく黙っていた。


 仕事なら、まず数字を聞くだろう。家賃と売上の割合、仕入れ価格、営業時間、客単価。改善できる点を探し、できることから手を付ける。それが直樹の得意なやり方だった。


 しかし、香澄の横顔を見ていると、今必要なのは正しい答えではない気がした。


「今日は、決めなくていいんじゃないですか」


 香澄が顔を上げる。


「疲れてる日に人生の大事なことを決めると、全部悪く見えるので」


「そういうものですか」


「少なくとも俺はそうです。仕事辞めたいと思うの、だいたい夜十一時以降ですから」


 香澄の口元が少し緩む。


「朝になると?」


「やっぱり辞めたい日もあります」


「駄目じゃないですか」


「でも、夜よりはましです」


 二人で少し笑ったあと、直樹は続けた。


「続けるか辞めるかは、ちゃんと寝た日に考えたほうがいいですよ。今日は疲れたって言うだけでいいんじゃないですか」


 香澄は何も言わず、ランドリーの床へ視線を落とした。しばらくして、張っていた肩から少しだけ力が抜ける。


「疲れました」


「はい」


「すごく疲れました」


「はい」


「……頑張ってるって、誰かに言ってほしいです」


 その声は、それまで聞いたどの言葉より小さかった。


 直樹は迷わなかった。


「頑張ってますよ」


 香澄がゆっくり顔を上げる。


「ちゃんと頑張ってます。俺は花屋の仕事なんて分からないけど、毎週ここに来る香澄さんを見てますから。朝早く仕入れに行った日も、注文が多かった日も、売れなくて落ち込んだ日も、それでも店を開けてたことくらいは分かります」


 香澄の目が潤んだ。


「……ずるいですね」


「何がです?」


「そういうこと、普通の顔で言うから」


 香澄は笑いながら目元を拭った。


 その夜、洗濯も乾燥もとっくに終わっていたのに、二人はなかなか立ち上がらなかった。外では途中から雨が降り始め、窓を細かな水滴が流れている。帰れないほど強い雨ではなかったが、どちらも「もう少し弱くなってから」と理由をつけた。


 話すことがなくなると、二人は黙った。


 その沈黙が苦しくなかったことを、直樹はよく覚えていた。



 九月になると、今度は直樹が何も言えなくなる番だった。


 担当していた住宅改修工事で問題が起きた。後輩が発注した部材の寸法を間違え、予定していた日に取り付けができなくなったのである。取り寄せ直せば済む話ではあったが、工期は四日遅れ、施主は強く怒った。ミスをした後輩は二十五歳になったばかりで、電話口で何度も謝りながら声を震わせていた。直樹は担当責任者として施主宅へ出向き、頭を下げ、工程を組み直し、別現場から職人を回してもらい、会社にも事情を説明した。


 四日後、工事は無事に終わった。


 上司は「よく収めた」と言った。後輩は泣きそうな顔で「ありがとうございました」と頭を下げた。施主も最後には「いろいろ言って悪かった」と言ってくれた。


 誰も直樹を責めなかった。


 それなのに、自分の中には何か重いものが残っていた。


 木曜日、直樹は洗濯物を持たずにランドリーへ来た。


 香澄はすぐに気づいた。


「今日は洗濯しないんですか?」


「する物がなくて」


「じゃあ、何しに来たんです?」


 直樹は答えられなかった。


 香澄は少しだけ彼を見つめ、それ以上は尋ねなかった。


「座ります?」


「はい」


 二人はいつもの長椅子へ並んだ。五分ほど、何も話さなかった。乾燥機が回っている。誰かの洗濯物が、透明な扉の向こうで何度も持ち上がっては落ちる。その単調な音を聞きながら、直樹は自分が何を話したいのか考えた。


