あの暗い部屋から、水の向こうへ。
午前7時。今日も雨だ。太陽は顔を出さず、世界は夕暮れのように暗い。ベッド脇の机にあるデジタル時計だけが、今は朝なのだと主張する。身体が重い。けれど、心は昨日よりも幾分か軽い。結局昨日寝れたのは何時だったか、記憶が途切れて思い出す事は出来ない。ただ1つ決め事をした、決心をした。だからだろう、心が少しだけ晴れているのは。もう少しすれば母親が自分を起こしにくる筈だ。いつもの決まった時間、決まったリズムで階段を登り、決まったセリフを自分に投げかける。
「おはよう……今日も行かないの?」
低いトーンで、心が詰まってるようなそんな声。悲しみとどこか苛立ちも含む声。いつもの決まった母親の声だ。
けれど、今日少し違う。いつもならここから数分間、何の理解の無い小さな口論が始まるが、今日はもう決めていた。
「おはよう、今日は行ってみる」
なぜだろうか、声が震えてしまったけれど、自分は確かにそう言った。母親は最初は驚いた、そして次第に嬉しくなったのだろう、声を涙で震わせながら、
「……そう、今日は行くのね。じゃあ、今日は雨だしお母さん車で送っていこうか?」
少し間を空けて、
「大丈夫。なんとなく歩いて行きたい気分だから」
自分はそう言った。
久しぶりに袖を通す制服はなんだか黴臭いように感じた。あまり使っていない為、まだ新品のように綺麗なサブバッグを持ち、鏡で少し髪を整える。
「酷い顔だな」
鏡に映る醜い肉の塊を見て、思わず呟く。少し前だったか、転生物の小説やアニメが流行っていた。自分も当初は転生して、全く新しい自分として人生をやり直したいと思い見漁っていたが、今はそれも無くなっている。例え転生したとしても、変わらず自分が自分である以上はまた同じような人生を送る事になるだろう。見た目が変わったからと言って、何か特別な能力を得たからと言って、この自分の腐った心が変わる訳では無い。きっとまた後悔を積み上げ、人を、世間を憎んで1人死にたくなるに違いない。だから転生なんてものに夢を見るのはやめた。
玄関を出る時、母親がお小遣いと言って、千円札をくれた。余程自分が学校に行くことが嬉しいのだろう、見たこともないほど優しい顔だった。その顔を見ると少しだけ、ほんの少しだけ心が痛んだ。決心が揺らいだ。自分が学校に行くだけで、苦しさを心に押し込めて、ただ”普通”に生きるだけで、母親を幸せに出来る。微笑み、鼻をすする母親を見た時にそれに気が付いた。自分は……自分は決心が覆らないように早足で家を出た。後ろから、
「行ってらっしゃい、気をつけてね」
母親の優しい声が聞こえた。
久しぶりに出た外は、憎たらしいほど昔と変わっていない。劣化して陥没した道路、錆びて穴が空いているトタン小屋、黒ずんだブロック塀。風は無い。濡れた土草の匂いと、傘を叩く雨音。車の走行音に学生達の話し声。変わらないそれらが、なんだか自分を緊張させた。寝癖がついていないだろうか、制服のボタンをかけ違ってはいないだろうか、身体から嫌な臭いは出ていないだろうか。変に目立っているのではないかと、自意識が妙に暴走する。
(落ち着け、落ち着け、落ち着け)
心を落ち着かせる為、軽く深呼吸をすると、吐き出す息が震えた。
家から学校までは、歩いて30分程度。家を出てすぐの大通りを真っ直ぐ進み、3つ目信号を左折すると右側に学校が見えてくる。1つ目の信号は青だった。前には同じ制服を着た男女が歩いている。2人で1つの傘に入り、男子の右肩は濡れていた。
(恋人なんて一度も出来た事が無かったな)
なんだか惨めな気持ちになる。恋人どころか、異性と話したこともあまり無い。昔から人と関わるのが苦手だった。何を話していいか分からず、話したとしても、早口でまくし立てるように自分の事ばかり話してしまう。案の定友達もおらず、そして案の定いじめられた。物理的な暴力ではなく、言葉の暴力。”キモい”、”クサい”、”シね”。よく言われた言葉だ。言葉は聞こえなくとも、ヒソヒソと誰かが会話してるのを見ると、きっと自分の悪口なのだろうと、心が締めつけられる。自意識過剰なのかもしれないが、過剰にしたのはいったい誰なのか。
時折、こんな自分にも優しく声をかけてくれる人がいる。まだ学校に行っていた頃、Aさんは落とした教科書を拾ってくれた。