「俺、たぶん、人に頼られるのが好きなんです」


 やがて口を開くと、香澄は横を向かずに「はい」とだけ答えた。


「頼られると、自分が役に立ってると思えるから。困ってる人がいたら、何とかしなきゃって思う。でも、そればっかりやってたら、自分が困った時にどうすればいいのか分からなくなったみたいで」


 香澄は黙って聞いている。


「大丈夫じゃない時も大丈夫って言うんです。昔から。誰かに心配されても、俺が何とかすれば済むと思うし、仕事でもそうしてきた。でも今週は……何か、疲れました」


 最後の言葉だけが、自分でも驚くほど弱くなった。


「そうですか」


 香澄が静かに言った。


「疲れたんですね」


「はい」


「じゃあ、今日は何もしなくていいですよ」


「何もしない?」


「はい。私がここにいますから」


 直樹は初めて彼女を見る。


「何か話したくなったら聞きます。話したくなかったら黙ってます。飲み物が欲しかったら買ってきます。帰りたくなったら帰りましょう。それまでは、ただ座ってればいいです」


「それだけ?」


「それだけです」


 香澄はほんの少し笑った。


「前に私へ言ったでしょう。疲れてる日に大事なことを決めなくていいって。だから相馬さんも今日は、何も決めなくていいです」


 胸の奥に張っていたものが、ゆっくり緩んでいく。


「じゃあ、少しここにいていいですか」


「もちろん」


「何も話さなくても?」


「はい」


「格好悪くても?」


「今さらです」


「今さら?」


「健康のために雨の日も十分歩いて洗濯へ来る人ですから」


 直樹は思わず笑った。


「まだ覚えてるんですか」


「忘れません」


 それから二人は、本当にしばらく何も話さなかった。


 直樹は、その沈黙の中で初めて理解した。


 誰かに頼ることは、問題を解決してもらうことだけではない。ただ隣にいてもらうことも、立派に誰かを頼ることなのだ。


 そして、自分は香澄の隣なら、それができる。



 十月最初の日曜日、直樹は初めて「花灯り」を訪れた。


 仕事で近くまで来たから、という言い訳を用意していたが、その日は休日だった。わざわざ反対方向の電車へ乗った時点で、自分でも無理があることは分かっている。


 店は想像していたより小さかった。白い壁と木製の扉、窓辺には季節の花が並び、入口の黒板には「今日の花」と手書きされている。扉を開けると、土と水と青い葉が混じった柔らかな匂いがした。


 香澄は年配の女性へ花束を渡しているところだった。


「お誕生日、おめでとうございます」


「ありがとう。橘さんに作ってもらうと、本当にかわいいわ」


「来年も作らせてください」


「もちろんよ。来年までちゃんと店を続けてもらわないと困るわ」


「頑張ります」


 香澄は笑っていた。


 ランドリーで見せるものとは少し違う、仕事をしている人の笑顔だった。花の長さを揃え、色の位置を確かめ、包み紙を整える動きには迷いがない。客が帰ったあと、香澄はようやく直樹に気づいた。


「……相馬さん?」


「こんにちは」


「どうしたんですか?」


「近くまで来たので」


「日曜日なのに?」


「……散歩です」


「電車で?」


「細かいな」


 香澄が声を上げて笑った。


「いらっしゃいませ。せっかく来たなら、花買います?」


「自分用に?」


「誰かに渡してもいいですよ」


「渡す相手がいません」


 口にしてから、直樹はほんの少し後悔した。


 香澄も何も言わなかった。


 ほんの短い沈黙だったのに、それまでとは違う意味を持った気がした。


「じゃあ、自分用ですね」


 香澄は棚から白い花を一本取った。


「これ、どうですか?」


「名前は?」


「秋明菊です」


「菊?」


「名前には菊って入ってますけど、菊の仲間じゃないんです」


「ややこしいですね」


「花って、けっこうそういうの多いですよ」


 直樹はその花を買った。香澄が薄い紙で丁寧に包み、手渡してくれる。指先がほんの少し触れただけで心臓が速くなったことに気づき、自分で自分に呆れた。


 三十六歳にもなって。


 それでも、嫌ではなかった。


 まだこんなふうに誰かを好きになれるのだと知ったことが、少し嬉しかった。


 帰り際、直樹は店の外からもう一度振り返った。香澄は次の客へ笑顔を向けていた。


 その瞬間、ようやく自分の気持ちを認めた。


 木曜日が楽しみなのではない。


 香澄に会える日が、楽しみなのだ。



 気づいてしまうと、今まで何でもなかったことまで意味を持ち始めた。


 香澄から「今日は寒いですね」と届くだけで、少し嬉しい。店の前を通れば、いるかどうか気になる。木曜日に渡す菓子を選ぶ時、以前より長く売り場を眺めるようになった。香澄が甘すぎるものをあまり好まないことを覚え、栗や抹茶の菓子を選ぶ。自分でも分かりやすいと思う。


 一方の香澄も、自分の変化に気づいていた。


 十一月半ばの木曜日、直樹が来なかった。


 午後九時を過ぎても自動扉は開かない。九時半になっても来ない。十時になる頃には、香澄の洗濯も乾燥もすべて終わっていた。タオルを畳み、エプロンを籠へ入れ、それでも長椅子から立てずにいる。


 連絡先は知っていた。


 九月に台風が近づいた夜、直樹から「今日は危ないから来ないほうがいい」と連絡が来たことをきっかけに交換している。だから「今日は来ないんですか」と送ろうと思えば送れる。


 けれど、その一文を打っては消した。


 まるで待っていたみたいだからだ。


 実際、待っているのだけれど。


 午後十時十八分、自動扉が開いた。


「すみません」


 息を切らした直樹が入ってきた。


「現場でトラブルがあって」


「……そうですか」


「連絡すればよかった」


「別に」


 自分でも驚くほど冷たい声が出た。


「私は毎週来てるだけなので」


 直樹が黙る。


 その表情を見た瞬間、香澄は後悔した。


「すみません。違うんです。怒ってるわけじゃなくて」


「怒っていいですよ」


「何でですか」


「待っててくれたんでしょう?」


 胸が強く鳴った。


「待ってません」


「洗濯、終わってますよね」


「乾燥が」


「全部畳んであります」


「……細かいですね」


「香澄さんに言われたくないです」


 直樹は隣へ座った。仕事帰りらしく、シャツの袖には少し皺が寄り、疲れた顔をしている。


「来たかったんです」


「え?」


「仕事が遅くなって、十時回ってたから、そのまま帰ろうと思いました。でも……顔見たかったので」


 香澄は何も言えなかった。


 直樹も、それ以上は言わない。


 二人の間に、何度も共有してきた沈黙が落ちた。


 しかし、その夜の沈黙は少し違った。穏やかなだけではない。言葉を一つ間違えれば、今までと同じ場所には戻れなくなるような、柔らかな緊張がある。


「相馬さん」


「はい」


「私も」


 香澄は自分の手元を見た。


「今日、来てほしかったです」


 隣で直樹が静かに息を吐く。


「よかった」


 たったそれだけだった。


 けれど二人とも、その夜から自分たちが以前と同じではないことを知っていた。



 それでも、すぐに何かが変わったわけではなかった。


 二人とももう大人だった。好意に気づいたからといって、翌日から勢いだけで距離を詰めることはなかった。むしろ互いの生活を知っているからこそ慎重になった。


 香澄は花灯りを続けるかどうか、まだ考えている。


 直樹には忙しい仕事がある。


 好きだからといって、それだけで相手の人生へ踏み込んでいいとは思えなかった。


 十一月最後の日曜日、二人は初めてランドリー以外で待ち合わせた。香澄が以前「行ってみたい」と話していた小さな喫茶店へ行き、そのあと近くの公園を歩いた。紅葉はほとんど終わり、枝に残った葉が風に揺れていた。