「はい、落ちたよ」
そんななんてことのない言葉。けど、それがどれほど嬉しくて、胸が高鳴ったことか。優しさを知らない人間に対する優しさは劇物のようなもので、簡単に人を勘違いさせる。この人なら友達になれるのではないか、恋人になれるのではないか、自分を受け入れてくれるのではないか。そんな妄想、空想が頭を支配する。馬鹿馬鹿しいし、気持ちが悪い事だ。しかし普通の人として扱われない自分にとって、普通の人として普通の態度をとってくれる事は、何よりも欲しているものだった。だからその後Aさんが男子と一緒に手を繋ぎ帰っている姿を見て、勝手に落ち込んだし、勝手に憎んだ。身勝手な事なのは分かっている。Aさんは何も悪くない。分かってはいる、けど心が黒く染まるのは止められない。これは当たり前の事を当たり前に享受してきた人には分からない感覚なのかもしれない。
2つ目の信号は黄色だった。少し足取りが重かった。隣で信号を待っている学生が英単語の教科書を読んでいる。付箋が夥しい量貼ってあり、彼の努力が見て取れる。
(勉強も全然ダメだったな)
自分は人より理解力が無かったのかもしれない。分からない、それはただの言い訳で、ただの甘えなのかもしれないが、勉強は全くダメだった。暗記が苦手で、理解も出来ない。けれど授業はどんどん進んでいき、先生に聞こうにも、元来のコミュ障が顔を出す。一度思い切って聞いた事があるが、
「それも分からないの?」
そんな事を言われた。あの時のどうしようもない馬鹿を見る冷めきった目は未だに覚えている。そんな事があってからは誰かに聞くのでもなく、なんとか自力で理解しようと勉強した。けど、テストの結果はいつも50点前後。あぁ、自分は勉強もダメなんだと、絶望した。それから勉強はしなくなり、逃げるようにゲームにハマっていった。思えばその辺りからだ、学校に行かなくなったのは。今の時代、スマホがあれば簡単にオンラインゲームが出来る。とにかく、ひたすらに没頭した。その世界では、時間をかければ強くなれたし、特別になれた。ゲームの世界に居る時が最も人間らしくあれた。しかしそれも崩壊する。どれだけ頑張っても、課金する人や、元々頭の良い人には敵わなかった。そんな時、とても惨めな気持ちになって、ついつい暴言をチャットに書き込んでしまう。そこから自分はゲームの世界でも嫌われ者になり、居場所を失くした。子供の頃から育てられてきた劣等感が、途轍もないプライドとなって、他人を攻撃する。ダメなのは分かっていても制御出来なかった。そしてその内にゲームも辞めてしまった。そしてただ暗い部屋で黒い壁を見つめるだけの生活になった。この劣等感が無ければ、プライドが無ければ、心が無ければと思った。そのぐらいの時だったか、もういいやと思った。心の中の何かが切れた感覚がした。
3つ目の信号は赤信号だった。足取りがとても、とても重い。身体が歩くのを拒んでいるように。気付けば周りに学生は居らず、自分1人だった。スマホを見ると8時23分。朝のホームルームは8時半に始まるので、走らなければ間に合わない。この信号を左に曲がれば、学校だ。あの息苦しい牢獄だ。蠱毒の壺のような世界だ。
自分は……自分は信号を右に曲がり傘を閉じた。この信号を右に曲がると大きな橋がある。高さのある橋で、落ちれば助からないだろう。自分はそこに向かっている。橋の上に来て、川を見ると、雨で水量が増え、茶色く濁っている。轟音を上げながら水が凄まじい勢いで流れている。見ていると、決心がまた揺らいだ。
「ここまで来てビビるなよ。もういいだろう、早く終わらせよう」
自然と言葉が出る、自分を奮い立たせるように。ふと、この勇気があれば自分は変われたのかなと思う。いじめてくるヤツを殴って、否定するヤツを否定して、どれだけ人を傷付けても、自分をどこまでも肯定すれば良かったのだろうか。
「いや、それでは母さんが悲しむか」
母さんの事は煩いと思っていたが嫌いでは無かった。ただ1つ、お願いしたかったのは、自分を、このダメな自分でも、受け入れて欲しかった。
「幸せになりたかったな」
欄干を乗り越え川へ飛び降りる。
あの暗い部屋から、水の向こうへ。