「これ、デートですかね」


 歩きながら香澄が突然言った。


 直樹は足を止めそうになる。


「香澄さんがそれ聞くんですか」


「確認です」


「俺はデートのつもりでした」


「そうなんですね」


「違った?」


「私もです」


 二人は少し笑った。


 帰り際、駅の改札前で香澄が「また木曜日」と言った。


 直樹も「また木曜日」と返した。


 以前と同じ言葉なのに、その日は妙に嬉しかった。



 告白は十二月最初の木曜日だった。


 午後から降り始めた冷たい雨は、夜になっても止まなかった。二人はいつものようにランドリーで洗濯を終え、傘を並べて外へ出た。駅へ向かう道の途中まで来たところで、香澄が足を止めた。


「相馬さん」


「はい」


「私、店を続けることにしました」


 直樹も立ち止まる。


「決めたんですか」


「はい。営業時間を少し短くします。来年から週に一日、完全に店を閉める日も作ります。仕入れ先も少し変えて、配達も全部自分でやるのをやめます。ネット注文も増やして……一人でやってるからって、全部一人で抱えなくていいんだって、ようやく思えました」


「いいと思います」


「母には、もっと早くそうしなさいって言われました」


「それは言われそうですね」


「でも、辞めなくていいと思えたんです」


 香澄は傘越しに夜空を見上げた。


「疲れてる時に全部嫌になってただけでした。少し休んで、ちゃんと数字も見て、常連さんにも話を聞いて、考えたら……やっぱり花屋が好きでした」


「よかった」


「相馬さんのおかげです」


「俺は何もしてませんよ」


「そうなんです」


「そこ否定してくださいよ」


 香澄が笑う。


「何もしなかったから、よかったんです。辞めるなとも、もっと頑張れとも言わなかった。ただ疲れたって言わせてくれた。それが、すごく助かりました」


 雨音が傘を細かく叩いている。


「私、多分ずっと、誰かに『もう十分頑張ってる』って言ってほしかったんだと思います」


「俺も似たようなものです」


「知ってます」


「そんなに分かりやすい?」


「かなり」


 直樹は笑ったが、そのまま言葉を止めた。


 このまま駅へ着けば、今日も「また来週」と言って別れる。それでも悪くないと思う気持ちもあった。しかし、それではいつまで経っても今の関係から進めない。


 怖くないわけではない。


 好きだと言って、もし香澄が同じ気持ちではなかったら、この木曜日まで失うかもしれない。


 それでも直樹は、自分がもう「大丈夫」と言って何も伝えない人間のままでいたくなかった。


「香澄さん」


「はい」


「俺、木曜日が好きになったんだと思ってました」


 香澄が首を傾げる。


「仕事が終わって、ここで洗濯して、くだらない話して。それが楽だから毎週来てるんだって。でも違いました」


 胸の鼓動が速い。


 それでも、言葉は不思議なほど真っ直ぐ出てきた。


「香澄さんに会えるから、木曜日が好きなんです。一緒にいると、何かちゃんとしてなくてもいいと思える。無理に面白いことを言わなくてもいいし、格好つけなくてもいいし、疲れた時に疲れたって言える。そういう人、今までいませんでした」


 香澄は黙って聞いている。


「花をもらうのも嬉しいです。俺が買ってきた物を食べてくれるのも嬉しい。仕事の話を聞くのも、何も話さず座ってるのも好きです」


 直樹は一度息を吸った。


「香澄さんが好きです」


 雨の向こうで駅前の明かりが滲んでいる。


「できれば、木曜日だけじゃなくて、もっと一緒にいたいです」


 香澄はしばらく俯いたままだった。


 やがて肩が小さく揺れた。


「……笑ってます?」


「少し」


「何で」


「相馬さん、本当に真面目ですね」


「告白して笑われるの、結構きついですよ」


「違います」


 香澄が顔を上げた。


 目が少し潤んでいる。


「嬉しいんです」


 その一言で、直樹の胸に詰まっていた息が一気に抜けた。


「私も好きです」


「……本当に?」


「そこ疑うんですか」


「いや。でも」


「毎週、洗濯終わっても一時間近く居残ってたのに?」


「それは俺もです」


「花も毎週渡してたのに?」


「売れ残りだって言ってたでしょう」


「全部が売れ残りだったと思ってたんですか?」


 直樹は言葉を失った。


 香澄が笑う。


「途中から、相馬さんに似合いそうな花を選んで残してました」


「それ、早く言ってくださいよ」


「相馬さんこそ、毎週食べ物持ってきたじゃないですか」


「あれは夕飯食べないから」


「木曜日だけ、わざわざ評判のお店へ寄って?」


「……」


「お互い様ですね」


 直樹も笑った。


 しばらくして、どちらからともなく歩き始める。傘が時々触れ合い、そのたびに少しだけ距離が近づいた。


「あの」


 香澄が小さく言った。


「一つお願いしてもいいですか」


「何です?」


「今日は駅までじゃなくて、家の近くまで一緒に帰ってくれませんか」


「もちろん」


「雨だから」


「雨だから?」


「はい。雨だからです」


 直樹は笑った。


「じゃあ、雨が止んでも送ります」


 香澄も笑う。


「それなら、お願いします」



 付き合い始めたからといって、人生が急に簡単になったわけではない。


 香澄の店は翌年すぐに繁盛店になったわけではないし、直樹の仕事からトラブルが消えたわけでもない。忙しい日には連絡を返せないこともある。香澄が自分で決めた休みの日に店へ行こうとして、直樹に「今日は休む日でしょう」と止められたこともあった。反対に、直樹が休日まで仕事の電話を気にしていると、香澄がスマートフォンを取り上げたこともある。


 一度、きちんと喧嘩もした。


 付き合い始めて三か月ほど経った頃、直樹が二日続けて連絡を忘れたことがきっかけだった。仕事が忙しかっただけで悪気はなかった。しかし香澄は怒った。


「忙しいなら忙しいって、一言でいいんです」


「分かってる。でも現場にいると――」


「分かってるならやってください」


「そんな簡単じゃない時もある」


「私だって店があります」


 声を強くしたあと、二人とも黙った。


 以前の直樹なら、その場を早く終わらせるために「ごめん」と言い、心の中では仕方なかったと思ったかもしれない。香澄も以前なら「もういいです」と言い、自分から距離を取ったかもしれない。


 けれど、その日は違った。


「……寂しかったんです」


 香澄が先に言った。


「怒ってるんじゃなくて、寂しかったです。前の人とも、少しずつそうやって話さなくなったから。だから怖くなりました」


 直樹はしばらく黙り、それから正直に答えた。


「俺は、忙しい時に誰かへ連絡する癖がまだないんだと思う。昔から一人で処理するほうが楽だったから。でも、香澄が嫌なんじゃない。むしろ逆です」


「逆?」


「大事だから、ちゃんとした時に話したいって思って、結局後回しにしてる」


「それ、困ります」


「うん。だから直します」


「全部?」


「全部は無理かもしれない」


 香澄が少しだけ眉を寄せる。


「でも、忙しいの一言くらいは送る」


「それで十分です」


 二人はそこでようやく笑った。


 恋人になるということは、相手がいつでも自分を理解してくれることではない。


 理解できない時に、逃げずに言葉を探すことなのだと、二人は少しずつ覚えていった。



 翌年の五月、花灯りの入口には新しい札が掛けられていた。


 ――毎週火曜日 定休日。


 以前の香澄なら、店を週に一日閉めることさえ怖かった。客が別の店へ行ってしまうのではないか。注文を逃すのではないか。売上が下がるのではないか。しかし実際に始めてみれば、火曜日があるから水曜日からまた笑って店を開けられるのだと分かった。


 定休日のある火曜日、直樹と出かけることも増えた。


 何も予定を入れず、昼まで寝る日もある。


 香澄が直樹の部屋で料理を作り、直樹が洗い物をすることもある。


「昔、洗い物嫌いって言ってませんでした?」


「言いました」


「今やってますね」


「香澄が料理したから」


「進歩ですね」


「褒めてください」


「偉いですね、直樹さん」


「子供扱いしてない?」


「してません」


 付き合い始めてから、呼び方も変わった。


「相馬さん」は「直樹さん」になり、直樹もいつからか「香澄さん」ではなく「香澄」と呼ぶようになった。最初の頃は名前を呼ぶだけで少し照れたのに、半年も経つと、その響きが日常の中へ馴染んでいった。


 それでも、木曜日のコインランドリーだけは完全にはなくならなかった。


 香澄の店にも新しい大型洗濯機を置き、直樹の家の洗濯機も何の問題もなく動いている。本当なら二人とも、ランドリー白樺へ通う理由などない。


 それでも月に二度ほど、毛布やタオルを持って待ち合わせた。


 あの窓際の長椅子へ座るために。



 付き合い始めて半年ほど経った春の終わり、木曜日の夜にも雨が降った。


 乾燥機の中では、必要以上に大きな白い毛布がゆっくり回っている。


「無駄ですよね」


 香澄が言った。


「何が?」


「家でも洗える毛布をわざわざここまで持ってくること」


「運動になります」


「まだその設定使うんですか」


「健康は大事なので」


「じゃあ今日は歩いて帰りましょう」


「香澄の家まで四十分以上ありますよ」


「健康のために」


「撤回します」


 香澄が笑い、直樹も笑った。


 交際してから、知らなかったことをいくつも知った。香澄は朝が弱く、休みの日には十時を過ぎても起きない。直樹は意外と料理が好きだが、作ったあとの洗い物を極端に面倒がる。香澄は映画を見ればすぐ泣き、直樹はどれほど感動していても「まあ、よかった」としか言わない。香澄は寝る前に必ず翌日の天気を確認し、直樹は目覚ましを三つ掛けるくせに一つ目で起きる。


 誰かを好きになる前は、恋愛とはもっと特別な時間の積み重ねだと思っていた。


 きれいな店へ行き、記念日を祝い、旅行へ出かける。


 もちろん、そういう日も楽しい。


 けれど直樹が今いちばん大切だと思うのは、もっと小さなことだった。


「疲れた」と言えること。


「今日は話したくない」と言えること。


「寂しかった」と言えること。


 何も解決できない時でも、隣にいてほしいと頼めること。


 昔の直樹は、人を好きになるということは、相手を幸せにしてあげることだと思っていた。


 今は少し違う。


 誰かをずっと幸せにしておくことなど、たぶん誰にもできない。


 仕事で失敗する日もある。


 店の売上が悪い日もある。


 自分が嫌になる日も、理由もなく沈む日もある。


 だから必要なのは、幸せでいられない日にも一緒にいられることなのかもしれない。


 頑張れない日に「頑張れ」と言わず、答えが出ない日に答えを急がせず、泣きたい時には理由を聞く前に座る場所を空ける。


 香澄が直樹へしてくれたように。


 直樹も香澄へ、そうありたいと思っている。


「直樹さん」


「ん?」


「雨、弱くなりましたよ」


 窓を見ると、さっきまで激しくガラスを叩いていた雨が細くなっている。


「帰る?」


 直樹が尋ねる。


 香澄は少し考えるふりをしたあと、肩を彼へ預けた。


「もう少しだけ」


「洗濯、終わってるよ」


「知ってます」


「毛布、もう十分乾いてる」


「それも知ってます」


「じゃあ何待ち?」


 香澄は肩を預けたまま笑った。


「雨がやむのを」


「もうほとんどやんでるけど」


「じゃあ、もう少し降ってることにします」


「勝手だな」


「直樹さんも帰りたくないくせに」


 否定できなかった。


 二人はそのまま座っていた。


 乾燥機の低い音が続いている。


 昔なら、何もしない時間を無駄だと思ったかもしれない。休んでいる間にも何かできる。話すなら意味のあることを話したい。悩みがあるなら解決したい。


 今は、その何もしていない時間こそ大切だった。


 隣に誰かがいて、その人の体温が肩越しに伝わっている。


 それだけでいい夜がある。


 外では、長く降っていた雨が終わろうとしていた。


 香澄が窓の向こうを見ながら、小さく言う。


「最初の日も雨でしたね」


「そうだったな」


「私、百円借りました」


「返してもらった」


「ミルクティーもあげました」


「利息で」


「今考えると高すぎますね」


「俺もそう言ったよ」


 香澄が笑う。


「もしあの日、百円持ってなかったら、どうなってたと思います?」


「別の人に借りてたんじゃない?」


「そうじゃなくて」


「分かってる」


 直樹は少し考えた。


「でも、別のきっかけで会ってたかもしれない」


「どうしてです?」


「木曜日に毎週来てたんでしょう?」


「はい」


「俺も洗濯機壊れてる間は来てた。だったらどこかで話したと思う」


「話さなかったかもしれませんよ」


「その場合は俺が百円借りる」


「わざと?」


「わざと」


「それ、かなり怪しい人です」


「じゃあやめる」


「でも」


 香澄は少しだけ顔を上げた。


「会えてよかったです」


 直樹はその横顔を見る。


「俺も」


「花屋、辞めなくてよかった」


「うん」


「直樹さんが、木曜日に来なくならなくてよかった」


「それは洗濯機が優秀すぎたから危なかったな」


「壊れた洗濯機にも感謝しないと」


「修理した人に失礼だよ」


 二人は声を抑えて笑った。


 やがて乾燥機が停止し、ランドリーの中が少し静かになった。


 香澄が肩から頭を離す。


「今度こそ、帰ります?」


 直樹は窓の外を見た。


 雨はもう、ほとんど見えない。


「そうだな」


 二人で立ち上がり、乾いた毛布を畳む。直樹が大きな袋へ詰め、香澄が忘れ物がないか確認する。初めて会った頃から何度も繰り返してきた、ごく普通の動作だった。


 自動扉の前まで来ると、香澄が傘を手に取った。


「まだ少し降ってます」


「一本で行けそう?」


「私の傘、小さいですよ」


「俺の使おう」


 直樹が傘を開き、香澄がその中へ入る。


 肩が触れた。


 付き合う前なら、それだけで互いに意識して少し離れただろう。


 今は、香澄のほうから自然に近づいた。


 外へ出る。


 雨は霧のように細く、街灯の光の中で静かに落ちていた。


 直樹は傘を持つ手を少し香澄側へ傾ける。香澄がそれに気づき、直樹の腕へ自分の腕を絡めた。


「香澄」


「はい」


「雨がやんだら、帰ろうか」


 香澄は一瞬だけ不思議そうな顔をしたあと、笑った。


「もうほとんどやんでますよ」


「じゃあ帰る?」


「……もう少しだけ歩きましょう」


「遠回りする?」


「はい」


 直樹も笑った。


「じゃあ、遠回りして帰ろう」


 二人は駅とは反対側の道へ歩き始めた。


 雨が降る日もある。


 疲れる日も、うまく笑えない日も、何も解決できない日も、これからきっと何度もある。


 それでも、帰る場所までの道を一緒に歩く相手がいる。


 その事実だけで、人生は少し温かくなる。


 直樹はそう思った。


 香澄もきっと、同じように思っている。


 最後の雨粒が傘を小さく叩き、やがて音が消えた。


 けれど二人は、すぐには帰らなかった。


 雨がやんだ夜の街を、少しだけ遠回りしながら、同じ歩幅で歩いていった。

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いつも本当にありがとうございます。これからも『雨がやんだら、君と帰ろう』をよろしくお願いいたします!

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